時計の針はとうに頂点を通り過ぎ、不気味な程に辺りが静まり返った夜更け過ぎ。秒針が時を刻む音だけが、妙に室内に響いていた。この鬱々とした夜を耐えるために鳴らしていたオルゴールも、随分前にその音楽を奏でることをやめてしまった。もう一度ネジを巻き直す気力もない。左手で羽根ペンをきゅっと握ったまま、ずっと真っ白なページと向かい合っている。どんなに綺麗な絵の具を落としても、その白を汚しているような罪悪感に苛まれる。

…あの晩から、ハッピーエンドが描けなくなった。

紅鏡が誰かを殺した日。2人で死体を埋めに行った日。森の奥の劇場に迷い込んだ日。紅鏡に、プロポーズされた日。自分の指に嵌められた指輪が鈍く光る。ずっと憧れていたはずなのに、それはまるで足枷のように重苦しく、あの悪夢の場所に今尚繋ぎ止められているような気さえするのだ。

そもそも、ハッピーエンドってなんだっただろう。王子様とお姫様が結ばれることだと言うのなら、俺はきっと幸せな結末を迎えられるはずだ。それを望んだ。だから彼の手を取った。彼が、俺の恋人なのだから。




…本当に?

本当に、彼は王子様なのだろうか。あの写真に映っていた男は誰?どうして俺は彼の隣で笑っている?どうして、紅鏡は何も教えてくれない。紅鏡は、誰なんだ。俺は、誰の恋人だったんだろう。

ちぐはぐな配役、どこかで狂ってしまった歯車。そもそも俺はお姫様なんかじゃない。24の男がお姫様なんて馬鹿げている、そんな物語を描こうものなら読者に嘲られるに違いない。…そんなこと、とっくの昔に知っていた。




眠るのは嫌いだった、寝ている間に全てを失ってしまう気がするから。ずっと瞳に彼を映していたかった、手を握っていてほしかった、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。人間の五感は、生きるために存在する。俺の感覚は、いつも紅鏡を探していた気がする。

 それなのにどうしてか、今は目を瞑っていたい。いっそ繋いだ指先から自分の体温を全て奪い去ってほしいとさえ思う。このまま身体が冷え切って二度と目覚めなければ、俺は紅鏡の恋人でいられる気がした。けれど変わらずに朝は来る、誰にだって平等に、残酷に。1番好きだった黎明の空より、落陽が照らす帰り道に焦がれるようになった。

 彼の傍を離れたい訳ではない、自分で選んだことだ。けれど、許されるのならば、瞳を閉じて綺麗な輪郭だけを撫でていたい。目を逸らしたい。間違ってはいないのだと、いつもの優しい声色で言い聞かせてほしい。そうしたら俺はもう、考えることを辞めてしまうのだろう。…辞めたかった。辞められたらよかったのに。目を瞑れば、自分の手を握る体温が誰のものなのかなんて分からない。これは紅鏡じゃなかった、かもしれない。けれど、自分を誤魔化そうとしたところで、あまりに俺の手のひらは紅鏡の体温を覚え過ぎてしまったようだ。俺より少しだけ冷たい手、握っているうちに体温が溶け合って一緒の温度になる。そんな取るに足らない些細なことが愛おしかった。

 夜は酷く不安になって、繋いだ温もりに縋るように、零れた涙に紅鏡が気付かないように、嗚咽を飲み込んだ。世界で一番安心する、大好きな手のひら。今となっては、繋ぐ度に、この微かな震えが紅鏡に伝わってしまうのではないかと怯えてしまう。

 部屋の壁に飾っていた、紅鏡とデートに行った場所を描いた水彩画。紅鏡と出逢ってから紡いだ、みんなが幸せになれる理想の物語。全部全部全部、ぜんぶ捨てた。燃やした。あの劇場で見つけた写真と一緒に。そのまま捨てるのも嫌だったから、自分の手で燃やした。灰になるのを自ら確認したかった。大事だったもの。宝物。これらは全部、もう不要な物だ。いや、余計な物だ。見ていたくない、紅鏡を信じたいから。こんなものいらない。紅鏡じゃない誰かとの記憶を、無理矢理引き摺り出されるようで。暖炉の火を見つめながら、酷く息が詰まるような感覚がしたのを覚えている。シンデレラは、日本では灰かぶり姫って呼ばれてるんだっけ。そんなどうでもいいことを考えながら、涙がひとつふたつ零れて、白いシャツに染みを描いていく。いつつ零れないうちに、全部燃えきってしまった。これでいい。

 明日は劇場へ行くんだったか、こんなに億劫な約束は初めてだ。あんな悪夢みたいな場所には二度と行きたくない。彼の恋人のように振る舞えるだろうか、そう考えた時点で、もう俺達は恋人じゃないのかもしれない。本当に恋人同士だというのなら、“恋人のように”振る舞う必要などないのだから。お姫様の配役なんて、望むべきじゃなかった。俺は筆者で、登場人物にはなり得ない。神様が、己の身分を履き違えた自分に罰を与えたのかもしれない。神様なんて信じたこともないけれど。

「…ほんと、みじめな気分」

ひとつ…正確にはふたつだろうか、どうしても燃やせなかったものが視界の端にチラついた。クリスマスに紅鏡から貰った…はずのテディベア、そしてそのクマとお揃いのネックレス。燃やすべきだ、捨てるべきだ、思い出してはいけない記憶が、きっとそのはらわたに詰められている。一生蓋をして、鍵をかけなければいけない。…大事にしていた玩具を、親に取り上げられるのではないかと怯えている子供のような心地だった。

「…恋人でいたい」

誰もいない部屋。紅鏡と出会う前みたいに、真っ白になった部屋。鼓膜に響く自分の声が思っていたよりずっとずっと頼りなくて、情けない。

「俺から紅鏡を取り上げないで」

テディベアを抱き上げて、きゅ、と抱き締める。

「恋人、なんだろ」

紅鏡はそう言っていた。俺達は恋人だって。

「恋人だと思わせて。魔法をかけて。紅鏡を恋人だって思い込める魔法。おねがいだ」

それはもう、呪いだった。彼を恋人だと思い込む為の魔法。彼は本当の恋人ではないと言っているのと同義なのだと、自分自身の言葉に絶望した。生温い雫が頬を伝う、あれから何度こんな想いをしただろう。いつになったらこの涙は枯れてくれるのだろう。俺は彼を信じきることが出来ない。こんなに、愛しているのに。

「…つかれた。じゅんび、あしたでいっか」

大事な時に途切れる俺の意識は、こういう時に限って明瞭だ。どうしようもなく、自分が嫌いになってしまう。それは昔と大して変わらないけれど。

結局捨てられなかったテディベア。クマが火傷したら可哀想だから、なんて言い訳をして、もう二度と見ることがないよう、鍵付きのトランクケースにしまい込んだ。狭くて暗い箱の中、せめて彼が寂しくないようにと綺麗なクッションの上に寝かせて、造花や昔描いた童話、可愛らしい小物も一緒に詰め込んだ。お揃いのネックレスも。まるで、棺みたいだなと思った。ずっと探していた世界で一番安らかに眠れる場所、それがもしこの世界に存在するというのなら、きっとこんな棺の中だろう。隔離された、小さな閉じた世界。綺麗で大好きなものに囲まれて横たわるこの死体は、幸せそうにさえみえる。この死体が紅鏡なのか俺なのか、はたまた知らない誰かなのか。知っている人はもう居ない。

「…おやすみ」

心のいちばん奥、一等温かいところ。想い出と一緒にしまい込んで、誰も触れられないように鍵をかけた。日の目を見ることなど、ありはしないのだろう。

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