BASARA×百人一首企画に提出したもの。別名義でpixivにもアップされています。

ふと思い出す。自分がまだ過ちを犯す前の静かな日々。紫立つ雲がたなびく曙とでもいうべきか。かの麗しき歌人がしたためた美しいものをそのまま表したような日。もっともこれは葉月のことで、春ではないが。
一斤染の着物を身にまとった美しい人は、庭先で花を愛でている。時期に合わない薄ら寒い朝で、葉は玉の露に濡れている。

「お市様、風邪を召されます」

視界の端に姿を捉え、急ぎ取りに戻った霞色の羽織を持って縁側に降りると、しなやかな射干玉が振り向きざまに優しく揺れた。烏の濡れ羽、黒紅、そんなどんな言葉でも形容しがたい、夜闇のような吸い込まれそうな色。何よりその瞳。底の無い深い海のようなそれに溺れてしまいそうだった。

「柴田様」

下がった眉。翳りのある美とはこのことを言うのだろう。口許に僅かに湛えただけの笑みは、何とも言い難い。かの人の顔が自分から逸れる。目を奪った花をほんの少しだけ恨めしく思った。

「柴田様、見て。お花が咲いているわ」

しっとりとした花弁は清らかな白色に染まっている。それを撫でる指も同じように、白い。広げた紫色を着せようとすると、彼女は細い腕を上げ、袖を通した。

「とても、美しい」
「うん、ほんとうにね」

同じ場所で違うものを見ながら、同じ言葉を言う。たった、二人。何にも勝るこの幸福な時間が止まればいいと思いながら、自分のような者がこの麗人のすぐ傍にいていいものだろうかとも考える。

「もうすぐね」
「?」

突然声色が沈む。問いかけるような眼を向けても、彼女はこちらを見ないままに花を愛でるだけだった。

「もうすぐ、このお花を見ることもなくなってしまうのね」
「……」

彼女の言うそれは、浅井との婚礼のことだった。当主の浅井長政は実直で、度が過ぎるほどの正義感を持つ男だという。この戦乱の世で数少ない、裏のない人間。そんな男と魔王の妹の婚礼は、誰の目にも明らかな政略結婚であった。
こんな世の中では当たり前のこと。お家を保ち天下に手を伸ばすための常套手段。ただの一家臣がどうこう言えるようなことではない。分かっている。分かっているが心のどこかにわだかまりを抱えてしまう。なんて自分は愚かで罪深いのだろう。
政略結婚で不幸になるとは限らない。現に魔王の嫁、蝮の娘である濃姫様は信長様の隣で幸せな時を過ごしている。けれど、けれど。こんなに悲しげで、不安げな顔をする人が浅井の隣で幸せに笑むことができるのか。

「柴田様」
「はい、お市様」
「兄様の傍に、いてあげてね」
「!」

穏やかな笑みだった。優しい声だった。兄を思う妹の心がそこにあった。

「濃姫様や、光秀様を支えてね。蘭丸の相手も、してあげてね」

何と、清いことか。頷く以外の道はなかった。

「はい、必ず」
「ありがとう」

それが、「彼女」と言葉を交わした最後の日だった。次に会ったときに彼女は浅井の正室となっていた。戦装束の胸元に輝くのは三盛亀甲剣花菱だった。もっともその時に自分は彼女とは到底言葉を交わすことができないような場所にいたのだが。
反旗は変には成らず、乱で終わった。帝の手を借りて王を嘯いて、それでも魔王に勝つことはできなかった。圧倒的な力と、何よりその気迫に負けた。あの時死んでいれば、否、あの時確かに自分は止まった。愛した人との約束を守らなかった罰か。妖にもなれず、人にもなれない自分はいったい何なのだろう。
こんな芥のような独り法師だが、それでもまだ、あの時から変わらない思いがある。
逢坂山を越えようとも思わない。小寝などおこがましいことは望まない。だがそれでも。

あの美しく儚い実方を、誰にも知られないで手繰り寄せる術があれば。



名にし負はば 逢坂山のさねかづら 人に知られで くるよしもがな

prev next

戻る

情交と街