この閉鎖的な空間でも、長年見慣れた双眼は青空の様に蒼く澄んでいる。そんな瞳も今は瞼と長い睫毛に覆われて、見ることは叶わないのだけれど。
昨夜たまらず流れた涙は、今までのことが何でもなかったかのように悟くんに抱きしめられて、彼の服が全てを吸い取ってしまった。一体これまで何のために接触を避けてきたのか、まるで意味がないじゃないか。冷静であればそう言えたであろう。でも昨夜はそうじゃなかった。いや、ずっと限界だった。限界である事に蓋をしていた。一度溢れてしまえば悲しみを自覚する前には戻れないと、知っていたから。
そのまま抱き上げられて彼の寝床まで連行されてからは、あっという間だった。抱え込んでいたものを全て流し出すように、泣いた。いまこの世界で一番安全であろう彼の腕の中で、声も涙も感情も、すべてが枯れるまで泣いた。大切な人達を亡くした。守れなかった自分をずっと責めていた。己の身を顧みることのない日々の祓霊は、自傷行為に近いものだったのかもしれない。どこまで己の身を差し出そうが、何処かで悲しみが減るならそれでいい。そうでもしてなければ存在意義を見出せなかった。許せなかった。……貴方の隣に並べなかった。
「……わたし、いてもいいの?」
「ハハッ、良いに決まってるだろ」
起きていたのか。閉じたままの瞼と睫毛は、彼が笑うのに合わせて揺れる。散々悩んだことをこうも容易く言われてしまうのは癪だが、ゆっくりと開かれた蒼眼に、私は思考することを放棄してしまった。
「お前が生きてるだけで頑張れる奴らがどれだけいるかさぁ……もーちょい自覚したら?」
「自惚れられない人間って知ってるくせに」
「名前挙げてくか?俺だろー、悠仁、憂太、」
「いい、いい。悟くんが必要としてくれればそれだけで、いい……」
「………サイコーの殺し文句じゃん」
そんな台詞、何処で覚えたの?
私の前髪をゆったりとした動作で持ち上げた彼の唇が、そう問いながら緩慢な仕草で降ってくる。上体を少し起こした時に滑り落ちたシーツから未だ彼の白い素肌が剥き出しである理由は、これまた未だ起き上がることも叶いそうに無い私の身体が答えだった。
「………うわぁ」
「硝子ちゃん、露骨に嫌そうにしないでよ」
「ナマエという癒しが穢された、祓うしかない」
「硝子ちゃん治療専門じゃないの……」
私にマーキングの如くこびりついているであろう悟くんの呪力に、明らかにウンザリとした様子の硝子ちゃん。まあ彼女ならもっと細部まで見る目があるから、余計になのだろう。
「一応聞くけど、痛みは?」
「死ぬかと思ったよ、とだけ」
「そりゃその身体のサイズじゃあねぇ……」
裂けて死ぬのではと思ったが全然そんな事はなく、人体の神秘をまざまざと魅せられた。ただ二度と御免だとは思ったが。閑話休題。
「で?クズは何だって?」
「うん、みんなの組手の相手をしてくれって言ってた。あとはこれまで通り。夜の外出は禁止されたけど」
「そりゃそーだ。よく待った方だと思うよ?クズにしてはさぁ。五条の方から無理やり引き留めると思ってた」
「忙しくてそんな暇無かったんだよ……」
「違うでしょ。後ろめたかっただけだろ」
はっ、と鼻で笑った硝子ちゃんは椅子の背もたれをギィと鳴らしてしばし思考を巡らせているようだった。次の句を待っていると、突如視界が浮上してバランスを崩しかけたが、なんとか倒れ込むことも落ちることもなく肩車された。グッジョブ私の腹筋。
「ナマエさん!俺との組手の時間すぎてますよ!早く早く!」
「……悠仁くん、自分の身長いつもと違うの自覚してから肩車して。怖すぎ」
「そこは肩車を止めねーのかよ」
カラカラと笑う硝子に片手で追い払われた。私は悠仁くんに担がれたまま、身体と魂がちぐはぐな彼と廊下を進んで行く。いつもより高い視線に、いつかの切れ長な目と黒髪を思い出したのは、きっと偶然じゃない。
決戦の日は、そう遠くない。
それはつまり"彼"との再会を意味する。目前で封印を止められなかった私を嘲笑った、同級の皮を被った憎き彼。魂しか無いから彼と呼称して良いのかも怪しいが、名前を呼ぶのも憚られた。そんな彼らと対峙すべく今日も高専組はハイペースで"仕上げて"いた。
「……改めて見ると魂と身体がちぐはぐまみれで酔いそう、名札つけない?」
「そんなダセェこと言うな。慣れろ」
「日下部さん手厳しい……」
「"夜遊び"を黙認してきてやったんだ、仕置きにしては激甘だろーがよ」
わしゃわしゃと私の頭を掻き混ぜた日下部さんの手は優しい。きっと正道のことで負い目があるのだろう。ことの経緯を知っている者ならば、どうしようもなかった事だと分かっているのに、どうして日下部さんといい悟くんといい、私に対してそんな甘いのだろう。仮にも中身は悟くん達と同じ年月を過ごしている良い大人だというのに、だ。
「それはそれじゃないっスか?」
「悠仁くんまで〜……」
「俺とじいちゃんがそうだったみたいに、やっぱ家族が居なくなるって辛いっスから」
家族や近しい者を失った事がある彼らは、私がどれだけ正道を父として愛していたかを知っている。あの日出会うことがなければ、迎えが彼でなければ、今の私は存在し得ないことを知っている。だから、負い目を背負うと言うのだろうか。それはなんというか。
「傲慢だね」
人間は自分1人分しか背負えないのに。そう思いながらも背負うなとは言えなかった。大概私も傲慢であることを、嫌というほど理解していたから。
目を瞑ってまだ褪せてない大きな背中を思い浮かべて、一度だけ、深呼吸をした。さあ、今日も生き残る為の"授業"をしようじゃないか。