第4話

あまり待たせてしまうのは悪いと思って、少し急いで水着に着替えると、更衣室の近くで悟くんたちが待っていた。
何故か悟くんはそわそわと落ち着きの無い様子で、足で砂を蹴ったりして気を紛らわそうとしているように見えた。

「お待たせしました。」
「……」
「おや、似合ってるじゃないか。私のセンスも悪くないね。」
「ふふ、ありがとうございます。」

褒めてくれた夏油先輩に愛想笑いを浮かべてお礼を言うと、彼は悟くんの肩を肘でつついて小さな声で何かを耳打ちしていた。
それを悟くんが鬱陶しそうに手で払い除ける。

「悟、何か言ったらどうだ?」
「うっせ!」

私にはギリギリ聞き取れないようなとても小さな声で何かを話した後、悟くんはおもむろにわざとらしく咳をすると、私を上から下まで観察するようにじっと見てきた。
舐め回すようないやらしい視線を感じで、私は思いっきり眉をひそめた。

「しのぶ」
「なんですか?」
「お前って、脱ぐとデカイな。」
「セクハラで訴えてもよろしいでしょうか?」

デリカシーの欠けらも無い言葉に、やっぱり悟くんは性格がクソだなと改めて思うと同時に、彼に気の利いた言葉を期待してはいけないと思った。
私は怒りを顔に出さない代わりに、にっこりと笑顔を浮かべて言った。
人の胸をジロジロ見るな。本当に訴えるぞと怒りを込めて。
それでも悟くんは私の胸をガン見するのをやめない。
サングラス越しにでもはっきりと分かるくらいに、胸に視線が集中している。
2m近くある高すぎる悟くんの身長が私を見下ろす。その視線は私の顔ではなく胸。
身長差が40cm近くもある私が悟くんを見上げると、首が痛くなる。
それでも私は未だに胸に注がれる視線に怒りを込めて、悟くんを見上げていた。
おい、本当にいい加減にしろ。見るのをやめろ。本当に怒りますよ。
私が無言で拳を握り締めたのを見た夏油先輩が、慌てて悟くんの頭を叩いたことでなんとか冷静になる。

「いてぇ!何すんだよ傑! 」
「いい加減にしろ悟。女性の胸をガン見するんじゃない。」
「婚約者なんだからいーじゃん!」
「良くありませんよ。」

私が笑顔を浮かべたままそう言えば、悟くんはそこでやっと私の目が笑っていないことに気付いたらしい。口元を引きつらせた後、さっと目を逸らした。
ああ、良かった。これ以上いやらしい視線を向けるようなら、ご自慢の六眼を潰すところでした。
夏油先輩も決して性格がいいとは言えないけれど、それでも悟くんよりは常識があるし、悟くんのストッパーとして良い抑制剤になってるので本当に彼には感謝している。

「別に見たっていーじゃん!」
「まだ言いますか。」
「その代わりしのぶも俺の裸好きなだけ見ていいぜ?」
「私になんの得が?」
「バッカ!こんなイケメンの裸見れるなんて光栄だろうが!どんだけの女が俺の裸見たがると思ってんの?」
「……ナルシストですか?イタいです。」
「その目やめろ。」

可哀想に悟くん。自分が世界中の女の子に好かれる美形だとでも思い込んでいるんでしょうか?
確かに悟くんは顔はいいと思います。自他ともに認めるご尊顔です。
だけど女子がみんな彼に惹かれるとか思ってるならあまりにもイタいです。気持ち悪いです。
もうここまで来ると自信家というよりもヤバい人です。
私が悟くんの常識を疑いながら哀れんだ目を向けると、悟くんは私が何か失礼なことを考えているのは察したらしく、嫌そうに顔を歪めた。



*****



「プハハハハハ!!ナマコ!!ナマコ!!」
「キモ!!キモなのじゃー!!」

浅瀬でナマコを見つけたらしい悟くんがそれを拾って天内さんに見せる。
女の子である天内さんにナマコとかちょっとグロテスクな生き物を見せていいのかと思ったが、杞憂だったようだ。
天内さんは楽しそうに黒いナマコの表面を指で突っつきながら、「キモイキモイ」と笑っている。
それから悟くんが天内さんに海水を手ですくって勢いよくかけたり、それにプチ切れた天内さんと浜辺で追いかけっこが始まったりした。
悟くんは天内さんのいい遊び相手になっているようだった。
悟くんは女子に気を使えるような性格ではないので、天内さんの相手を任せてもいいのか心配していたが、返って悟くんのデリカシーの無さが天内さんにとっては変に気を使わずに済んだらしく、心地よいのかもしれない。
まるで小学生のように海で大はしゃぎする二人を保護者目線で見守っていたら、不意に黒井さんが口を開いた。

「いいんでしょうか。観光なんて……」
「言い出したのは悟ですよ。アイツなりに理子ちゃんのことを考えてのことでしょう。」
「そうですね。悟くんはあんな性格ですけど、優しい所もあるので。」
「それ、悟に直接言ってあげたら喜ぶよ。」
「いやですよそんな。」

クスクスと私が笑いながら言えば、夏油先輩は苦笑を浮かべる。
きっとお互いに素直になれない私たちに対して困ったものだとか思っているのだろうな。
そんな会話をしていると、悟くんたちがこちらに戻ってきた。
天内さんはかなりずぶ濡れになっているが、悟くんは無限を使っているのかまったく濡れた様子がない。
もしかして悟くん、ずっと術式を使っているのだろうか?
その時になって私は漸く違和感を感じた。
サングラスの隙間から覗いた綺麗な空色の瞳もどこか濁っているように見えて、私は悟くんの顔色からどこか疲労が浮かんでいるように思えた。
思わず悟くんに近寄ってその顔色を窺おうとじっと悟くんの顔を見つめた。
私の視線に気付いたのか、悟くんはニヤリと口角を釣り上げて笑う。

「なんだよしのぶ、俺に見惚れてんの?」

軽口を叩く悟くんは普段通りに見える。けれど一度感じた違和感はどうしても消えなくて、私は無意識に彼の頬に触れようと手を伸ばした。
けれどそれは何か見えない壁のようなものにはばかられて、悟くんに触れることはできなかった。
無限。やっぱり悟くんは今も術式を使っているんだ。
どんなに呪力量を膨大に持っている呪術師でも、長時間術式を使い続けるのは困難だ。
術式を途切れることなく使い続けることは、相当な負担になるのは間違いない。
ふざけているようで、悟くんはちゃんと周囲への警戒を怠ってはいなかったのだ。
その証拠に、今も途切れることなく術式を使っている。疲労が見えているのはそのせいだろう。
もしかしたら、昨日から寝ていないのかもしれない。
いくら悟くんでも、そんなのはきついに決まってる。
私は無意識にきゅっと眉をひそめると、呟くように尋ねていた。

「……大丈夫ですか?」
「あっ?何が?」
「……」

私の問いの意味を、悟くんが気づかない訳が無い。
だけど悟くんは悟られたくないのか、不思議そうに逆に聞き返してきた。
わざとすっとぼけて、誤魔化そうとしている。
それがすぐに分かって、私はスっと目を細めた。一体、何年の付き合いだと思っているんだ。
悟くんの嘘なんてすぐに分かる。どうして私に素直に心配させてくれないのか。
それとも、天内さんたちに知られたくないのだろうか。……両方な気がする。
悟くんが天内さんたちに余計な気を使わせたくないのはなんとなく分かるが、それでも心配くらいはさせて欲しかった。
私にくらい、無理していることを言ってくれても良かったのに。
戦力としては頼りにならなくても、せめて少しくらい休めるように協力は惜しまないのに。
悟くんのことだ。きっと護衛が終わるまで無理を続けるのだろう。つまりは、今夜も寝ないということだ。
油断しないのはいいことだけど、もっと夏油先輩や私を頼ってくれたっていいじゃないか。
いくら悟くんの実力が桁違いでも、彼だって人間なのだから。

「……」
「しのぶ、大丈夫だ。」

無意識に顔を歪めていたのだろうか、悟くんが私の心を察したかのように、私が悟くんに触れようとして無限に阻まれた手を取った。
そのまま自分の頬に私の手を当てる。悟くんから触れられなければ、私は悟くんに触れることもできないのか。
それが少しだけ寂しいと感じてしまうのは、私の勝手な我儘だ。
悟くんは不安そうに瞳を揺らす私の目をもう一度真っ直ぐに見つめて、「大丈夫だ」と力強く言った。
悟くんは強い。夏油先輩もいるのなら、きっと大丈夫だろう。
私はこくりと小さく頷いて、微笑んだのだった。



*****



「あっ、あの!メアド教えてくれませんか?」
「あっ?」

少しの間海で遊んでいると、悟くんが喉が渇いたと言って一人で近くの自動販売機に飲み物を買いに行っていた。
彼を待っていた私たちの耳に、そんな声が入ってきたのである。
見ると悟くんは女子大生と思われる、年上の女性二人に声を掛けられていた。
それを見て、私と夏油先輩はまたかとげんなりした顔をした。
あー、悟くんって確かに顔だけはいいんですよね。性格に問題はありますけど、黙っていれば美男子なのは間違いないですし。
悟くんと街に出かける度に、彼はよく女性から声をかけられる。
所謂逆ナンというものが後を絶たないのだ。だからこの光景はすっかり見慣れてしまった。しかし、それを見ていた天内さんは、納得できないと言った表情を浮かべた。

「……何故あんなのがモテるんじゃ。」
「皆さん顔に騙されるんでしょうね。」
「悟は黙っていればモテるからね。」
「あら、そう言う夏油先輩の方がモテるのではありませんか?」
「ふふ、だといいけどね。」
「それよりも止めに行ってくれませんか?」
「悟なら自分で断れると思うけど?」
「そっちの心配ではなく、女性の方の心配です。悟くんは口が悪いので、酷い言葉を言ってあの女性たちを泣かせる前に止めてください。」
「それは有り得る。でもそれなら胡蝶が行ってあげればいいんじゃないかな?」
「同じ女の私が行っても、余計に火に油を注ぐことになるだけだと思いますが?」
「確かに。なら行ってくるよ。」
「天内さんたちのことは任せてください。いざと言う時には対呪詛師用の呪具を水着に仕込んで持ってますから。」
「それは頼もしいね。」

私がパーカーの袖からちらりと仕込み刀を見せると、夏油先輩は苦笑しつつ頷いて悟くんの方へと向かっていった。
それをにこやかに見送ると、私は周囲への気配を注意深く確認する。
常に全集中“常中”をしているお陰で、周囲への警戒は怠ってはいない。
今のところ怪しい動きをする人間も、呪詛師も近くにはいないようだ。
いつでも動けるように、油断だけはしない。

「天内さん、疲れていませんか?」
「大丈夫じゃ!黒井も今度は海に入ろうよ!」
「あまりはしゃぐのは危険ですよ理子様。」
「大丈夫ですよ。悟くんたちが戻ってきたら……っ」

そこで私は言葉を止めた。何故ならこちらに近づいてくる人の気配を感じたからである。
ハッとして振り返れば、見知らぬ男性が4人、こちらに近付いてきていた。
海水浴に来た観光客だろうかと思ったが、明らかに4人はこちらを見ていた。
そのうちの一人と私の目が合うと、彼等はにっこりと愛想笑いを浮かべてこちらに歩いてきた。
私は咄嗟に天内さんを背に隠すように前に出る。彼等が一般人にしても何者しても、天内さんに近づける訳にはいかなかったからだ。

「ねぇねぇ君たち高校生?あっ、そっちのお姉さんは大学生かな?」
「……何かご用ですか?」
「いやー、女の子だけでいるから気になって。」
「女の子だけで海水浴なんて寂しくない?俺たちと泳がない?」
「いえ、連れがいるので結構です。」
「えー、本当に?ならさ、君だけでいいから遊ぼうよ。」
「近づかないでくれます?」

最悪だ。こんな時にナンパか。悟くんだけでなく何も私までナンパされることはないだろうに。
面倒なのに絡まれてしまった。こんな人達の相手なんてしている場合じゃないのに。
あまり事を荒立てたくはないが、口で言っても諦めてくれないなら、少々力づくで追っ払ってもいいだろう。
私は周囲に人が少ないことを確認してから、拳をぐっと握った。
横っ腹を突く。相手を殺さない態度の力加減で。
そう決めてから、行動を起こそうと足に力を入れようとして、やめた。

「俺がちょっと目を離すとこれだもんな。」
「さと……」

後ろから悟くんと夏油先輩が来た気配を感じていたので、私はもう大丈夫だと力を抜いた。
そして後ろから声がしたのに反応して、振り返ろうとした。
しかし、後ろに体をひねろうとした瞬間、背後から大きな手がにゅっと出てきて、私の顎を掴んだ。
そのまま力づくで無理やり上を向かされる。

「んーーーーっ!!」

上を向かされた瞬間、さらりと白い悟くんの柔らかな髪が顔に掛かった。
そして噛み付くように唇を重ねられた。悟くんの名前を呼ぼうと微かに開いた唇の隙間に舌を差し入れて、私の舌を絡め取る。
キスされてる。そう頭が理解した瞬間、私は声にならない悲鳴を上げていた。
舌と舌が絡み合い、私の舌が逃げようとするとすかさず悟くんの長い舌に絡め取られてしまう。
身じろいで抵抗しようとすれば、お腹と顎に添えられた手に力を入れて固定される。
くちゅ、くちゅっといやらしい唾液が混ざり合う音を耳が嫌でも拾ってしまい、羞恥心に駆られた。
天内さんと黒井さんが息を飲む声や、戸惑う視線。ナンパしてきた男たちの固まっている気配の様子が、全集中“常中”によって研ぎ澄まされた神経のせいで、視界を悟くんに奪われていても分かってしまう。
それが羞恥心に余計に拍車をかけた。なんとかしてこの馬鹿から離れなければ。
私は後ろから抱きしめられ形でキスされてるせいで、身動きが上手く取れない。
動かせる手で悟くんの腕を叩くが、彼は一向にキスをやめようとはしなかった。
「悟!それはダメだ!離しなさい!」と夏油先輩の焦ったような声が耳に入る。
そこでイラッと来た。段々と羞恥心は怒りに変わる。私はもうなりふり構わずに、視界いっぱいに広がる悟くんの髪をむんずと掴んで、思いっきり引っ張った。



*****



「いてててて!!いてぇ!!」
「んーーーっ!!んーーっ!!」

私が思いっきり髪を引っ張ったせいで、プチブチと悟くんの髪が何本か勢いよく抜けた。
あまりにも痛かったのだろう、悲鳴にも近い声を上げながら、やっと悟くんは私を解放してくれた。
口から長い舌が抜かれ、唇に銀色の唾液の糸が伸びる。

「ぷはっ!!いてぇよしのぶ!!」
「……っ、はっ、はぁ……自業自得です!!舌を噛みちぎられなかっただけでも感謝してください!」

私はごしごしと腕で唇を乱暴に拭うと、悟くんを睨みつけた。
なんてことをしてくれたんだ。最低だと思っていたけれど、本当に人間のクズだ。
有り得ない。最低。もう本当に色々と許せない。
殺気にも似た怒りを込めて悟くんを睨みつけると、流石の悟くんもひくりと口元を引き攣らせた。

「こんなやり方あんまりです!!最低です!!」
「口で言うよりも見せつけた方が早いじゃんか!」
「バカ!本当にバカ!」
「……あの〜」

私と悟くんが言い争っていると、すっかり放置されていた男たちがおずおずと声をかけてきた。
怒りを隠しきれない私は、八つ当たりに近い気持ちで彼らを睨みつけた。「そもそも貴方たちのせいです!早く何処かに消えてくれませんか!?」と殺気の籠った鋭い視線を向けて叫べば、彼らは顔を青くして「ひえっ!おっ、お邪魔しました〜っ!」と叫びながら何処かへと去っていった。
そんな彼等を一瞥すると、私はまた悟くんへ視線を向けた。
悟くんは全く悪びれていないのか、舌をぺろり出して笑っていた。全く反省の色が見えていなかった。
私は怒るのも馬鹿らしくなってしまい、自分を落ち着けるように深く深呼吸した。

「……もう、二度とこんなことしないでください。」
「やだね。」
「……私たちは婚約者でも、想い合って付き合ってる訳ではないでしょう?」
「あっ?それ本気で言ってんのか?」
「……もういいです。この話は終わりにしましょう。」
「ちょっと待てしのぶ!」

悟くんが私の名前を呼んでいたけれど、私の手を掴もうとしてきた悟くんの手を乱暴に振り払った。
バシンと渇いた音が響いて、悟くんが固まる。今は悟くんに触られたくない。顔を見られたくない。
そんな気持ちでいっぱいで、私は彼を睨みつけた。
頭を冷やそう。冷静にならなければ。

「……少し、頭を冷やしてきます。」

私はそう言って一人、彼等から離れた。
悟くんが茫然とした顔で私を見ていたのにも気にしている余裕がないくらい、私は冷静さを欠いていた。
悟くんに触れられた唇の感触がまだ残っている。私は落ち着かない気持ちを悟れる前にこの場を去ろうと走った。
走って走って、それでも落ち着かない。呼吸を使っているから、荒い息なんてしないのに、私の鼓動は激しく脈打つ。それがどうしてなのかなんて、考えたくもなかった。


*****


しのぶに手を払われた瞬間、ちらりと見えたあいつの顔。
耳まで真っ赤に染まったその顔は、普段の笑顔の仮面を被っているしのぶからは想像もできないくらい、可愛かった。
俺を意識していることが隠しきれていなくて、バレバレなのに必死に冷静になろうとしている姿が健気でグッときたと言ったら、しのぶにはっ倒されそうだ。
しのぶはきっと気付いていないだろう。自分がどんな顔をしていたかなんて。

「……さっきのしのぶ、マジで可愛かったな。」
「あんまりイジメると嫌われるぞ悟。」
「ぶっちゃけ新たな性癖に目覚めそう。」
「おい。」

俺の言葉に傑が顔を引き攣らせてドン引きしていた。
おい、ドン引きしてるけどお前も俺と性癖近いの知ってんだかんな。
親友のドン引き具合に腹が立ったので、軽く傑の頭を叩いてやった。
それから10分後にしのぶは戻ってきたのだが、明らかに俺を冷めた目で見てくるようになった。

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