「どこにいくのかな?…ナマエ」
「……悟、くん」
寝静まった夜半、朝食の仕込みを済ませたであろうナマエは、素足で音を立てぬようこの場を出て行こうとしていた。数日は見て見ぬフリをしてやったが、流石にここが限界だろう。抱き抱えられたいつものショートブーツは、月明かりに照らされて痛ましい数の傷がついていた。
「てかタイツは?なんで素足なの?そんなんじゃ靴擦れしない?」
「下手に穴あきだと引っ掛けて戦闘に支障が出るから……ストックも切らしてるから」
「じゃあせめて靴下履きなさいよ靴下」
珍しく面倒くさそうな顔でこちらを見上げている彼女は、応答こそしているが、隙さえあれば外に出る気満々である。僕達は宿儺との戦いに備えているが、決して呪いが無くなったわけではない。彼女は夜な夜な抜け出しては睡眠を削って祓い続けていたのだ。そして明け方には何事もなかったように皆に朝食を振る舞うのだ。戻るのがギリギリ、最悪間に合わなくてもいいように殆ど完成した状態で置いてあるのだから、呆れたものである。
「……悟くん達に出来ないことを、私にはやる義務がある。それこそ正道の分も、私はやらなきゃいけない」
「勝手に背負うなよ、夜蛾センもそんなこと望んじゃいねぇだろ」
「私は夜蛾正道に二度目の生を与えられたの。なのに、お別れも言えないなんて、こんなことってないよ……!!」
結界師として不遇だった幼少期から救ってくれた学長に、父として、いやそれ以上の神様のような存在として愛していた者の死。傑を失った時には無かった感情が、今彼女の中に宿っている。だからこそ大粒の涙が頬を伝っては彼女の服を濡らしてゆくのだろう。
叶うなら抱き留めてしまいたい。それこそ泣き止むまで、いつまでも。けれど、今の僕達はそれが叶わない。今の呪力の乱れ切ったナマエに触れて、万が一こちらの作戦が敵に知れたらことだ。声をかけるまでもなく、抱き留めて寝床へ連れて行ってしまえば良かったものを、そう出来なかったのもこの憎たらしい現状の所為だ。
ふわりと前髪が揺れてハッと我にかえる。目の前に居たはずのナマエは、もう何処にもいなかった。
「まぁ、ナマエらしいな。随分人間らしくなってきたんじゃないか?お前が死んでも泣いてくれるぞ、良かったじゃないか」
「硝子お前なぁ……」
笑えないことを淡々と話す級友はどうやら彼女の肩を持つ気のようだ。封印されていた間のナマエの様子を把握している唯一の人間である硝子は、此度の件で夜蛾学長とその娘であるナマエが命を狙われ、夜蛾学長はナマエにていよくコロニー外の呪霊の一掃を申しつけて逃したらしい。その事に気づいて東京へと戻ってきた彼女の顔は、とても見ていられなかったと云う。
「誰かさんが目の前で封印されて、夜蛾学長も……自棄にならずに冷静にいるだけ大したもんだと思うけどね、私は」
「そりゃあ封印されたのは不可抗力っつーか」
「聞いた話じゃ?ナマエはすぐに中身が違うと気づいたのに、素晴らしい瞳をお持ちの誰かさんは気づけはしたが気を取られたとか?」
「そりゃ自分で手にかけた相手がいたら無理だろ」
「……最初に避けたのは確かにあの子かもしれないが、先に折れるべきがどちらかなんてわかりきったことだろう。いい加減私に甘えるな。ナマエはきちんと選択したぞ」
話はここまでだと言わんばかりに捲し立てられて思わず言葉に詰まる。アイツが避けた理由は自責の念と作戦漏洩を危惧してのことだ。
(じゃあ自分は?)
硝子の投げかけた言葉は正しい。こちらが折れるべきなのだ。ましてや残り僅かな時間しか許されないことも踏まえると、少しでも早く。あの小さな背中に沢山のものを背負い過ぎている彼女を、掬い上げてやるのは僕でなきゃいけない。僕以外になんて譲れない。なのに、どうして。今は彼女が酷く遠く感じて仕方がないんだ。
「……もう入ってきていーぞ」
「硝子ちゃんありがとう、だいぶ参ってたね」
「ナマエの呪力に気づかない程度には参ってるな」
どこか楽しそうにクスクスと笑いながら、コーヒーメーカーにおかわりを取りに行ってしまった硝子ちゃんを傍目に、私は救護室のベッドに勢いよく横たわる。目を瞑ればすぐにでも眠れそうだが、朝の早いわんぱくぼうずたちに食事を出さなければならない。私は瞬きを繰り返してなんとか眠気を逃がそうとする。
「まだ時間ヘーキだろ。時間になったら起こしてやるからそのまま寝てな」
「……起こされても起きれる自信ない」
「そン時は私が代わりにやっとく。いいから寝ろ。私でも分かるぐらい呪力の乱れが酷いぞお前。最後に寝たのはいつ?何時間?」
ここ暫くの期間を遡って答えると、硝子ちゃんに「それは睡眠とは言わない」とバッサリと切られた。事実仮眠をマメに挟む程度で纏まった時間寝るという事はしていなかったが、それでも支障無かったからそうしていただけで、決して無茶をしたつもりは毛頭ない。
「無自覚が一番ヤバイからな、主治医命令。大人しく寝な……おやすみ、ナマエ」
そういって軽々ベッドに綺麗に横にされた私は、瞼を閉じた彼女の手のひらの温もりに誘われて、抗えるわけもなく深い眠りへと落ちていった。