「雨の匂いがするなぁ」
『ほんと?天気予報は晴れだったけど……』
「もしかしたら崩れるかも〜出来れば次のシフトの人は帰宅までトリオン体のままが良いかもです」
『沢村了解、いつも有難うナマエちゃん』
「……迅さんは何も言ってなかったですか?」
ゆったりとした会話が無線越しに交わされているが、現場の彼女は絶賛戦闘中だ。しかもその小さな身体に不釣り合いな太刀を盛大に振るいながら、他者の心配をする余裕さえある。
彼女の名前はナマエ。ここ三門市にある界境防衛機関に所属する戦闘員の一人で、稀少な黒トリガーの使い手だ。そして先のやり取りに出た「迅悠一」もまた、黒トリガーの使用者である。
ナマエが問うたのは、おそらく彼のサイドエフェクトが未来予知であることを知っているからだろう。今頃何処かで趣味の暗躍をこなしている筈の彼なら、雨が降るか否か分かっていそうなものだとナマエは頭をこてんと傾けた。
「あ、きた、雨だ……」
トドメのひと刺しをしてふと鼻先に小さな感触を覚えたナマエは、緩慢な動作で空を見上げた。ぽつりぽつりと落ち始めた雨粒は、あっという間にザァザァと"あの日"を思い出す大雨へと変わった。思わず顔を顰めたことに、当の本人は気付いてはいない。
トリガーを仕舞い既に瓦礫と成り果てたトリオン兵から降り、引き継ぎの為次のシフト番を待つ。本来夜のシフトは年齢が比較的高い隊員が担当するが、ナマエは特例でしばしば呼ばれる事も少なくなかった。本来ならまだ学業に勤しんでいる筈の年齢であるが、中学卒業と同時に亡き祖父の道場を継いだ彼女にその権利は与えられなかった。理由は山程あるが、決め手となったのはあの日のやり取りだろうか。
考え事に耽っていると突然影が覆ったので、やっと交代かと視線を向けた。しかしそこに居たのはまさに今脳裏を過ぎった迅悠一、その人だった。
「ナマエ、お疲れさん」
「……迅さん?」
「雨降ってちゃ帰れないでしょ。良かったら玉駒来ない?レイジさんの車送迎付き」
ああそうだ彼はこういう人だった。くすりと笑みをもらしてから、「お腹空きましたね」と返す。それだけ言えば彼には是非が伝わると、少女はよく知っていた。そして、そういう時は決まって"理由"があるという事も。さて今回はどんな事に巻き込んでくれるのだろう。
『ナマエはさ、進学はするの?』
『ふふ、どっちに視えてますか?』
『年上を揶揄うんじゃないよ』
少女は下がり眉で少年の瞳を見据える。その質問を投げかけられた。それこそが答えじゃないですか。大人とはまだ言えない、けれど相応以上の重責を抱え込む彼の脆さを知っていた少女は、そんな事言えるわけもなかった。
『私が進学せず、極力手隙の方がより良い未来になるんでしょう?そんな気はしていたので、既に本部には伝えましたよ』
『……俺でさえ高校まで通ったよ』
『でも今は大学にも行かずに無職じゃないですか』
『無職って言わないで……』
常により良い未来のために世界の天秤を常に見守り続ける彼は、多くの民間人を守る事と少女の"子どもでいられる時間"、どちらを取るべるか計りかねていたのである。数字では表せないそれを比較するだけ無駄だと分かっていても取り戻せないと知っているから、強要は勿論、出来るなら選ばせたくなかった。
けれど少女は気付いてしまったのだ。
ここ暫くの少年の僅かな違和感を拾い集め、結論を出した。そして、自分がどう在るべきなのかを選択してしまった。界境防衛機関としては御の字の成果である。けれど、それは果たして一人の少女の犠牲に成り立つものであって、両手を上げて喜んで良いものではなかった。
『迅さん私ね、みんなの事が大好きです。だから笑ってください。それで来たる日には絶対に言ってください、卒業おめでとうって』
笑顔じゃなかったら殴ってあげます!そうはにかんだ少女は、とっくの昔に子どもでいることも、守られる側でいる事も捨ててしまったのかと、少年・迅悠一は残酷な現実をどうしても飲み込むことが出来なかった。
そんな日から二年が経ち、彼女の存在はすっかり界境防衛機関の主軸となっていた。大人も苦い顔を浮かべながらも、替えの利かない存在に頼る事しか出来ずにいた。それでも彼女は、あの日から変わらない。笑顔を絶やさない人に愛される存在で、それでいてほんの少しだけ甘え下手。そんなところが放って置けない、そんなかわいい後輩だ。そう、それだけ。
特別な感情なんて、ない。そう言い聞かせなければ、未来の選択はとても出来そうになかった。
『ほんと?天気予報は晴れだったけど……』
「もしかしたら崩れるかも〜出来れば次のシフトの人は帰宅までトリオン体のままが良いかもです」
『沢村了解、いつも有難うナマエちゃん』
「……迅さんは何も言ってなかったですか?」
ゆったりとした会話が無線越しに交わされているが、現場の彼女は絶賛戦闘中だ。しかもその小さな身体に不釣り合いな太刀を盛大に振るいながら、他者の心配をする余裕さえある。
彼女の名前はナマエ。ここ三門市にある界境防衛機関に所属する戦闘員の一人で、稀少な黒トリガーの使い手だ。そして先のやり取りに出た「迅悠一」もまた、黒トリガーの使用者である。
ナマエが問うたのは、おそらく彼のサイドエフェクトが未来予知であることを知っているからだろう。今頃何処かで趣味の暗躍をこなしている筈の彼なら、雨が降るか否か分かっていそうなものだとナマエは頭をこてんと傾けた。
「あ、きた、雨だ……」
トドメのひと刺しをしてふと鼻先に小さな感触を覚えたナマエは、緩慢な動作で空を見上げた。ぽつりぽつりと落ち始めた雨粒は、あっという間にザァザァと"あの日"を思い出す大雨へと変わった。思わず顔を顰めたことに、当の本人は気付いてはいない。
トリガーを仕舞い既に瓦礫と成り果てたトリオン兵から降り、引き継ぎの為次のシフト番を待つ。本来夜のシフトは年齢が比較的高い隊員が担当するが、ナマエは特例でしばしば呼ばれる事も少なくなかった。本来ならまだ学業に勤しんでいる筈の年齢であるが、中学卒業と同時に亡き祖父の道場を継いだ彼女にその権利は与えられなかった。理由は山程あるが、決め手となったのはあの日のやり取りだろうか。
考え事に耽っていると突然影が覆ったので、やっと交代かと視線を向けた。しかしそこに居たのはまさに今脳裏を過ぎった迅悠一、その人だった。
「ナマエ、お疲れさん」
「……迅さん?」
「雨降ってちゃ帰れないでしょ。良かったら玉駒来ない?レイジさんの車送迎付き」
ああそうだ彼はこういう人だった。くすりと笑みをもらしてから、「お腹空きましたね」と返す。それだけ言えば彼には是非が伝わると、少女はよく知っていた。そして、そういう時は決まって"理由"があるという事も。さて今回はどんな事に巻き込んでくれるのだろう。
『ナマエはさ、進学はするの?』
『ふふ、どっちに視えてますか?』
『年上を揶揄うんじゃないよ』
少女は下がり眉で少年の瞳を見据える。その質問を投げかけられた。それこそが答えじゃないですか。大人とはまだ言えない、けれど相応以上の重責を抱え込む彼の脆さを知っていた少女は、そんな事言えるわけもなかった。
『私が進学せず、極力手隙の方がより良い未来になるんでしょう?そんな気はしていたので、既に本部には伝えましたよ』
『……俺でさえ高校まで通ったよ』
『でも今は大学にも行かずに無職じゃないですか』
『無職って言わないで……』
常により良い未来のために世界の天秤を常に見守り続ける彼は、多くの民間人を守る事と少女の"子どもでいられる時間"、どちらを取るべるか計りかねていたのである。数字では表せないそれを比較するだけ無駄だと分かっていても取り戻せないと知っているから、強要は勿論、出来るなら選ばせたくなかった。
けれど少女は気付いてしまったのだ。
ここ暫くの少年の僅かな違和感を拾い集め、結論を出した。そして、自分がどう在るべきなのかを選択してしまった。界境防衛機関としては御の字の成果である。けれど、それは果たして一人の少女の犠牲に成り立つものであって、両手を上げて喜んで良いものではなかった。
『迅さん私ね、みんなの事が大好きです。だから笑ってください。それで来たる日には絶対に言ってください、卒業おめでとうって』
笑顔じゃなかったら殴ってあげます!そうはにかんだ少女は、とっくの昔に子どもでいることも、守られる側でいる事も捨ててしまったのかと、少年・迅悠一は残酷な現実をどうしても飲み込むことが出来なかった。
そんな日から二年が経ち、彼女の存在はすっかり界境防衛機関の主軸となっていた。大人も苦い顔を浮かべながらも、替えの利かない存在に頼る事しか出来ずにいた。それでも彼女は、あの日から変わらない。笑顔を絶やさない人に愛される存在で、それでいてほんの少しだけ甘え下手。そんなところが放って置けない、そんなかわいい後輩だ。そう、それだけ。
特別な感情なんて、ない。そう言い聞かせなければ、未来の選択はとても出来そうになかった。