※名前変換はありません。死ネタ注意。
それは暖かな春の日のことだった。
加州清光は縁側に座り、庭を眺めていた。
敷石の置かれた地面の向こうには池があり、時折鯉が水面に波紋を作る。色とりどりの花がその周りを囲んで咲き誇る。浄土を想い、また四季を臨み、そして自然を表そうとした人の作ったそれは、ある一つの美を体現していた。
この庭に於いて一際目を引くのは満開の桜であった。視界の殆どを埋める薄桃はそよ風に運ばれて、池の淵や他の花の上、今清光が座っている縁側にまで下りてくる。その幻想的な景色が、清光は好きだった。
そうして思い出す。
最初にこの景色を見たのは本丸に顕現してすぐのこと。挨拶をしようと口を開いたその瞬間、審神者は徐に自分の手を取り立ち上がり、この場所まで連れてきた。人の体を得て直ぐに見たそれは、瞳に鮮明に焼き付いて。
「綺麗でしょう?」
彼女は庭のあちこちを指す。あれは枳殻、これは山吹で、その白いのは小手鞠。嬉しそうに話すものだから自然と笑みがこぼれた。
「誰かに見せたくてたまらなかった。貴方は私の初めての刀。私が一番素敵だと思う場所で、挨拶をしたかったんです」
ごめんなさいと頭を下げるその姿はまたどうにもいじらしい。そもそも怒る気になどならなかった。今度こそと口を開く。
「俺、あんまり何も分からないけどさ。これ凄く綺麗だと思うよ」
「!」
申し訳なさそうな顔がぱあ、と明るくなった。わかりやすいこと極まりなし。ただそれを嫌だとは思わなかった。
「主は花が好きなの?」
問いかけると彼女は頷く。
「優しくて、可愛くて。見ていると幸せな気持ちになれるから、好きです」
「ん、何となく分かる気がする」
肉体とともに宿った自分の思念は、この景色を美しいと定義する。無かったはずの心が凪ぐような不思議な感覚が心地よく、これが癒されるということなのだろうかと思案した。
「俺、加州清光。これからよろしくね、主」
「はい、こちらこそ」
固い握手を交わす。それが清光と審神者の、この本丸の始まりだった。
主は刀剣が参陣するたびに彼らをここに連れてきた。誰もがこの景色に心を奪われ、いつしかこの場所は安らぎを求めて来る刀剣たちの憩いの場となっていた。ある時は夜桜を、ある時は蛍を見ながら宴を開いたこともあった。戦いに身を置いても心を失うことがなかったのは、偏にこの美しい庭と、そこで待つ主の笑顔があったから。ここに悪い思い出など何一つ、
「加州」
意識が現実に引き戻される。振り返るとそこには白衣を着た少年、薬研藤四郎が立っていた。
「考え事か?」
「ちょっとね。で、どうだった?」
その言葉に薬研の顔が曇る。それだけで先が分かってしまった。彼は清光の隣に座り、庭を茫洋と眺める。ああここは彼にとっても愛しい場所なのだ。
少しの静寂。鹿威しが乾いた音を立てた後、薬研はぼそりと呟いた。
「…今日が終わるまでもつか」
「そっか」
「眠ってる」
「苦しんでない?」
「全然」
「なら、良かった」
彼の薄紫の瞳がこちらを向く。
「他の面々には俺が伝えておく。側に、居るつもりなんだろう?」
「…そうね」
「何か言っておきたいことは」
「何も」
「そうかい」
立ち上がった彼は白衣の裾を叩く。加州、ともう一度名を呼ばれた。彼はにっ、と笑った。
「大将のこと、頼んだぜ」
「もちろん」
足音が遠のいていく。再び誰もいなくなった縁側で清光は軽く伸びをした。ぱきりと軽い音がする。
立ち上がって振り返り、そこにある障子を見つめる。閉ざされた部屋。この本丸で一番大きな部屋。一呼吸置いて障子をゆっくりと開けた。
風と共に桜の花びらが部屋に舞い込む。部屋の中央に引かれた布団の上で眠るのは、審神者だった。
自分たちは刀の付喪神である。それを呼び出し使役する力を持つ人間はそう多くない。白羽の矢が立ったこの審神者はもとより病を患っていた。それでも彼女は気丈に振る舞い、遡行軍の大半を殲滅するまで戦い続けた。そうして自分の役目を果たした彼女は、ある日を境にこんこんと眠り続けるようになってしまった。
手は尽くしたものの、審神者のそれはもう不治の病と化していた。二度も主を病で喪うなんて、と喚いたこともあったか。
「全く、長生きしてもらわないと困るってのに」
部屋に足を踏み入れる。今日が終わるまでもつか、と薬研は言った。そしてなんとなくそれは、自分にも分かる。
刀剣男士がその姿を維持できるのは審神者から霊力を絶えず供給されるからであり、審神者が死ねば自分たちは刀に還る。次なる審神者が立つまでは呼び起こされることもないだろう。ともするとこれが、人の姿を持てる最後の時かもしれない。他の刀剣たちは思い思いに残された時間を過ごしているはずだ。仲間と酒を酌み交わしたり、静かに物思いに耽ったり。薬研はどうするのだろう。兄弟たちと過ごすのだろうか。
そして、自分は。
「主。庭の花、とっても綺麗だよ」
眠る彼女の隣に座る。薄く胸が上下して、彼女がまだ生きていると伝えている。けれどその目は固く閉じられていて、きっともう開くことはないだろう。布団の上で組まれた彼女の左手を取り、握りしめた。
「俺、主のところに来れてよかった」
返事はない。それでもかまわない。
「綺麗にしてくれて、大事にしてくれてさ。色々あったけど全部楽しかったし、愛されてるな、って思えた。だからさ、俺最期まで主の傍にいるよ。主が寂しくないように、ずっとここにいるから」
始まりを共にしたのなら、終わりも共に。その望みを否定するものは誰一人いなかった。ただ一人と一振りだけの空間は静けさに満ちている。ゆっくりと瞼を閉じ、手から伝わるぬくもりに全てを委ねた。
どれ程経っただろうか。
「…ょ、み……」
「!」
掠れた音が鼓膜を震わせる。光と共に視界に入ってきたのは、こちらを見つめる審神者その人だった。久方ぶりの、もう二度と聞けないと思っていたその声に胸に何か熱いものがこみ上げる。嗚咽しそうな自身を抑え込んで手を強く握った。
「ここにいるよ」
その言葉を聞いて彼女は少し笑んだ。
「も、おしまい、だから」
「そんな弱気なこと言わないでよ」
「いっておきたい、こと、たくさん、あるけど」
「俺だって、っ」
ぽたぽたと雫が落ちた。こんな姿を見せたいわけではなかった。ただ溢れる涙が止まらない。言葉を紡ごうにも声が出ない。何を言いたかったのか、何もかも言いたかったのだ。彼女の愛した場所で、もう一度語り合いたかった。もっと生きてほしかった。
彼女は全て分かったとでも言うように頷いた。そしてゆっくりと右手を持ち上げ、清光の手に重ねた。あたたかい。
「ねえ」
涙に濡れた視界の中、彼女は変わらぬあの優しい笑顔で、
「きよみつ、いままで、たくさん、ありがとう」
ぱきん、と何かが砕けるような音がした。彼女の手が布団の上に落ちる。自分の掌は既に半透明になっていた。嗚呼還るのだ。再びこの刃の中で眠るのだ。審神者を見る。穏やかな顔をしていた。
「あるじ」
その言葉は空に消えていく。それでも「今生」の最期に言い残したいことがあった。
「俺も、ありがとう」
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情交と街