パーカーの裾で汗を拭いながら、俺は渋谷での一件から改めてナマエさんの鋭さを痛感していた。少しでも自己嫌悪になりかけると彼女の声で現実に引き戻される。絶妙なタイミングに毎度驚くと話すと、乙骨先輩は「あの人らしいね」と苦笑気味に言っていた。きっと先輩にも経験があるのだろう。
 曰く、先輩も俺に似た境遇だった時期があるらしく、ある種のお目付役としてそばに居てくれたのだとか。それが五条先生からの頼みだったのか本人の意志なのかは知らされていないが、きっとナマエさんのことだ、頼まれずともおのずとそうなっていただろうというのが先輩と俺の共通認識だ。
 死滅回游でコロニー内にいた頃も、俺たちが中での戦いに集中出来るようにと外でのことは殆ど一人で対応していたと言うから、思わず間抜けな声が出たのは記憶に新しい。そりゃまた縮んでしまうわけだ。

「まぁ、アイツは悲しむって感情を理解ってないからなぁ。今も旦那といるよりも他の奴らのメンタルケアに回ってる感じだろ」
「硝子サンって、ナマエさんたちとタメなんだっけ?」
「そ。まークズ二人はさておき、ナマエは今も昔もあんな感じだよ。根っこの部分は変わってないね」

 人誑しでお人好し、ニッと悪い顔で笑った硝子さんは何処か楽しそうだ。

「なあに?悠仁くんたち内緒話?」
「お、噂をすればナマエじゃん」
「わ、硝子ちゃんからハグなんて珍しい!熱でもあるの?」
「うるせー、要らん心配ばっかさせやがって」
「えぇ……否定はしないけど何の話してたの、って頭わしゃわしゃやめて〜!」

 言葉とは正反対の、まるで戯れ合いを楽しんでいるような無邪気な笑みに思わず表情筋が緩む。これではどちらが年上か分からないな、なんて、口が裂けても言えない。

「……って、顔してんね悠仁」
「勝手に代弁すんのやめてくんない先生?!」
「メンゴメンゴ」
「お、噂をしてもクズは来なくていいぞ五条」
「酷?!ねぇナマエからも言ってよー」
「事実悟くんクズだからなぁ……」

 困り顔でバッサリ切り捨てたナマエさんの容赦の無さは、先生達曰く夜蛾学長に似たらしい。育ての親って言ってたもんな。一人ごちるとはて、この二人は何用で来たのだろうと、問うような視線を送る。ナマエさんは単純に硝子さんに食事を運んできただけとのこと。

「先生は?俺席外した方がいーやつ?」
「……悠仁くん、組み手見てあげるから行かない?私たちには関わりのない話のはずだから」
「え、まじで?!あざっす!」

 にこやかに部屋の戸を開けて退室を促すナマエさんは、はやくはやくと急かす。能天気な俺は先生達の様子に一切気付かずに組み手で散々投げられることになるんだけど、ナマエさんはどんな気持ちで誘ってくれたのだろうかと、気付いたのは随分後のことだった。





 そこはかとなく察したナマエが悠仁を連れて離席して、部屋に残されたのは硝子と俺の二人だけ。こぽこぽと湯を沸かす音が静寂を僅かに揺さぶっていた。何から話そうか逡巡していると、先に硝子が口を開く。

「お前何してんの?ナマエこのままじゃ潰れるぞ」
「うわどストレートに痛いとこだけ触れるじゃん」
「当たり前だろう。夜蛾センが死んで、次はお前もってなる可能性があるんだぞ。どっかのクズが封印されてる間もあの子は、親を亡くしたことを嘆かずにひたすら祓い続けたんだ。私にぐらい、隠してることを話してもいーんじゃないのか?」

 普段伏目がちで開き切らない硝子の瞳が真っ直ぐ五条へと向けられる。ああ、やっぱり隠しきれないか。とはいえナマエ自身は自分で気づいて行動しているし、今だって似た境遇の悠仁を連れて話す時間をくれた。
 ナマエは天元と、悠仁は宿儺と色濃く繋がっている。特にナマエに至っては、死滅回游が始まった直後のコロニー生成過程において日本全土を守護する天元の結界を通して至る場所の情報を汲み取ることが出来てしまう。加えて言えば、天元を連れている敵に此方の情報が伝わる可能性も否めない。悠仁もその点では長いこと両面宿儺の檻として繋がりを持っていたことから、こちらも可能性がゼロとは言えない。
 悠仁は必要な戦略なので、伝わっては困る事は本人の前で話す事はしない。しかし、結界術に長けており、また最悪のケースを考慮した時。つまり呪霊が完成してしまった時に相打ち覚悟で臨めるのはナマエしかいない。何より情報の伝わる可能性は悠仁よりも遥かに高い。ならば作戦に関する事は伝えず、他にソースを割いてもらうのが妥当だ。

「ってのが日下部さんと僕の間で出した結論ってワケ」
「……アイツは、ナマエは相打ちでは済まないと分かってるだろう?」
「さあ?やってみないことには何とも言えないね」

 嘘だ。あれだけ術式で消耗してしまったのだから、彼女は当分戦線に立つことも本来は許されない。だから、どうしても呪霊が完成する前に、この死滅回游を終わらせなければならない。

「ナマエは死なせない、だから硝子、」
「死んだ後の話をしたらぶっ飛ばす。黙ってやること済まして木端になってでも生きろ。あとは私が意地でも治してやる。死なれたら反転は効かないからな」

 硝子も色んな事情を分かった上で、けれど可能性があるうちは死ぬていで話す事は許してくれないらしい。思わず苦笑が漏れる。硝子も僕も、ナマエのこととなると弱くていけない。
 ぶっ飛ばされるのは御免なので、軽く諸連絡だけ伝えて僕は再び皆の元へと戻る。死へのカウントダウンはもう始まっていた。



シーラカンスの亡命


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