吾輩は雀である(後編)

雀。どこからどう見ても雀である。
小羽は自分の姿を見て、ショックのあまり何も言えなくなった。
無言で俯いた視線の先に映る白い羽毛に、無性に泣きたくなった。
鎹一族は鴉にしか変化できないはずなのに、なぜ自分は雀なんかに変化しているのだろう。
もう訳がわからなくて、小羽は混乱していた。


「チュ、チュン……(なんで私、雀なんかに……)」

「小羽、大丈夫か?どこか体に変化はないか?」

「チュン……(すずめ……)」

「……小羽?」


清隆は鴉にではなく、雀に変化するなどという異例のない事態に、驚くよりも先に大切な妹の身体の心配をした。
鎹一族の者が鴉にではなく、雀に変化するなんて聞いたことがない。
もしかしたら、小羽の身体に何か良くない変化が起きているのではないか?清隆はそれを心配していた。
けれど当人である小羽はそれどころではなかった。
自分がやっとの思いで変化できたのは、ずっと憧れてきた鴉ではなく、なんの力も持たないか弱い小さな雀。


(何で?どうして?私、何か間違えた?)


小羽は自分の変わり果てた姿が信じられず、信じたくなくて、どうしても現実を受け入れることができなかった。
これはきっと何かの間違いだ。そうに決まってる。
そうじゃなければ、どうして自分は雀なんかになっているの?
あまりのショックに、小羽は清隆が自分を心配そうに見つめ、名を呼んだことに気付かないまま、空へと羽ばたいてしまった。


「なっ!――小羽!?」


たった今変化したばかりの小羽は、飛び方もよく分からないまま、気持ちのままに空へと飛び上がってしまった。
鳥の雛が母鳥から飛び方を教わって初めて飛び立ち方を知るように、鎹一族の者も変化してすぐに飛べるわけではない。
鴉の姿に変化できるようになって、何度も飛ぶ練習をして、そうしてやっと飛べるようになるのだ。
だからこそ、感情のままに羽を動かし、慣れない飛行をすることはとても危険な行為であった。
それでも小羽は飛び立ってしまった。
感情のままに、ずっと憧れていた筈の鴉にはなれず、本来なら有り得ないはずの雀の姿になったまま。
それが自分の身体にどんな影響があるのかも何も分からない状態で。
小羽は一人、家族の元を離れてしまったのであった。
清隆は慌てて追おうとしたが、少し目を離した間に小羽の姿を見失ってしまったのである。


「――くそっ!小羽!」


思わず舌打ちして、清隆は慌てて鴉の姿になって彼女を探し始めたのであった。



************



その頃小羽は、ふらふらと危なっかしい様子で空を飛行していた。
小羽たちは家は街から少し離れた山の中にある。
本来であれば鎹一族は人間を避けるために、人の足では決して入り込めないような山奥に隠れ里を作って暮らしている。
けれど小羽と清隆の父は元水柱であり、現役の頃に上弦の鬼との戦いで両足と右手を失った。
だから信濃家の者たちは、生活が困難な彼のために街近くの山で暮らしていたのである。(山の中で暮らしているのは、鳥に変化するのを隠すため)
そして小羽は、ふらふらと不安定な飛び方で無意識に街へとやって来たのであった。


(どうしてどうして!)


パタパタと小さな羽を精一杯羽ばたかせて、小羽はがむしゃらに飛んでいた。
ヨロヨロとした飛び方で木の枝に体を何度も擦りつけてしまい、所々に怪我をしてしまいながらも、それでも小羽はなんとか街へと辿り着いた。
ふらふらとへたり込むような感じで地面へと降り立つと、くたくたに疲れきった体を休めるようにぐったりと座り込んだ。


「……チュン(つ、疲れたぁ〜……)」


地に足をつけたことで、不安定にずっと空を飛んできたことによる疲労と、ずっと慣れない宙を浮く感覚から解放されて、小羽は心から安堵した。
思わずふうっと、無意識にため息を吐き出した。
そしてこの時、彼女はとても気を抜いていた。
小羽は今、か弱き小さな雀になっている。
本来であれば絶対に周囲への警戒を怠ってはいけなかった。
そして案の定、その気の緩みが小羽に危険をもたらそうとしていた。
小羽を見つめる一つの影。
それはゆっくりと気配を消して、一歩、一歩と小さな小羽に近づいていく。
ジュルリと涎を垂らしそうになるのをぐっと堪えるように、その影は唾を飲み込むと、気配と音を殺して確実に近づいていく。


「にゃぁ〜〜お!!」

「チュン?(えっ?)」


ふと背後から突然声がして振り返ると、そこには今まさに自分に牙を剥かんとばかりに飛びかかろうとしている野良猫がいた。
気がついた時には既に遅く、猫は小羽に襲いかかる。


「ニャー!!フシャーー!!」

「チュチュチュン!!(ちょっ!猫ォォォォォォォォ!?)」


小羽は慌てて空へと飛び上がろうとしたが、猫の方が少しばかり速かった。
パタパタと羽ばたく小羽の体に爪を立て、小羽も食べられたくない一心で必死に抵抗しようと羽を動かす。
辺りに小羽の羽根が飛び散り、そんな猫と雀の様子を街の人々はどうでも良さげに一瞥しては去っていく。


「チュチュチュン!!チュゥン!!(食べないで!!やめて!!)」

「ニャー!!ウニャア!!」

「チュン!!チュンチュン!!(いた!!いたい!!)」


パタパタと羽を動かして抵抗するも、小羽よりもずっとずっと猫の方が体が大きい。
そんな相手に襲いかかられてしまっては、小羽のささやかな抵抗なんて無意味に等しかった。
小羽の白くて柔らかな羽毛に猫の爪が引っかかり、小さな傷ができていく。
怖くて怖くて、痛くて、心細くて、小羽はもう混乱して泣き叫んでいた。
誰でもいいから助けて欲しい。そう、心から願った。
そんな時だった。「やめろっ!」そんな怒声と共に小羽の体がすっぽりと何かに包まれ、不意に持ち上げられた。
それは人の手だった。小さな子供の手。
小羽の体を猫から守るように両手でしっかりと包み込むと、必死に胸のところで掻き抱くように隠してくれた。
子供の手ですっぽりと覆われたことで、小羽は猫から遠ざけられて、ホッと安堵の息をつく。
そして指の隙間から上を見上げてみると、その子供は自分と歳の近そうな男の子であった。


(誰?私を助けてくれたの?)


黒髪で気が弱そうなその男の子は、小羽を必死に守りながら、猫に引っ掻かれていた。


「フシャーー!!」

「いて!!いたただ!!何だよ!!やめろよ!!雀だって必死に生きてるんだぞ!!いじめるなよ!!可哀想だろ!!」

「シャーーっ!!」

「いてぇ!!」


男の子は泣きながら猫に説教していた。
そして猫は男の子の顔を思いっきり引っ掻き、頬にくっきりと三本の引っ掻き傷を残して何処かへと去って行った。


「いって〜〜!!あの猫!!なんて凶暴なんだ!!」

「チュン!!」


男の子は引っ掻かれた頬を片手で抑えながら、痛そうにボロボロと涙を流していた。
自分のせいで男の子に怪我をさせてしまい、心配そうに小さく鳴き声をあげた。
けれど、自分は今はただの雀だ。きっと彼に言葉は伝わらないだろう。
そう思ったのだが、男の子は小さく囀った小羽を見下ろすと、にっこりと笑ってくれた。


「心配してくれるのか?大丈夫だよ。痛いのは慣れてるし。……ああ、でもやっぱりちょっと……いや、かなり痛いなぁ。」


そう呟く男の子は小羽の体をじっと見つめる。
所々に猫に引っ掻かれたせいで、白い羽毛にはうっすらと血が滲んでいた。
男の子はそんな小羽を見て、まるで自分が怪我をしたかのように、泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。


「ごめんなぁ。俺がもっと早く助けてやれたら、こんな怪我しなくて済んだかもしれないのに……」

「チュンチュン!!(そんなことないよ、助けてくれてすごく嬉しかったよ!!)」

「……ちゃんと飛べるか?手当とかしてあげた方がいいのかな。……でも、家の人が許してくれるかな。」


男の子は何やら困っているようだった。
彼の事情は分からないが、ここで私が飛べないと助けてくれた彼に余計に迷惑ををかけてしまいそうだ。


「チュン!チュチュン!(大丈夫!私飛べるよ!)」


小羽は男の子に笑顔になって欲しくて、元気いっぱいに鳴いてみせた。
バタバタと勢いよく羽ばたいて、飛び立つ準備をする。
本当は体が所々痛いし、疲れているからまだ飛びたくはなかったのだが、それでも今は飛ぶべきだと強く思った。
自分を助けてくれた男の子を笑顔にしたい。安心させてあげたい。そんな想いでいっぱいだった。


「……飛べる?」

「チュン!」


男の子は心配そうに言葉をかける。
そんな彼に応えるように、小羽は元気よく一声鳴くと、次の瞬間、空へと飛び立った。
バタバタと可愛らしい羽音を立てて、今度はしっかりとした様子で空へと舞い上がる。

――小さな雀が飛び立っていく様子を、男の子はじっと見上げていた。

その姿があっという間に見えなくなると、彼はやっと安心したように微笑んだのだった。


「――良かった。ちゃんと飛んでくれた。あの雀、まるで最後は俺にありがとうって言ったみたいだったなぁ」


そう、嬉しそうに笑う男の子……我妻善逸と、雀の少女、信濃小羽が再び出会い、再会を果たすのは数年後のことである。

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