猫を追うより皿を引け
『そこまで熱烈に言われてしまっては、主将の顔を立てないといけませんね』
数日前、俺と研磨にそう話したナマエだったが、決して別れ際までいつから来るとか、そういう具体的な話はしなかった。戻りたい気持ちは本物でも、過去の重苦い経験が彼女の足を重くしているのだろう。金曜を迎えても姿を見せない彼女を迎えに行くことも考えたが、これからを長い目で見るなら己の意志で己の足で一歩を踏み出す事が必要だろう。悩んだ末に迎えた土曜の練習にも、彼女の姿は無かった。
猫又先生の声掛けで休憩に入った俺たちは、次の練習メニューを確認してはたと気づく。猫又先生にしては珍しく、休憩明けにミニゲームが入れられていた。世間話程度に珍しいですね、なんて話そうかと視線を巡らせたが、いつの間にか体育館から先生の姿は消えていた。
不意に休憩終わりを告げるブザーの音に肩が跳ねると、コーチに教官室にいる猫又監督を呼んできて欲しいと名指しで頼まれた。ああ、ナマエちゃんの代わりに他校の試合を観てるのか。ぼんやりとそんな事を思いながら教官室の扉をノックする。そんなだから虚をつかれるようなことになったんだ。
「あ、クロせんぱ、い」
朝の時点では居なかったはずのナマエちゃんが扉から姿を見せて、反射的に腕を掴んで引き寄せ、胸中におさめていた。暫くして「くるひーへふ」という間抜けな声がして漸く彼女を解放する。改めて幻覚でないか確認するように彼女の肩を掴んだまままじまじと観察する。うん、やっぱり幻覚ではなさそうだ。自分らしくない疑いをかける程度には、驚いていたし、そんな自分が存在する事にも驚いた。
「いやぁ、若いね。でも外では程々にしろよ」
ぴしり、と音を立てて固まる。そうだ、俺監督を呼びに来たんだったわ。てことは当然猫又先生改めお祖父様に見られていたわけで。バレー中とは違う、嫌な汗が一気に吹き出してきた。恐れ多くて目が合わせられない。
ふと彷徨っていた視線が机上のノートとDVDの山を捉える。その足元にはずっと中身不明のまま山本が運ばされてた段ボール。もしやその中身全てが試合の記録で、ナマエちゃんはずっと溜まりに溜まったそれらを纏めていたのだろうか。既に見たと思われるディスクには『済』の文字とチェックした日付が書かれた付箋が丁寧に貼られていた。今日以外の日付もある事に気がついて、気づけばそれを手にとってじっと見つめていた。
「お前さんにお遣いを頼んだ日に電話を寄越してきてね。居なかった間の仕事をするまでは戻らないなんて言うんだよ。今日は流石に部屋から引っ張り出したがね」
「だって……ただ戻るのは許せなくて……」
「別に働きすぎなお前を責める奴なんかいねぇ。お前を一番責めるのは、いつだってお前自身なんだから。なぁ?黒尾」
彼女らしい理由に首肯することしか出来なかった。日頃からやってる事が他校のマネージャーとは別物なのだ。まるで二人目のコーチのような、特別な存在。勿論居てくれた方が断然良いに決まってる。けれど休みは誰しも等しく必要だ。彼女の場合は特に、趣味と仕事の境目が曖昧な分、余計に。
「この後はミニゲームで久々にナマエに部員達の"観察"をしてもらおう。リエーフもまだまだだが、それなりに形にはなってきた。……ただすぐ始められそうにないな。先に行って準備だけしておくれ」
「分かった、組み分けは?」
「ワシが戻ったらやるから、とりあえず体育館先行ってなさい」
何か言いたげに俺に視線を寄越したナマエちゃんだったが、失礼しました、と頭を下げてタブレット片手に教官室を出て行ってしまった。なら俺も、と思ったところで猫又先生に呼び止められる。
「ワシがどれだけ話しても戻らないと一貫していたあの子が、お前が訪ねた日の夜急に電話を寄越したんだよ。未記入分のDVDありったけ持ってきてってなぁ。一体どんな口説き文句で落としたんだい?」
「……部員の総意を伝えたまでですよ」
「ワシもいい加減孫離れの時かねぇ。寂しくなる」
そう言いながら此方を窺い見る先生はちっとも寂しそうではなく、むしろ安心した様子にさえ見えた。先生と彼女の間でどんな会話があったのか、詳細なことはわからない。ただひとつ分かったのは、俺の言葉でやっと帰ってきてくれたという、自惚れにも近い確信だった。
この日の休憩明けは、ナマエちゃんの帰還を喜ぶむさ苦しい阿鼻叫喚(歓喜なんてレベルじゃ無かった)で、なかなかミニゲームが始められなかったが、止めに入る事もせず見守っている猫又先生を見て、ここまで予想した上でのメニューだったのか、と音駒のボス猫の恐ろしさを再確認した。