リフレイン・エフェクト

そうだ、死のう。
ぱっと頭に浮かんだそれは簡単な逃避方法だった。仕事に疲れて帰ってきて、1人でご飯を食べて、満足に睡眠も取れないまま仕事へ行く。やってもやっても終わらない仕事を切り上げて帰ってきて、また同じことの繰り返し。
何度も何度も仕事から逃れる方法を考えて上司に退職を申し出ても、強く拒否されては辞められない弱い自分にも辟易してしまった。

高い高いビルの上で下を見下ろす。仕事終わり、もう町は眠りについている。例の如く終電を逃した私は家に帰ることなく会社のビルの屋上に来ていた。ビルの下はこの時間、人は全く通らない。やっと開放される。……その時だった。

「おいおい、自殺か?今どきそんなの流行らないぞ」

軽い調子で笑いながら聞こえた静止の声。聞いたことのない男の声だった。

「どうして止めるの?貴方には関係ないでしょ」

突き放すように私がそう言っても男は何処吹く風というように「まぁまぁ、落ち着けって。丁度俺の手には缶コーヒーとココアがある。ってことで、死ぬ前に俺と乾杯しないか?」と言った。
そこで漸く私は後ろを振り返った。フードを深く被った男は、自殺しようとしている私が言うのもおかしなことだが、明らかに不審者だった。

「ほら」
「わっ、危ないじゃないですか!」

距離も程々に、缶のココアをひょいっと投げてきた男。もう少し勢いがついていたら落ちているところだった!ココアを受け取ろうして誤って転落だなんて、流石に嫌すぎる。
カチャ、なんて軽快な音を立てながら缶コーヒーを飲みだした男。
「どっこいしょ、」なんておじさん臭いことを言いながら地面に腰を下ろす姿があまりにも呑気すぎて、勢いが削がれてしまった私は大人しく柵の内側に戻って男の隣に腰を置いた。

「なんで自殺しようとしてたんだ?」

あ、それ聞くんだ。引き止められるのが鬱陶しくて、ついきつい口調で「どうして聞くんですか?死にたいからに決まっているでしょ?」と言ってしまった。
珍しく優しくしてくれた人なのに、申し訳ないことをしてしまったなと少しの罪悪感を抱いたが、男は気にした風ではない。そのことに少しだけ安堵した。

「君はさ、当てのない旅ってしたことあるか?」
「え、いや、ありません、けど…」

突然の質問に面食らってしまい、しどろもどろになりながら答える。

「じゃあ行ってみたらいい。バイクでも借りてさ、行き先は決めずに田舎の一本道をずっと走り続けるんだ。海沿いを走ればキラキラと太陽を反射させた海が君を歓迎してくれる。その後は牧場へ向けて走るといい。自然の中で生きる動物に触れ合ってこい。どんな状況でも草食ってれば生きていけるんだなぁって思うから。そしたらその後、野外でキャンプをすればいい。こことは違って遮るものがなにもないから、星達が君を優しく見守ってくれる」

フードの中の涼やかな瞳が、きらきらと彼の語る海や星のように輝いているのが見えた。

「嫌なことなんて投げ出していい。君の知らない日本は、とても素敵な国だよ」

酷く愛おしげな瞳が私を許すようにそう告げた。あぁ、きっと私は許されたかったのだ。逃げることを、投げ出すことを、誰かに許されたかった。認めてほしかった。
ココアは既に飲みきってしまっていた。男はそれを確認すると「じゃあ、俺はこれで」と立ち上がった。

「待って!名前を、教えてもらえませんか?」
「……景光」
「景光、さん。また、会えますか?」

男は私の問いに答えなかった。その代わりに「生きろよ」とだけ言った。

*

そして私は今日もしぶとく生きていた。
会社は辞めた。辞めたというか、もう一度辞表を出したけれど受け取ってもらえなかったからそのまま労働局へ行って事情を話し、晴れて自由の身となった。
これも全部、自暴自棄になって死ぬことが自由になる唯一の方法だと思っていた私の余裕のない心に、考え直す隙をくれた彼のお陰だ。感謝しかない。
そんな私の目下の目的は、景光さんにもう一度会ってお礼を言うことだ。フードを被り、夜闇に紛れる姿はあまりにも後ろめたいことをしている裏稼業の人間にしか見えなかったが、私に日本の美しさを教えてくれた彼は、紛れもなく私のヒーローだった。

幸いなことにお金は十分あった。だから、探偵を雇って調査をしたり、時には私自身が歩き回って調査したりした。
名前と容姿だけの情報では見つからないかも、と思っていたが、たまたま雇った何人目かの探偵がとても優秀な人で、彼の職業と、その友人と思われる人のことまで特定してしまった。

「さすが安室さん、すごいですね」
「はは、そんなことありませんよ」

謙遜する彼は整った顔立ちをそのままに、にっこりと綺麗に笑った。彼は私が景光さんを探しているという噂を聞きつけて売り込みに来てくれた凄腕の探偵だ。『何故探しているのか、教えてほしい』といきなり訪ねてきた時は流石にびっくりしたが、簡単に経緯を伝え、お礼を言いたい旨を伝えれば『そうですか…景光さんは、とてもいい人ですね。ありがとうございます』と何故か安室さんからお礼を言われてしまった。

「それにしても警察官だったとは…」

裏稼業の人間だなんて思ってしまった自分が恥ずかしい。会えたら、そのこともお詫びしよう。再会に思いを馳せながら、安室さんに教えてもらった伊達という刑事さんを訪ねる。
一般人だからそう簡単に会ってくれなさそうだなぁ、と思っていたが、案外簡単に伊達刑事は私と面会してくれた。
厳つい、いかにも刑事といった風貌の伊達刑事に少し気後れしながらも、景光さんという人に命を救われたこと、日本の素晴らしさを教えてくれた彼に一言お礼を言いたいこと、だから、彼に会わせてほしいということを伝えた。景光さんは私のことを覚えていないかもしれないけど、それでも私が救われたことは事実だから、お礼だけでも受け取って欲しい。流石に自殺をしようとしていたことは言えなかったけど、私の話を聞いた伊達刑事は酷く神妙な面持ちで「……わかった。あいつがいる場所に、案内しよう」と言った。

*

そこは、冷たい灰色の墓石の並んだ墓だった。
仄かに鼻腔を掠める線香のにおいが心をぎゅうぎゅうと締め付ける。

「……彼は、優秀な捜査官だった」

そんなありきたりな台詞が聞きたいわけじゃない!
そう、伊達刑事に掴みかかる余裕もなかった。
物言わぬ目の前の灰色に向かって、ずっと用意していた言葉を言おうとするも、震える私の口は「ぁ…あぁ…」と言葉にならない空気を吐き出すばかりだった。耐え切れずにゆっくりと膝を地面につける。私の意志とは関係なしに溢れ出てくる涙を、拭う気も起きなかった。

「もう、1年も前だ。景光が死んだと聞かされたのは」

それは、丁度私と景光さんが出会った頃だった。自分の命も危うい中で、彼は私のことをよく見つけたものだと思った。

「俺の口から景光が死んだってこと、伝えるべきじゃない気がして。何も言わずここに連れてきて、本当にすまない」

そう、伊達刑事に頭を下げられては何も言えなかった。確かに、伊達刑事にそう言われても納得できなかっただろう。

「いいえ、気にしないでください」

そうなんとか言えば、伊達刑事はもう一度「すまない」と言って、私の隣で両手を合わせた。

『生きろよ』あの時の言葉が脳内でずっとリフレインしていた。

*

そして、私はあの日と同じように、場所は違えどビルの屋上に立っていた。
暗闇の中、鈍った星々が私を見下ろしている。死にたいわけではない。けれど、生きる目的が急になくなってしまったから、ビルの上ならもう一度景光さんに会える気がして、来ただけだった。
馬鹿な考えであることは重々承知していたが、冷たく頬を撫ぜる風にまで馬鹿にされている気がして、いっそ飛び降りてしまおうかと思った。

「おいおい、自殺か?今どきそんなの流行らないぞ」

軽い調子で笑いながら聞こえた静止の声。それは、聞いたことのある男の声だった。
―――景光、さん。驚いて声も出ない。あの時とまったく変わっていない彼。

「どうして、止めるんですか。あなたには、関係ないでしょう」

そう言えばあの日と同じように彼は私にココアを投げて愛おしげに日本を語る。いつの間にか私は、ずっと前に捨てたはずの仕事着を着ていて、辺りを見渡せばそこは私の元職場のビルの屋上だった。

「いまって、何年の何月何日でしたっけ」
「疲れてると日付感覚も狂うよなぁ」

今日は―――と告げられた年月日は、私が死のうとしていた日と同じだった。あぁ、あの日を繰り返している。鈍った頭で漠然とそう思えば、途端に頭が冴えていく。景光さんが生きている。ならば、私は彼を生かすことができるのではないだろうか?

「じゃあ、俺はこれで」

あの日と同じように、彼が別れを告げる。「あ、あの!」勇気を振り絞って、私は彼の右腕を掴んだ。フードの中が驚いた表情に変わる。

「名前を、名前と、れ、連絡先を教えてください! わ、わたしと、付き合ってください!」


今度は絶対に、景光さんを死なせない。