見えない春の始まり




「――治せないってことですか?」
「現状は、そうですね。」


残念ですが…と、カルテを見ながら答える医師。
ここは眼科。みょうじ なまえは、中学に上がったと同時に視界に違和感を感じ、診察に来ていた。

めまいがすると思ったら、そのまま放課後教室で眠ってしまっていたり。それから段々と色の識別が難しくなり、視界にはモノクロの世界が広がるようになった。
様々な検査をしたが、原因は不明。
しかし症状としては色覚異常である。
網膜、大脳、視神経にも異常はないとのこと。考えられるのは心因性…新生活が始まったので、ストレスによるものではないか、というのが今のところの見解だ。


「視力に影響はないですが、信号の色が分からなかったり危険もあります。くれぐれも日常生活では気をつけて過ごしてください」





「はあ…」

なまえは帰りの道を歩きながら、思わず重たいため息をつく。
この春なまえが入学したのは、以前養護施設でお世話になった父親のような存在…影山総帥がいる、帝国学園だ。規律を重んじサッカーに力をいれる学園に中等部から入ったなまえにとって、確かに大きな環境の変化ではあるが、自覚している限り大きなストレスを感じているわけではない…つもりである。

信号を待ちながら、目の前をひらひらと舞う花びらを見て空を見上げた。
頭上には満開の花をつけた木があった。今の時期この場所なら、確か桜だったはずだ。
しかし、モノクロの視界にいるなまえにとっては、桜と真に認識することも、それを美しいと思うことも叶わなかった。


「桜を綺麗と思えるの…当たり前じゃなかったんだなぁ…」


花を見ながら食事をする、花見という文化は日本独特らしい。当たり前にしてきたことが突然できなくなったことに、なまえは疎外感を感じる。

「いたッ」

目に何かゴミが入った。何かは分からないが目の中が痛む。カバンの中に入っているポーチに目薬があるので、それで洗い流そうと慌ててショルダーバッグを開けると、春特有の強い風が噴きあげ、なまえのハンカチがカバンから飛び出してしまった。

ひらひらと空中を舞うハンカチ。なまえは上空を見上げながら開いた口が塞がらない。目も痛いけど、母からもらった大切なハンカチが飛ばされるのは困る。
なんとかキャッチしようと、ハンカチの着地点を探しながら右往左往していたところに、誰かがそのハンカチを空中でキャッチしてしまった。


「このハンカチ、君のか」
「は、はいそうです!」


何というジャンプ力だ、と感心したのも束の間。
ハンカチをとってくれたのは、なんと帝国学園サッカー部キャプテンの、鬼道有人であった。
なまえとは直接の関わりは無いものの、彼はかなりの有名人である。


「…すまない、サッカーボールを持っていた手で触ってしまったので、土の汚れがついてしまった。もしよければ代わりのハンカチを用意する」
「あ、いえ…!それは母からもらった大切なハンカチなので、私は返していただければ大丈夫です、洗濯しますから!」
「…そうか、すまなかった。」


あのままでは桜の木の枝に引っかかってしまうと思って、自然と体が動いていたんだ。
そう言いながらハンカチを返してくれた鬼道。なまえは学園の有名人との会話に緊張していた。


「そ、それでは失礼します!ありがとうございました!」


そそくさとその場を去るなまえ。
慌てて横断歩道を渡ろうとし、車に轢かれそうになるなまえを横目に、鬼道は眉をひそめる。


「…あの女、どこかで…」



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