++SS

▽2026/03/18(Wed)
連弾/チアキ

 指を乗せた白鍵が沈む。すると緊張の糸がぷつりと切れたかのように音が辺りに響いた。
 叩き込まれた譜面の読み方も、鍵盤の叩き方も、ドイツ語音階も、あの家から逃げ出した時にもう二度と使わないだろうと思っていた。忌まわしい記憶だ。もう二度と思い出したくもない、そうであるはずなのに。一度体に染み付いたものはそう簡単に抜けやしないのだ。


 聞き慣れたパンプスがかつんと地面を蹴る音が雑踏の中近づいてくる。彼女の歩くスピードだ。俺を見つけるとその音は小走りのそれとなって、彼女はつん、と俺の肩をつついた。
「──チアキくんってピアノ弾けるの?」
「少しだけね」
「それにしては随分と様になってるけどね」
 ごめんねお手洗い混んでて、と彼女が謝った。それにそんなに待っていないから、と返答する。
 休日のショッピングモールはもっと人でごった返していると思ったが、まだ正午を回っていないこともあり、人波はそこそこだった。これから人が増えるのだろう。彼女が隣に座りたさげな顔をしたので、ピアノ椅子の半分を譲る。チアキくん脚余ってる、とケタケタと笑った彼女がそれじゃあ失礼します、と隣に腰を下ろした。少しだけ狭い。
「チアキくん、ここにずっと座って待ってた?」
「いや、君が来る前に空いたから座ったんだ。少しだけ弾きたくなって」
 ショッピングモールの広場にグランドピアノが設置されているのは、どうやら連休中の楽器店の催しらしい。
 鍵盤に指を置いた。曲の名前も覚えていないのに、指の場所は体が覚えている。人の喋り声がどこか遠くで聞こえる。雑踏の中にいるはずなのに、自分だけその場から切り離されたかのような感覚に陥った。ひとり、ひとつの鍵盤を叩くその音だけが鮮明に聞こえる。レッスンをしている時も、外界から自分だけ謝絶させられているような、そんな感覚だった。
 あの家に引き取られてから、家庭教師をつけられて色々なことを学んだ。自分が進んで学びたいと思うこともそうでないことも。その中でも音楽、ピアノはそうではないものの一つだった。どの教科を学ぶときも、悪い成績を取れば見捨てられる見放されると半ば脅迫観念で突き動かされていた。その中でもピアノは、自分が出来ていなければすぐに分かるし、そういったときはすぐに叱られるものだから嫌だった。手の甲をぎゅっとつねられたり叩かれたりした。ミスなく完璧に弾けるようにならなくてはいけない、その思いだけが大きく募った。結局ピアノは教養程度のものだからと長くは続けなかったが、

 


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