優しいところ/加州清光

 主が初めて、俺を手に持ったときのことを今でも覚えている。五振りあるうちのなかから、彼女は少しだけ逡巡したあと、おずおずと俺を手にとった。緊張で汗ばんで震えた手、ぴんと伸ばしてカチコチに固まった背中。これからよろしくお願いします、と小さくそう言ってくれたことも、今でも鮮明に覚えている。


「主−、帰ったよー」

 確か昨晩から、主は執務に追われていたはずだ。急遽書類を今日提出しなくてはならないということらしい。昨夜は夜遅くまで煌々と明かりが点いていたし、朝食の席でも妙にやつれた顔をしていたから、きっと徹夜していたのだと思う。いってらっしゃい、という見送りも今日は無かったから、随分と期日が迫ったものだったのだろう。今頃政府に書類を提出しに行っているのかもしれない、と思ったけれど、ひょこり、と主が障子の襖から顔を出す。もぐもぐと口に何かを含みながら、おかえり清光、と小走りに近寄ってくる。

「あれ、他の人は?」
「帰り道が泥がよく跳ねる道で、泥だらけになったから外で軽く落としてる」
「そっかあ」

 靴を脱ぎながらそう言う。
 彼女は真横に座って、清光は大丈夫だった?、と尋ねた。それにちょっと汚れたけど大丈夫、と返答する。主からは、甘い花のような良いにおいがいつもする。対して俺は、戦終わりで汗もかいているし、泥だらけ。それに返り血もたくさんついていることもあって、そんな俺が彼女の近くに居るのは不釣り合いのような気がして、少し距離を置く。

「ねえ、今距離取ったでしょ」
「そうかな」
「絶対そう」

 彼女は機微に一等に敏感だ。どれだけ表面で取り繕っていても、不調な時は一発で気が付かれる。

「ああ、もう。俺今、泥だらけで汚いからさ、あんま主の横に座りたく無いというか、主も汚れちゃ……──」

 潔く降参して彼女に全て言おうとしたところで、硬質な声音で名前を呼ばれる。なに?、と彼女の方を振り向くと、俺が想像していたよりずっと怖い顔をしていて驚いた。彼女の指が俺の頬をするりと撫でる。彼女は指の腹についたものを見て、よかった、安堵のため息を漏らした。

「怪我、隠してるんじゃ無いかなって思って」
「そんなことしないって」
「昔隠してたのはどこのどなたでしたっけ?」

 あー無事でよかった、と彼女が笑った。んー、と伸びをするとバキバキと背中が鳴る。きっとついさっきまで執務をしていたのだと思う。気丈に振る舞ってはいるけれど、よく見ると彼女の目の下には薄らと隈があった。

「昔はね、資源が無いだとかお金が無いだとかで、最初から居た清光に随分と無理をさせてしまったけど。今はそんな甲斐性無しじゃ無いんだから、ってもし怪我隠してたら言おうと思ってた」
「……確かに昔は、手入れするための資材も、ご飯作るための食材も買えなくて苦労したものね」
「なんとかひねり出してたけどね」

 今日の夕ご飯何かなあ、と呟く彼女の後ろ姿は俺よりずっと小さくて、この小さな彼女に、俺たちは守られているんだと思うと不思議な気分だった。刀なんて振り回したことが無さそうな細腕に、真っ白で少し力を加えたら折れてしまいそうな首筋。俺はそこにぽすんと頭を落として、そうね、やっぱり疲れてるかも、と独り言のように呟くと、彼女の手が俺の頭をうりうりと撫でた。

「夕餉まで一緒にお昼寝する?」
「うん」
「今日のおやつ、清光が好きなチョコ大福だよ。食べてからにしよう」
「うん」
「あ、でもお風呂入ってからの方がいいか。洗うの手伝おうか?」
「それはいい」

 遠慮しなくていいのに、最初の頃は一緒に入ったじゃん、清光洗い方分かんなかったから。彼女が笑っている気配がする。彼女の腰に手を回して甘えていると、彼女がそのまま俺を引きずるように歩いていく。清光は甘えん坊さんだなあ、なんて嬉しそうな声音。

「部隊長さん、あんまりべったりだと、鯰尾あたりから笑われちゃいますよ」
「……いいの」

 たっだいま戻りましたー!、と噂をすれば元気に帰還の挨拶をする鯰尾の声が聞こえた。どたばたと靴を脱ぎ散らす音。長谷部がきちんと揃えるように叱りつける声もなあなあに、廊下を駆けるのでギシギシと床が軋む。おそらく粗方泥を払い落としたのだろう。その騒がしい足音が一瞬止まって、大声を出す。

「あっ、ずっるー! 加州さん! あるじさん! 次俺お願いします!」
「清光の気が済んだ後ね」
「それ一生終わんなく無いですか!」

 とりあえず湯浴み行って来ます!、と騒がしい足音が遠のいていく。元気だね、と主がくすくす笑った。さて部隊長さん、気はお済みですか?、と彼女が尋ねる。俺がそれに否定するように首筋に頭をぎゅっと埋めると、そうかそうか、気が済むまでどうぞ、と髪の毛を撫でられた。小さくて柔い。俺、最初に出会った頃からずっと、主の優しく撫でてくれる手が好きなんだよ。まだ、言ったことはないけどさ。







20170828