そっとてのひらで地面に触れて、ゆっくりと呪力を循環させていく。閉じていた瞼を開くと同時にてのひらも上着のポケットへと仕舞い込んだ。死滅回游が始まったあの日、私の術式に大きな解釈の変化が起きた。元々結界術は得意であったが、まさか天元様の結界という"地脈"を通じて日本各地の状況を(流石に完全に網羅とはではいかずとも)把握できるようになってしまった。コロニー内の事は皆に任せて、私は初日に得た情報を元に優先度の高いコロニー外の呪霊を祓って回る事に専念した。途中、ルールの追加によりコロニーに入る事も考えたが、あの子達なら大丈夫だと言い聞かせて再び奔走することを選んだ。
 だから、恵くんが、悠仁くんが、辛い思いをした場に介入出来なかったのは止むを得ないと分かっている。分かっているけれど、私がそれで自分を許せる人間ではないのはきっと悟くんも悠仁くんも、他の皆も知るところだろう。

「(…私が同化してたら、何か変わったのかな)」

 己の、そして術式の存在意義は、星漿体不在の時の所謂ストック的立ち位置であることだった。にも関わらず、天元様曰く「もう同化は難しい」と、人ではない存在に昇華してしまったのだと言われた。ならば、私は何の為に存在するのだろうか。日下部さんと悟くんには口酸っぱく「お前が戦うのは呪霊が生まれてしまった時だ」と言われている。
 ……じゃあ、両面宿儺と戦うみんながどれだけ傷つこうが、見ていろと。そう言っているのと同義じゃないか。握り込んだ指先が血色悪く白いのなんて気にもせず、やりきれない思いを込めて更地となった渋谷駅前で瓦礫を蹴った。





「みんなー、おむすび出来たから取りに来てー」

 結局はやれる事を見つけてやるしかないと言い聞かせて、特訓に勤しむ皆に声をかけた。ふててばかりいても仕方ない。備蓄された食糧の残りと睨めっこして、今日はここまでなら出して良かろうと、決めた分だけ米を炊く。人数が人数なので炊飯器ではなく大鍋で一気にだ。具の無い味噌汁は紙コップに注いで、おむすびもラップに包まっている。いくら万が一を考えられた場所とはいえ、このライフラインでは水を使うのは最小限に抑えたい。
 ぞろぞろと集まったみんなは中身の異なるおむすびを2つ3つ、それから欲しい人だけ紙コップを持って食べ始める。束の間の憩いの時間に見せる皆の笑顔にほっと胸を撫で下ろす。

「こんぶ!」
「ああ棘くん、おむすびまだあるよ。欲しいやつがなければまだ作れるけど」

 炊いた米の残りからしてあと3つは作れるだろう。大人数の食事をほぼ一人で調理していた私に労いの言葉をかけた棘くんは、暫しの沈黙の後、眉を顰めて不満気に「いくらぁ……」と呟いていた。え、どういうこと?

「ナマエさんが自分のこと卑下してるって怒ってるんですよ」
「えぇ〜…別にそんなんじゃないよ、出来ることが少ないのは事実じゃない。でしょ?憂太」
「しゃけしゃけ!いくらぁ!!」
「そういう事じゃないと僕も思いますよ」

 苦笑気味に、けれど少し呆れまじりな笑い方が少しだけ悟くんに似てるなぁ……なんて思いながら、でも事実は事実、受け入れる他ないだろうと私は残ったご飯を整えて次の食事に回せるように手を動かす。空になった鍋はこの縮んだ身体ではいささか洗うのに苦労するが、台座があればなんてことはない。二人の視線を感じながら慣れた手つきで洗っていく。なんだかんだこの背丈の時期が一番長かったから、寧ろしっくりきてしまうのがなんとも笑えてしまう。

「鍋ぐれー男共に洗わせとけよナマエ」
「そこで代わるよじゃないのが真希ちゃんらしいねぇ」
「こないだやったら不満気だっただろ」
「だって真希ちゃん、お水じゃばじゃば使うんだもの」

 しかも出しっぱなし、と言えば遮るようにへいへいと返されてしまった。忙しなく動かしていた手を止め、水気を拭ったその流れで真希ちゃんの頬に触れた。彼女の顔にはもう見慣れた眼鏡は存在しない。代わりに見慣れない、見慣れたくもない数多の傷が残されていた。
 渋谷事変で起こった五条悟の封印により、上層部や御三家のくだらない争いが起こった。ある意味死滅回游よりも酷いものだったといえよう。彼女はその被害者の一人だ。妹を失った悲しみを抱えながら、懸命に生き残ってくれたことを幸いと思っていいのだろうか。世の中、死んだ方がマシなことなんて山程ある。

「みんな、お夜食欲しくなったら声かけてね。勝手に備蓄漁っちゃ駄目よ?」
「いくら?」
「悟じゃねーんだからンなことしねぇよ」
「真希さんは先生を何だと思ってるの……」
「お話中すまない、少し構わないだろうか」

 静かに、何処か仄暗さを感じさせる声色でそう声をかけてきたのは、弁護士の日車さんだった。私はごみ処理だけ憂太たちに任せて、日車さんを連れて屋上へと向かう。はたして今日は、どんな空模様が見えるだろうか。





「日車さん、最近調子は如何ですか?」
「進捗は悪くないかと」
「良いと言い切らないあたりが日車さんらしいですねぇ」

 ふくふくと笑うと、ほんの少しだけ、本当に微細な変化だが、日車さんも笑った。彼はコロニー内で悠仁くんと一戦交えたと聞いたが、流石は悠仁くん。人に良い意味で影響を与えるのが上手い。本人は無自覚なのだろうけれど、ここまで日車さんが精力的に取り組んでくれているのは、矢張り先んじて悠仁くんとの接触があったからだろう。しかし彼にはひとつ、問題があった。

「今日も生き残ってしまったと、そう思ってるんですね」
「……本来なら私は裁かれるべき立場だ」
「だとしても今、この瞬間生きている事は罪ではありません。それで言ったら悠仁くんだって死罪です」
「渋谷の大量虐殺……あれは彼がやったわけではないだろう」
「それを言うなら貴方だって意図して術式を使ったわけじゃないでしょう?」

 日車さんの術式が初めて顕現した日。彼は裁判の真っ只中だったという。あまりにも不平な内容に気持ちが乱れたその時、無意識的に発現した術式は人を殺めてしまった。それこそ不可抗力だ。
 今日は如何過ごしたかを訊ねては、死に急ぐ彼の話に耳を傾けるのがここ最近のお決まりとなっていた。他にもやれる事はあるが、幾つか用意している作戦のひとつに、彼の存在が不可欠なものがあると悟くんに言われた。それだけで何を求められているのか、察するには充分だった。

「死に急ぐ人間は、この戦いでは生き残れません。それこそ己の使命を果たせぬまま。それでも貴方は自身を赦せますか?」
「……本当に貴方は核心をついてくる。それだけ弁が立つなら弁護士になれる」
「仮に中身はなれたとしても、見てくれが駄目でしょう」

 実年齢から随分離れてしまった自身の見た目では、成人していると訴えても信じてもらうのは困難だろう。すんなり受け入れた日車さんたちの方がおかしいのだ。イカれている、という点では日車さんはもう立派な術師だろう。覚醒して間もないというのに、すっかり戦い慣れしてきているのがその証拠だ。

「……父が生きていたらきっと嬉々として貴方を入学させたでしょうね」
「高専とはいえ私が男子校生、それこそキツいだろう」
「ふふ、私は歓迎しますけどねぇ」

 夜風が伸びた後ろ髪を攫ってゆく。亡き父に思いを馳せながら、私は日車さんと再び奔走の場に戻るのだった。



夜さりが君を攫ってゆくまで


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