白猫の牙の剥き方


「ただいまークロ先輩と研磨くんご来店でーす」
「おおおかえり、二人はご苦労だったな」
「イーエ、奥様の鯖の味噌煮美味いんで」
「……お邪魔します、監督」

 二人を連れて家路につくと、玄関先ではおじいちゃんが出迎えてくれた。始めはクロ先輩だけ来るかと思っていたけど、私が最近希少なゲームを手に入れた話をしたらもれなく研磨くんも釣れた。学校で話すつもりだったけど、せっかくならこの機会にと話題にしてみたが、彼の心を掴むには充分だったようだ。
 何度か来た事のある二人は慣れた様子で荷物を下ろして手を洗いに洗面所へと向かった。私は失礼して台所で手洗いを済ませて自室にリュックをおろす。その足でお客さん用の座布団を引っ張り出し、それからおばあちゃんの配膳の手伝いをしようとしたが、それは研磨くん達に止められてしまった。

「配膳くらいやるよ……それより先済ませてきなよ。監督待ってるよ」
「そーよナマエチャン、身体大事にしな」
「……ありがとう、そうします」

 帰って来て必ずやるのは、おじいちゃんに足の調子を診てもらうこと。併せて全身の調子も診てもらう。怪我した箇所を庇う様に、他の箇所に不要な負荷がかかってしまう事がある。経過をみて貰って、お風呂上がりのストレッチメニューが決まるのがルーティンだ。
 遠征先でも変わらぬルーティンなので、クロ先輩達も把握している。はたから見たら過保護じゃないか、不安にもなるけれど、人目を気にしなくて良いとクロ先輩は言ってくれた。それがどれだけ私の救いになっているか、きっとクロ先輩は知らないんだろう。

「ナマエ、クロ達に頼る事は決して甘えではないよ。研磨もな。だから信じてやりな」
「……うん、分かってるよ」





「遠征、宮城行くってもしかして烏野?」
「も、ある。けど他もお邪魔する予定だね」

 食後の腹休めでお茶を啜っていると、おじいちゃん改め猫又監督からそんな話が出た。中々の長距離移動だな……と少しだけげんなりする。まあ県外の高校と練習試合ができるのは貴重な機会なので、文句は言うまい。

「それにしても、おじいちゃん監督復帰してから凄く楽しそうだね」
「楽しくないワケないだろう?まぁ、もう少し研磨が動いてくれたらとは思うがね」
「疲れるからヤダ……」
「研磨くんはそうよね。あとはリエーフのレシーブかなぁ……」
「そこは上手く面倒見てやってくれ」
「夜久先輩が絶賛御指南されてるのに?」
「やっくんだと逃げ腰になるからなぁアイツ……ナマエチャン相手なら真面目にやるんじゃね?」

 様子を窺うような二人の視線が向けられ、おじいちゃんの目が笑って猫の様に細くなる。言いたい事は分かっているし、自分でも何事もない様に振る舞っているけれど、やはり一度経験した傷はそう簡単に癒えてはくれないのだ。
 ……まあ、何度も飛び跳ねるような事をしなければ、練習の付き合いぐらいはできる。リエーフのレシーブ練習なら充分出来るだろう。

「コートの中の脳が研磨だとしたら、お前はコート外の脳だと思っているよ。無理強いはせん。ただ、少しだけ祖父の我儘を聞いてくれんか」

 全部を知った上で、私なら出来ると信じて言葉を選んでくれているのが伝わる。血は争えないとはこういう事を言うのだろうか。私は仕方ないなぁ、とオーバーリアクションで肩を落としてみる。頃合いを見ておばあちゃんが持ってきてくれた桜餅は、クロ先輩に研磨くんもいたからか、いつも以上に美味しく感じた。





「今日の自主練、リエーフは私が見るからね」
「えっ!!ナマエ先輩と?!!」

 リエーフ、哀れなり。意気込む後ろ姿に夜久がそう心中で思いつつも言葉にしないのは、奴をレシーブ練習から逃さない為である。ナマエとアイコンタクトをしてから口パクで「頼んだ」と伝えれば、監督譲りの猫っ気のある笑みが返ってくる。……今日は厄日かもな、リエーフ。強く生きろ。

「リエーフ、レシーブを笑う者はレシーブに泣くのよ」
「夜久先輩!夜久先輩と練習します!!」
「夜久先輩の貴重な練習時間を奪って楽しい?」

 こわ。笑顔を絶やさず、けれど確実に刺さる言葉選びをするナマエに捕縛されているリエーフに一同は同情するしかなかった。ていうかあの巨体を首根っこ掴むだけで微動だにせず逃さないってどんなパワーだよ、磁石?磁石で床とナマエくっついてるの?リエーフにひたすら呼ばれ続け集中力が削がれた夜久は溜め息混じりに説く。

「お前最初はあんな喜んでたじゃん、何が嫌なワケ?ナマエも間違った事なーんも言ってねぇじゃん」
「全部同じ場所に来るスパイクも返せないの?って笑顔で言われたんです!!怖い!!!」
「え、ナマエお前、いつの間にそこまでコントロール良くなったんだ?」
「まあ、プライドですかね。あと根性少々」
「ナマエチャン、バレーじゃなくて料理してたの?」

 掴まれていた首根っこをパッと離された事でリエーフは直線上に吹っ飛んでいったが、そんなのお構い無しに会話は続けられる。皆集中力の限界なのだろう。時間も頃合いだからと各々片付けながらナマエに話しかける。

「いやぁ、ホントナマエちゃんのバレー愛凄いヨネ。やっぱり監督譲りなのかな?」
「うーん、それもありますけど、両親への反抗が一番かなぁ」
「あー、実家飛び出して監督の家居るって話してたもんな。まだ帰ってないんだ?」
「やだなー夜久先輩、一生帰る気ないですよ!出来るなら養子縁組して苗字捨てたいくらいです」
「ワー……イイエガオダナ〜」

 バッサリと言い切る彼女に思わず黒尾は本音が漏れる。ちなみにここまで込み入った話を知っているのは、部員の中でも現三年と研磨の4人だけである。詳しく知らない面々は、触れてはならぬと感じたのか特に聞く事はしない。いつもなら空気を読まないリエーフも、今日だけは震えながら両手で口を塞いでいた。ウン、それがいいと思うヨ。

 彼女は中学最後の大会がきっかけで後遺症の残る大きな怪我をした。それは足の怪我だけではなく、多方面からの、言葉の暴力。それは悲しいかな、両親も例外ではなかった。
 思い詰めたナマエは最低限の荷物を持って飛び出し、監督の家を訪ねてことの全てをぶちまけてから、「親に価値がないと言われた気がして、辛い、死にたい」と言ったらしい。そこまで追い詰められていると知らなかった自分を責めたよ、と寂しそうに監督が呟いたのを未だに忘れられずにいる。

 監督のススメで音駒に進学したナマエは、不幸にも中学時代県大会で負かした中学の生徒が同学年に存在した。あっという間に悪意ある噂が立ち、時には酷い尾ひれのついたものもあった。とはいえ、一度会ってしまえばその噂全てが嘘のハリボテだと分かるほどに、彼女は強かだった。絶やさぬ微笑みは、彼女の鉄壁の防御だったのだ。
 段々と分が悪くなった噂の主は、他の女子や既に引退した男子バレー部の奴まで連れて、呼び出したナマエに罵詈雑言を言い放ったのだ。元々バレー部の先輩達は研磨やナマエの事を快く思っておらず日頃から当たりが強かったので、ナマエも流石に辟易したのだろう。窓から見えた彼女の顔には「呆れた」とはっきり書かれていた。一人を数人で囲う様子を見ていられなかった俺は駆けつけようと席を立ったが、それを止めたのは海だった。「何も心配要らない、彼女は強いから」夜っくんもニタリと笑いながらナマエの様子を見ていた。

「あなた達はまだバレーが出来る体なのに、こんな事に時間を浪費して……馬鹿だとは思わないの?ああ馬鹿か。じゃなきゃ態々裏で無いことを言いふらしたり1人を囲んでアレコレ言うなんて、こんな幼稚な事しないもの。私だったら一本でも多くサーブ練習するけどね。あなた達そろそろ頑張らないとコート上での存在が無駄になるんじゃない?」

 揺るぎない瞳は、最後の最後に見慣れた監督の笑みを浮かべる。細められた目は確実に自身を囲った面々を見下していた。
 どこか妖艶さを孕む視線は決して此方に向けられているわけではないのに、しっかりと俺の芯の部分を貫いた。そんな顔も出来たのか。目が逸らせないまま見守っていると、一歩、前へと踏み出す彼女に合わせて、囲んでいた周囲が一歩仰反る。

「あ!なんなら私と同じ様に足の骨砕いてみる?きっと二度とそんな事言えなくなるから。何事も経験、って言いますもんね。誰からやりますか?」

 場の空気が一気に氷点下まで下がったのかと疑うぐらい、全員が震えている。狂ってる。直感的にそう感じたのは見守っていた3人も同じで、夜久はいよいよ我慢ならんと笑いだす。海は海で「流石だなぁ」なんて微笑んでいた。イヤイヤイヤ、カタギの言う台詞じゃないのよナマエチャン。蜘蛛の子散る様に彼女から逃げていく姿を見て、いよいよ黒尾も笑い出した。
 転んでもタダでは起きない、それが我らがマネージャー苗字ナマエなのである。

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