++SS

▽2017/04/16(Sun)
ハルトがお狐さま
 まるまるとした月が空にぽかりと浮かんでいる。淡い黄色のそれは、真っ黒の空と境界線を滲ませながら、そこにゆるりと佇んでいる。
 右手には缶チューハイが二本、あんまん一つ、するめが入ったコンビニのビニール袋。吹き抜ける風の凍えるような寒さに身が震えて、たまらず首を竦めた。

「執拗に飲み会に誘うな、有給を使わせろ! 企画書の提出期限早まらせるな! 肩を抱き寄せてくるな! 気持ち悪い、ばあああか!」

 思った以上に反響して、思わずぎょっとして辺りを見回すけれど、誰もいなくて一安心した。それでも胃の辺りのむかむかが収まらず、私は顔を歪ませる。どうせこんな暗がり、誰一人いないのだから変な顔ぐらいしたっていい。ここで缶をぷしゅっと開けて、ぐいっと扇いでから更なる暴言を吐きたいところだけれどそれは我慢しようと思う。
 いつもとは少し外れた道。頼りなさげに揺れる街灯。カーテンの隙間から漏れる家々の明かり。ちょうど夜も更けてきたこともあって、お風呂なのか、石けんのような洗剤のにおいがふわふわと辺りに広がる。そう言えば最近湯船にきちんと浸かってないなあ、と思った。

「今日は飲んでやる……」
 
 がさり、かちゃん、と袋の中で摩擦し合う二つの缶。どちらも新商品で、私の好奇心を擽らせる。録りためていたドラマを見ながら飲もう、そう少し胸を躍らせながら、見慣れた道に歩を進めようとすれば、見慣れないものが道路の脇にちょこんとある。随分と古そうで、更に長年手入れをされていないのか、薄汚れている。赤色の塗装がところどころ禿げた祠だった。
 こんな場所に、──しかも住宅街だ、にあったっけ、と首を傾げながら近付いた。よくよく見てみると、落ち葉が挟まっており、水を入れる器には煙草の吸い殻が捨てられている。なんて罰当たりな。私は軽くその汚れを手で払って、水で膨れた吸い殻をどうしようかと思いながら、コンビニの袋の物を全部取りだして腕に抱えて、袋の中に吸い殻を入れる。このまま何もお供え物もせずに立ち去ってもいいものなのか、よくワンカップの日本酒がお供えされているよなあ、と思い立ち、とりあえず代わりになればと缶チューハイを置く。やっぱりお供え物としては饅頭、私の手にはそれに近い物があるけれど。泣く泣く半分ちぎって、紙袋に入った状態でお供えする。
 良いことをした気分。ぱん、と両手を合わせる。寒いしはやく家に帰ろう、と目を開ければ、先ほどより缶が若干動いたような気がした。まさかな、そう思いながら帰路に就く。

 
 
・・・


 おーい、と誰かが呼ぶ声がする。まだ目覚まし時計鳴ってないんだから、もう少し寝させてよ。布団を被って寝返りをうてば、その声がだんだんと近付いてきて、更に何かからのし掛かられるような気配。息苦しくて敵わない。うるさい、と起き上がろうとすれば、自身が一人暮らしであることに気が付いて思わず背筋が凍った。父は来るとしても連絡をしてから来るし、この声は圧倒的に父よりも若い声音だ。不審者?、と身を縮こませていると、その声の主が、大丈夫だよ夢の中だから、と焦ったように付け足したので、目を開ける。
 その声の主は私から退けて、こほんと咳払いをした。徐々にはっきりとしてくる視界。ピントも合ってくる。目を擦りながら、その姿を見れば、頭の上にぴょこん、と黒い尖った耳が二つあることに気が付いた。装いも、今の服装では無くて、どちらかと言うと神社の巫女さんや神主そんが着ているような装束だった。前からでも、尻尾が四本、しっかりとあるのがよく見える。

「……きつね?」
「そう、狐。君から綺麗にしてもらった、祠の主」

 黒くて短いさらさらな髪の毛に、中央に埋め込まれたアーモンドのような形をした青い瞳が目を引く。鼻筋はすっと通っていて、薄い唇がゆっくりと弧を開く。すると鋭い犬歯がちらりと覗いた。おそらく彼だろうけれど、彼はきらきらと目を輝かせて、私に飛びついてぎゅっと抱きしめる。今まで祠が汚れていて苦しかったけれど、軽く払ったおかげで随分と楽になったこと、供え物が嬉しかったこと、中でも清酒だと思って飲んだチューハイが甘くて美味しかったこと、それを矢継ぎ早に彼は言って、ありがとうと言う。私が固まっていると、彼がさっとその身を引いて、嬉しくてつい、と顔を赤らめる。

「久しぶりに人から優しくされて嬉しくて。何か恩返し出来れば、と思うのだけど」
「そ、そんな急に言われても」
 
 猫の恩返しならぬ、狐の恩返しだ。私は頭の中でそんなことを考えながら、何かないかと考えを巡らす。調子の悪いプリンターが直りますように、それは家電屋さんに行くべき。宝くじに当たりたい、欲深すぎる。上司のイマベがタンスの角に足をぶつけますように、それもちょっと良心の呵責がある。

「そうだ、喫茶店の、マスターの腰が治りますように!」
「喫茶店の、ますたー?」
「えっと、私がよく通っている喫茶店人が、腰を痛めてしまったみたいなので、その人の腰を治していただきたいです」
 
 娘さんの部屋の模様替えを手伝っていて、勉強机を運ぼうとしたところで腰をやってしまったのだと聞いた。腰をさすって顔を曇らせながらコーヒーを運んでいた姿が痛々しかったのがありありと思い出される。

「他の人への願い事だけど、君はそれでいいの?」
「自分への願い事だと、自分のためにならないかなあって。あまり困ってもいないし」

 確かに聞き届けたよ、と彼が私の頭を撫でる。
 ところで彼の名前を聞いていなかった。あなたの名前は?、そう尋ねようと口を動かした瞬間、視界が掠れていく。瞼がゆっくりと落ちて、その言葉を最後まで紡ぐことが出来なかった。ゆっくりおやすみ、と彼が私の肩を抱き寄せてとんとん、と一定のリズムで背中を撫でる。夢の中なのに、彼からはいいにおいがした。消えかけの意識、その中で彼がぼそぼそと名前のようなものを囁いたような気がするけれど、それを聞き取ることは出来なかった。

 
 
 
 
 


 次の日、会社終わりに喫茶店へと足を運ぶと、マスターの腰が嘘のように治っていた。マスター曰く、夜中に腰をさすってくれるような気配がして、朝起きるとまるきり治っていたらしい。それに不思議なこともあるものだ、と同じく喫茶店に通う友人のシンディーとマスターの回復を祝ってコーヒーでだけれど乾杯をした。彼のおかげに違いなくて、心の中でありがとうと唱えた。それとついでに言うなら、上司のイマベがドアで足をぶつけたらしくて痛がっていたし、家のプリンターはめっきり調子が良くなったし、スーパーの福引きで3000円分の商品券が当たっていた。たぶん彼にはお見通しだったのだと思う。
 今日も仕事で疲れたなあ、とコンビニの袋を提げて違う道を通る。通ったのは一週間ぶりほど。ちらりと祠の方を見てみれば、先日お供えしたものは全て無くなっていて、口角が少し上がる。袋の中には缶チューハイが二本と、あんまんが一つとするめ。先日とは違う缶チューハイとあんまんを半分お供えして、先日はありがとうございました、と手を合わせれば、耳元でどういたしまして、とくすくすと笑った彼の声が聞こえたような気がした。


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