
彼女に初めて会ったのは、何でもない講義室でのことだった。一つ開けて隣に座った女性。横顔の、まつ毛が長いのに気を取られた。取り立てて美人というわけでもない。どこかで見かけた有名人というわけでもない。それなのに、彼女から目が離せなくて。一目惚れ?そんなはずはない。だってこの心には、そんな甘やかな彩はない。
「あの」
その目がこちらを捉える。はっと気づいて謝った。飴玉のような目だった。
「失礼、つい」
「あ、いや。そういうことじゃなくて」
つい、何だというのだろう。言葉を続ける前に止められる。眉尻が下がって、彼女は困ったように笑う。
「消しゴム忘れちゃったから、ちょっとだけ貸してもらってもいいですか?」
「無事に付き合うことに、なりました」
頬を真っ赤に染めて笑う彼女は、見たことのないペンダントを下げていた。あの年下の彼が与えたのだろう。首輪とまでは行かずとも威嚇のつもりか。彼女相手には穏やかで素朴な青年を演じているようだが、それに騙される薫も薫だ。
徳川家康。晴れて彼女の恋人となった青年。陽光のような笑顔で人を惹きつける彼だが、周囲が思うよりも少し周到だ。薫の外堀をじわじわと埋めて、ついにその日を迎えたのだろう。そのどこまでが無自覚で、どこからが計算なのかわからないあたりが末恐ろしい。とはいえそれに乗ったのは自分だ。あんなことでこの鈍感の背を押せるのだから、もっと他に何かあったのではとは思わなくもない。
「良かったじゃない、首輪までもらって」
「馬鹿にしてる?」
思ったことを口からすぐに出す彼女、京極マリアは同じ思考だったようだ。優雅に紅茶を嗜む彼女が、この研究室でそれらしきことをしている姿を見たことはない。憤慨する姿を物ともせず美しい女帝は言葉を続ける。
「で、泊まったの?」
「泊まったけど」
「あらぁ手が早いのね」
「あ、違う!そういうのはしてない!」
不躾な発言にみるみる薫の顔が青くなる。
「ていうかそんな話しないでよ、半兵衛もいるんだし」
「僕らくらいの年恰好ならそんな話題も出て普通だろう」
「えっ」
「君は僕を何だと」
「あ、いや」
口籠もりながらコーヒーを淹れる姿を見守っていた。焦っている時彼女は必ずコーヒーを淹れるし、そしてミルクを入れ忘れる。それからむせ返る。ここまでで一つの流れ。
「ん、げほっ!」
「ほらぁまたやった」
呻く姿を笑うマリアが、そのブラックを代わりに飲むのも、いつもの流れだ。
何にも変わらない三人だった。喚く薫を揶揄うマリア。そしてそれを傍で見ている自分。その距離感がそう、少し、少しだけ心地よかった。きっとこれからもそれは変わらないし、この空間を離れた後も続くのだろう。
だからこれが、この感情の名前だけがひとつ、わからない。
恋というには甘さのない、関心で終わらせるには忍びないあの日の感情は、今でも説明できないままだ。
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情交と街