ぱきりと肩の音がなった。長時間同じ姿勢でいた体は、かちこちに固まっている。時刻は夜の7時。日が長くなってきたことをすっかり忘れていた。
ずらずらと文字の並ぶルーズリーフと、インクの減ったボールペン。開いたまんま睨みつけていたテキストはページのかたがしっかりと残っている。うん、よく頑張った。今日は帰りに何か美味しいものでも買ってあげよう。無造作にカバンに荷物を詰め込んで、伸びをする。
ばきばきばき。
「酷ぇ音」
「!」
驚きとともに跳ねた肩がまたぱきり。振り向けばそこにいたのは、同学年の背の高い、所謂イケメンくん。
「だ、伊達く、」
「ah…そんなに驚くことか?」
「誰もいないと思ってたから」
「だろうな」
ニヒルな笑みを浮かべた彼は同じように伸びをする。イケメンの顔は、まあ、うんと心臓に悪い。
「オレとアンタ以外、誰もいねぇよ」
それってつまり、二人きりということなのでは。いらない考えが頭をぐるぐると巡って妙に心臓が煩くなる。伊達くん。伊達政宗くん。同じ学年の、イケメンくん。学部は同じだけど、話したことはない。せいぜい新歓に行った、そこに彼もいた、それくらい。彼やその友人あたりは皆有名だから、誰だって知ってる。皆顔立ちが整っていて、しかも何かしらに長けているというのだから、天は不平等だ。
「で、こんな遅くまで何やってたんだ?」
「勉強」
「hum…」
彼の視線が、閉じ忘れたカバンの方へ向かう。見られている。テキスト、とてもしっかりと見られている。
「English」
めちゃくちゃに綺麗な発音である。ともすればどこかの懐かしい芸人みたく聞こえてしまうはずの彼の喋り方は、その低い声と綺麗な発音のせいでいやにかっこいいのだから、ずるい。
「私、伊達くんみたいに英語得意じゃないから」
「誰だって初めはそうだ」
「…伊達くんは、どこで勉強したの?」
「親父の影響だな、いつ頃から始めたかは…can’t remember」
つまり小さい頃から勉強してきたわけか。彼の言葉は、二つで出来ているんだろう。羨ましい限りだ。恨めしげな顔をしてしまっていたのだろうか、一つしかない目がこちらを向いて。
「どのlevelだ」
「え?」
「どれくらいを目標に?」
「あ、ああ、ええと、論文が軽く読めるくらい」
「中々hardだな」
「あはは、そう。中々ね」
中々どころではないのが現実ではある。実用英語のその先にあるそれは、高すぎる関門でしかない。引きつった笑いをする私を前に、彼はしばらく考え込んで。
「You need a hand?」
からりと笑った。手、手が必要?…手伝ってやろうか…?
「ほ、本気?」
「Of course!一人でやるより捗るだろうよ」
「でも、何でそんな」
「ah?気紛れだ」
「気紛れってそんな、」
「で、やるのか?」
そんなの、答えは一つだ。
「や、やる、お願いします」
「OK、いい返事だ」
伊達くんの英語のレッスン。伊達くんの、英語のレッスン!明日あたり誰かに言ったら、大騒ぎになるだろう。口の端がゆるゆると下がる。英語この野郎、ありがとう。貴方が伊達くんの得意科目でありがとう!跳ね回る心臓を押さえつけているところに、また彼が口を開く。
「それと、」
「?」
「政宗でいい。You see?」
爆弾発言である。政宗でいい、だなんて。下の名前でいいだなんて!胸がぎゅーっと苦しくなる。心臓は弾けてしまったのかもしれない。
「そ、それじゃ、政宗くん」
「ああ」
「よろしく、お願いします」
「こちらこそ」
ああなんてことだろう。帰りのご褒美なんていらない。イケメンのご尊顔を拝みながら勉強できるなら、もう何もいらない。毎日がハッピーライフだ。
いつまでも動かない私を前に、歩き出した彼は振り返る。
「帰るぞ、名前」
ひゅんっと、心臓が跳ねた。
prev next
戻る
情交と街