うつろにまどろむ
よし、今日も完璧。鏡の前で1人呟く。目の前に広げられた化粧道具を全てポーチへと丁寧に仕舞い込む。どんなに寝坊しても化粧だけは手を抜けなかった。彼に失望されたくないから。・
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「名前、おはよーっす」
「ブンちゃんおはよ。あれ、朝練は?早くない?」
「今日は無し。つかなんか今日雰囲気違くね?」
「メイク変えてみたんだけど分かる?」
「俺くらいになると余裕よ」
「…どう?変じゃないかな」
「普通に可愛いんじゃね」
教室へ向かう途中、同じクラスのブンちゃんに話しかけられた。半年くらい前、柳くんと付き合い始めた頃に話しかけられたのがきっかけで仲良くなった唯一の男友達。
「柳くん、気づいてくれるかなぁ」
「流石に柳なら気づくだろぃ」
「それで気付かれなかったら割と凹むんだけど」
「そん時はガムやるよ」
「え、いらない」
そう言うとブンちゃんがじぃと睨んでくるので、負けじと睨み返すと後ろから「名前、丸井、おはよう」という聞き馴染みのある声が聞こえた。途端に心臓がドキドキと高鳴る。ゆっくりと振り返ると、私の彼氏柳くんはそこに立っていた。窓から入り込んでくる風に揺れてなびく彼の髪につい見蕩れてしまう。やっぱり彼は今日も素敵だ。
「お、柳おはよっす」
「丸井、赤也が先程お前のことを探していたが」
「やっべ忘れてた…行くわ、サンキュな」
そう言うとブンちゃんはあっという間に私達の元から去って行ってしまった。
「あ、…えっと、おはよう。柳くん」
「おはよう……化粧を変えたのか」
「やっぱり分かってくれた?」
「好きな人の変化くらい、分かるに決まっているだろう」
サラリと出てきた彼のその言葉に思わず頬が緩んでしまい、1人でニヤついていると柳くんにぐいと手を引かれ、そのまま教室とは違う方向へと歩いて行く。
「ゃ、柳くん…?」
柳くんは私の言葉には返事もせず、ただ私の手を引いて歩く。そんないつもと違う彼の様子に少し戸惑いつつも、そのまま付いて行くと辿り着いた場所は屋上だった。朝ということもあって、誰一人として居なかった。
屋上へ入った瞬間、私はドアを背に立ちはだかられる。突然の出来事に私はただ柳くんを見つめることしか出来なかった。何も話そうとしない柳くんへ「どうしたの」と尋ねようとしたその口は、塞がれてしまった。彼の唇によって。
予想していなかった行動に思わず肩を押して抵抗をしようとしたが、後頭部を抑えられてしまってはそれは完全に無意味なことだった。
「…は、…ゃ、柳くん、突然どうしたの?何かあったの?」
「やめてくれ…」
「え?」
「これ以上…可愛くなるのはやめてくれないか」
「へ」
私の両肩を掴みながらそう言う柳くん。彼は一体なにを言っているのか。そんな顔で柳くんのことをボーッと見詰めていると、今度は掴まれていた肩を引き寄せられ抱きしめられる。
「え、本当にどうしたの柳くん…ま、まだ朝だよ…?」
「夜だったらいいのか?」
「や、そういうわけじゃ…ないけど」
私のその言葉を最後に柳くんは黙ってしまった。相変わらず抱き締められていたままだが、耳に柳くんの髪が時折入ってきて少しくすぐったい。今何か言うのは何となく野暮な気がして、柳くんの気が済むまでこのままでいようと彼の背中に手を回す。すると、柳くんは小さく息を吐いた。
「すまない…少し色々と抑えきれなかった」
「抑えきれなかったって…何が?」
「…名前は知らなくていい。とにかく、すまない」
「う、うん…?こうしていられるのは私も幸せだから全然いいよ」
「…ふ、お前にはつくづく適わない」
耳元で小さく呟き、静かに笑うと柳くんは私の体からそっと離れる。私がもう1度「何かあったの?」と尋ねると、柳くんは悲しげに眉を下げ、私の頭の上に手を置いた。
「…最近、男子の中で名前のことで少し噂になっているのは知っているか?」
「え、私?」
「そうだ。彼氏が出来てから以前よりも更に可愛らしくなった…と」
そう呟く柳くんの顔は微かに歪んでいた。その表情に私は少しドキリとしてしまう。
「確かに名前は可愛いと思う、とても。だが、そう思うのは俺だけでいたいと願うのは贅沢な願いだろうか。俺以外名前の魅力に気付いて欲しくない、そう思ってしまう俺は…心が狭いのだろうか」
そう言って物悲しげに微笑む柳くんに、私は何も言うことが出来なかった。正直嫉妬というものとは全くの無縁だと思っていた彼から、こんなこと言われるのは驚くと同時に嬉しくなった。私は柳くんの手をそっと握る。
「…ごめん。柳くんの気持ち何も考えてなかったのかもしれない」
「名前が謝ることじゃない。むしろこちらが謝るべき事だ。…ただ、」
「うん?」
「何もしなくとも十分可愛いのに、何故こんなことをする?」
いつもより少しトーンの低い声でそう言った柳くんは、私のゆるりと巻かれた髪先をそっと手に取った。何もしなくても可愛いと思ってくれていただなんて、考えてもいなくて不意をつかれた気分になる。
「…柳くんに可愛くないって失望されたくなかったというかさ、可愛いって思われたかったの。だから柳くんがそういう風に思ってくれていたなんて、思ってもいなかったから結構驚いてる」
「名前…、」
「私ね、柳くんに可愛いって思われればそれで十分なの。だから、明日からはお洒落とか控えめに……ぅわっ」
私が最後まで言い終える前に柳くんは再び抱きついてきた。さっきよりも力強く。
「ふ、そんな嬉しいことを言われてしまうと、教室へ行かせたくなくなるな」
「えへへ、じゃあサボっちゃう?」
「…一限だけ。俺に独り占めさせてくれ」
「え、え…」
柳くんは悪そうにニヤリと口角を上げると、そっと私にキスをした。さっきよりも長く、そして深く。遠くからチャイムの鳴る音が聞こえてきたけど、そんな音も今はどこか他人事のように聞こえていた。