第5話

あの後も海水浴を楽しんだ天内たちは、その後も沖縄観光を存分に楽しむことになった。
本来であれば午後には沖縄を経つはずだったのだが、突然の五条の思いつきでもう一日沖縄に宿泊することになったのである。
突然の思いつきと言ったが、それは建前で、本当は天内がまだ遊びたそうにしていたのに気づいた五条が、彼女を気遣ってそう言い出したのである。
そんなこんなで、急遽予定が変更されたことでしのぶが空港に残されている七海たちに連絡を取ったり、自分たちや彼らのためのホテルを探したりと、五条のせいでしなくていい苦労をさせられた。
それでも五条なりの優しさをしのぶも分かっていたので、仕方ないなと思いながらも協力したのである。
海水浴にカヌー、沖縄名物の食べ歩き。そして露店巡りに水族館。
沖縄の有名な観光スポットをこれでもかとたった一日で満喫した五人は、夕方には予約していたホテルに辿り着いたのであった。
夏休みのシーズンを過ぎていたお陰か、運良く人数分の部屋を取る事が出来た。(天内と黒井は同室)
ホテルに着くなり五条が「あー疲れた。部屋で休みてぇ」と愚痴ったことで、それぞれ部屋に一度向かってからしのぶたちは天内たちの隣の部屋である五条の部屋へと集まることになった。
夏油の呪霊を天内たちの部屋の前に一体。ホテルの中に一体。外に二体配置させ、見張りをさせた。
それでもまだ警戒するには心持たないので、今晩も五条が寝ずに気を張り巡らせて見張ることになった。
しのぶも夏油も少しは寝た方がいいと言ったのだが、これくらい平気だと言って聞かなかったのだ。

「それで、天内さんのことはどうするおつもりなんですか?」
「あっ?」
「どうするって?」

突然しのぶが二人に尋ねた問いに、五条と夏油は不思議そうに首を傾げる。
それにしのぶはもう一度尋ねる。

「天内さんの同化をお二人は止めるつもりなのでしょう?」

しのぶが妙に確信を持った表情でそうはっきりと口にすると、二人はきょとんと目を丸くした後、揃って顔を見合せた。
ニカッと歯を見せて悪戯っぽく笑う五条と、バレちゃったかとサブライズする前に事がバレたように残念そうに口端を釣り上げる夏油。
そんな二人の様子に、「ああ、やっぱりか」と納得してしまう。

「どうしてそう思ったんだい?」
「悟くんと夏油先輩のことです。もしも天内さんが同化を拒んだ場合、天元様と事を構えることになったとしても、天内さんの気持ちを優先しそうだなと思っただけですよ。」
「俺等のことよく分かってんじゃん!しのぶちゃーん俺等こと好きだよな!」
「否定はしません。」
「ふふ、だがいいのかい?同化を阻止したら天元様が暴走するかもしれないんだよ?」
「それも想定してのことでしょう?まさかその後の事まで考えてないなんて無責任なこと言いませんよね?」

しのぶが笑顔を浮かべて言うと、五条と夏油はさっと目を逸らす。
ちょっと待ってください。本当に無計画だったんですか?ノリと勢いだけで事に及ぼうとしてたんですか?
やっぱりこの二人は強いけど馬鹿だ。若さゆえの暴走って怖い。
私は信じられないと言いたげに顔を歪めると、はあっと小さくため息をついた。

「……天元様の同化を阻止することで、多くの犠牲が出るかもしれない。それは一人を犠牲にするか大勢を犠牲にするかの違いです。」
「あっ?しのぶは同化阻止に反対なのかよ。大勢の犠牲を出すくらいなら、たった一人を犠牲にした方がいいって正論をお前も言うのか?」
「そうですね。犠牲が最小限に済むならそっちの方がいいです。」
「それで理子ちゃん一人に犠牲になれって言うのかい?」

二人に責めるような視線を向けられても、しのぶは淡々とした表情を浮かべていた。
夏油の怒ったような低い声にも怯むことなく、逆に夏油たちに鋭い視線を向ける。
それは無責任な行動を取ろうとする子供を諌める大人と同じ目をしていた。

「では、天内さん一人を助けることで、多くの犠牲が出た場合、お二人は責任を取れますか?それが出来ないのなら軽率な行動はやめておいた方がいいです。」
「君の言うことは正しい。だけどそれであの子が犠牲になっていいという理由にもならないだろう。」
「つーか天元様が暴走したら、俺等がどうにかすればいいだろ。」
「ならそうしてください。」
「「はっ?」」

しのぶがそう言うと、二人は目を点にした。彼女が言おうとしていることが分からないと言いたげに。
置いてけぼりをくらっている二人に、しのぶはにっこりと笑顔を向ける。

「私は別に、お二人のやろうとしていることを止める訳ではないですよ。ただ、彼女の同化を阻止することで起こるかもしれない事態の責任をお二人が取る気があるのか知りたかっただけです。」
「えっ?しのぶは反対するのかと思った。」
「あら、何故ですか?」
「だって、お前真面目だからこういうのは反対しそうじゃん。それこそ、犠牲は大勢より一人っていう正論かます奴の肩持ちそう。」

呆気にとられている五条の言葉に、しのぶはふむっと考える素振りをする。

「確かに、昔の私ならそう思いましたね。でも知ってますか?人間って時には絶対に不可能だと思うことを成し遂げれる力があるんですよ。」

思い出すのはあの兄妹のこと。
炭治郎くんと出会ったばかりの頃の私ならきっと、天内さんの同化に賛成して二人のことを止めていたと思う。
だってたった一人の少女の犠牲で平和が保たれるのなら絶対にそっちの方がいい。
一人の少女の自由を守ることで、大勢の犠牲が出る可能性があるのなら、確実に一人の犠牲を払った方が安全だからだ。
炭治郎くんのことだってそうだ。彼と出会ったばかりの私は、鬼である禰豆子さんを殺すことに強く賛成していた。
いくらまだ人を喰ったことがないとは言え、今後も人を襲わないとは限らないから。
ここで生かすという選択をしたことで、後になって犠牲者が出てしまうのだけは絶対に避けなければならない。
だからいくらお館様の命令とはいえ、彼女を生かすことに不安があった。
だけど、あの蝶屋敷で炭治郎くんや禰豆子さんと過ごしていくうちにそんな気持ちも変わっていった。
禰豆子さんは今まで私が出会った鬼とは全然違った。女の子らしく可愛いものが好きで、金魚が好きで、人懐っこくて、私が金魚に餌をあげてみるかと言えば、嬉しそうに笑う。とても素直で優しくて、可愛らしい「人」だった。
それに珠代さんという鬼もそうだった。私の知らない知識と医術を知っていた。
私一人ではきっと、鬼舞辻を追い込む毒を作れなかった。
あの「人」の協力があったから、なし得た事だった。
私は結末を見届ける前に死んでしまったけれど、でも前前世の頃に読んだ原作の通りの結末になったのなら、きっと鬼舞辻は倒された筈だ。そしてあの上弦の弐も。
そして禰豆子さんは人間に戻ることができたのだと信じている。
私はあの兄妹に出会って、人の可能性の奇跡を教えてもらった。だからきっと……

「悟くんと夏油先輩なら、例え天元様が暴走する事態になったとしても、なんとかしてくれそうな気がするんです。」

「だってお二人は最強の呪術師なんでしょう?」と私が微笑めば、二人は私がそんなことを言うとは思わなかったのだろう。
きょとんと目を丸くした後、ふっと力が抜けたように吹き出して笑った。

「あったりまえじゃん!」
「はは、それなら期待に添えないとね。」

天内さんを含めて、誰も犠牲にしない。そんなの、子供の思い描く甘い幻想なのかもしれない。
それでも、私は人の起こす可能性を信じてみたかった。
天内さんがどうか一人の人間として自由に生きていける未来を選べるように、私たちは彼女の力になると決めたのだ。



*****



話し合いが終わり、夏油先輩は先に自室に戻って行った。
私もそろそろ戻ろうと立ち上がろうとしたら、椅子替わりに座っていたベッドに押し倒された。
私の上に覆い被さるように跨っている悟くんを、私は無表情で見上げる。
悟くんの色素の薄いサラサラの白髪が顔にかかって少しくすぐったいなって思う。
普段はサングラスの下に隠されている六眼は惜しげも無く曝け出され、悟くんの空のように澄んだ蒼い瞳に私が映る。
きっと同じように私の瞳には悟くんが映し出されているのだろう。
こうやってマジマジと見つめると、悔しいが本当に綺麗な顔立ちをしていると思う。
女性が羨ましがりそうなご尊顔は、伊之助くんを思い出させる。あの子も中々に綺麗な顔立ちをしていた。
なんの手入れをしなくても美しい男って女性はきっと腹立たしいと思うんだろうな。
なんてどこか他人事に思いながら、この状況から現実逃避するべく思考を巡らせる。
あまりにも大胆な悟くんの行動に焦りすぎて逆に冷静になってきた。思わず無表情になっているのもそのせいだ。
なんか悟くん、昼間に私が悟くんの気持ちを知ってから容赦なくなってきてませんか?キスのことといい、この状況といい。私は身の振り方を考えなければならないのではないだろうか。

「しのぶ」

悟くんが私の名を呼ぶ。まるで恋人の名を呼ぶみたいに甘ったるい声で。
貴方そんな声出せたんですか。
妙に熱っぽい視線で私を見つめてくるその視線から逃げるように目を逸らす。
そんな目で見ないで欲しい。
私の両手をシーツに縫い付けるように、悟くんの大きな手が重なって押さえつけられているせいで、逃げ出せない。
ちゃっかり恋人繋ぎしてくるあたり、こういうことに慣れてるんだろうか。

「退いてください。」
「やだ。」

必死に冷静さを装ってそう言っても、悟くんは即座に却下した。
息がかかりそうなくらいに顔を近づけて、今にもキスされそうな距離に色んな意味で心臓がうるさいくらいに鼓動を打つ。
ドクドクと速音を奏でる心臓の音がやけに大きく聞こえる。
落ち着きなさい、胡蝶しのぶ。冷静に。冷静に対応するのよ。
焦って慌てふためくなんてことはしなくなかった。だってそんなの、意識しているみたいじゃないか。

「チューしていい?」
「ダメです。」

悟くんの言葉をすぐに拒否する。
昼間は気を抜いて許してしまったが、今度はさせるつもりはない。
キスしようものなら、自由になっている足で股間を蹴ってでも逃げ出してやる。
そんな意志を込めてきっと睨みつける。すると悟くんは小さく息を吐いた。
ため息つきたいのはこっちの方なんですけど!
そんな怒りを込めて睨みつけると、悟くんは少しだけ残念そうに目を細めた。
諦めてくれたのだろうかと思った途端、彼が私の首筋に顔を埋めてきた。
サラリと柔らかな悟くんの髪が耳を掠めて、ピクリと肩を揺らした。

「……疲れた。」

ポツリと悟くんは零すように呟いた。耳元で囁かれなければ聞き取れなかったくらいとても小さな声で。
本当に疲れているのだろう。その声はいつも自分勝手で、自信家で、飄々としていた悟くんの声とは思えないくらい弱々しかった。
ああそうか、昨日から寝ていないんだったな。
本人から直接確認した訳ではないけれど、今日も寝ないと言っていたことからそうなのだろう。
仮眠も取らずに術式を行使し続けていたのなら、その疲労は計り知れないだろう。
いくら最強と言われていても、彼だって人間なのだ。疲れるし、休息だって必要になる。
それでも、護衛が終わる明日までは絶対に寝ないつもりなのだ。
無理をして欲しくはないが、悟くんが警戒している限り天内さんの安全は保証されるのも確かで。
だから寝かせてあげられない代わりに、せめて彼の好きにさせてやろうと思った。

「悟くん、手を離してください。」
「やだ。しのぶ逃げるだろ?」
「逃げませんから。頭を撫でてあげたいだけです。」
「……それなら。」

そう言うと悟くんは渋々といった感じで手を離してくれた。
自由になった手で、悟くんの頭を優しく撫でる。サラサラしているその髪はするりと指を通す。

「お疲れ様です。」
「ん」
「明日、上手くいくといいですね。」
「いく。天内は絶対に本心では星漿体になることを望んでない。」
「そうですね。」
「しのぶ。」
「なんですか?」
「もう少し、このまま。」

甘えるようにぐりぐりと頭を擦り付けてくる悟くんがなんだか可愛らしく思えて、つい「いいですよ」なんて了承していた。
悟くんが体の力を抜く。大きな体が私に体重を掛けてのしかかってくるので、かなり重たかったが、少しだけ我慢してあげようと思った。
リラックスしたように息を吐き出す悟くんの頭を、私はずっと撫で続けた。
それは調子に乗って悟くんが私の胸に顔を埋めてくるまで続いたのである。



*****



そして翌日の昼、しのぶたちは沖縄を経った。
昨日突然の予定変更を言い渡され、不満が溜まっていた七海に無言の圧力で睨まれてしまったが、五条に反省の色はなかった。
そのまま高専に向かい、五条たちは天内を天元様のいる本殿へ連れて行き、一年生たちは報告のために夜蛾先生の元へと向かうことになった。

「五条さんたち、もう本殿に無事に着いたかな。」
「恐らくは。天内さんに懸けられた賞金も取り下げられましたしね。」
「今頃は天元様の結界内にいるでしょうし、大丈夫でしょう。」

そんな呑気な会話をしのぶたちがしていたまさにその時、五条たちは術式殺しと呼ばれる伏黒甚爾と対峙していた。
そしてこの時までしのぶですら、最強の呪術師と呼ばれる五条悟と夏油傑 。日本に三人しかいない特級の呪術師である彼等が負けることは無いだろうと、どこかで安心しきっていたのである。
どんなに強い実力を持っていても、絶対なんて保証されていないことを、現実の残酷さを、きっと誰よりも知っていた筈なのに、すっかり平和ボケしてしまった自分の愚かさに気付いたのは、その日の夕方に、血まみれの制服姿で医務室にやって来た五条と夏油を見てからであった。
殺気を身に纏った様子のおかしい五条。そしてその彼に抱えられた天内の遺体。
それを見たら、任務が失敗したことなどすぐに察しがついた。
幸い黒井は一命を取り留めたものの重症で、その任務の過酷さを思い知らされた。
星漿体の事件をきっかけに、少しずつ少しずつ、何かがおかしくなり始めていった。



*****



――それから一年後、私たちは二年生になった。
高校生になって初めてできた後輩に浮かれている暇などなく、去年頻発した災害の影響もあって呪霊が多く出没し、減ることの無い任務に皆が忙しかった。
だから私も気付けなかった。気付いてあげられなかった。
あの星漿体の一件以降、夏油先輩がずっと胸に何かを抱えて生きていたことに。
後に彼が道を外れ、大きな過ちを犯すことになるなんてことに。
そして、私自身の運命にも大きく関わる分岐点が近づいていたことに。何一つ、気付いていなかった。



*****



その日の任務は二級呪霊を討伐するという、準一級と二級の私たちには、比較的簡単な任務だった。

「三人で任務なんて久しぶりだね!」
「そうですね。」
「胡蝶はこの任務が最後になりますからね。」

私はこの任務を最後に、危険な任務から外れることになる。
現在の呪術師に、反転術式による治療ができる者は私と家入先輩しかいない。
だから貴重な術師を失うことのないように、私は表立って活動する任務はこれが最後になると先生から言われていた。
理由には納得していたので私は構わなかったが、やはり慣れ親しんだこの面子ともう任務に出ることはないのだと思うと、少し寂しくもあった。
別に戦うことは嫌いではないし、怖くもない。けれど治療ができる者が限られている現状、その貴重な人材を失う訳にはいかないという上の意見も分かるのだ。

「胡蝶との最後の任務なんだ。張り切っていこうな!」
「あらあら、灰原くん気合い入りすぎてますよ。」
「空回りしないといいですね。」
「えー!二人ともノリ悪いなぁ!」

私たちは、信じていた。この任務が終わっても、また三人で集まって笑い合えるのだと。
だけどそんな淡い夢も、希望も、何もかも奪われた。
産土神信仰。私たちが任された任務はとても二級術師では手に負えるものではなかった。
明らかな人選ミス。一級案件。
人々の根深い信仰心が寄り固まって生まれたその呪霊は、もはや土地神であった。

「くそっ!くそっ!灰原!灰原死ぬな!」

呪霊の攻撃をもろに受けてしまった灰原は重症だった。
胡蝶の反転術式によって簡単な止血はされたが、呼吸の仕方が不規則でおかしい。
早くきちんとした治療をしないと死んでしまう。

「七海くん!反転術式で止血だけはしましたがとても危険な状態です!ここは引きましょう!」
「引くと言ってもこんな状況じゃ!」
「……私が時間を稼ぎます。」
「胡蝶!」
「大丈夫です。毒を打ち込んで動きを鈍らせたらすぐに引きます!」
「ですが!」

私が止めるのも聞かずに、胡蝶は呪霊相手に単身で飛び出してしまった。

「蜂牙ノ舞、真靡き!」

速い。一瞬で呪霊との距離を詰めて刀で一突きにした。あの刀には胡蝶の血が大量に仕込まれている。
呪霊にとって猛毒となる胡蝶の血。呪霊は苦しいのか「きぃィィ!」と鳴き声なのか言葉なのかよく分からない声を発した。
効いているのか?そう思った途端、呪霊の無数に生えた大きな手が振り下ろされ、避けきれなかった胡蝶の体に当たった。
ぼきゃっと嫌な音を立てて骨が折れる音がした。そのまま勢いよくふっ飛ぶ胡蝶の身体を、私は茫然と見つめていた。
ごふっと口から大量の血を吐きながら、小柄な胡蝶の身体が地面に叩きつけられる。
嗚呼、ああ、嗚呼!ァァァあぁぁあぁあぁぁぁあぁぁぁあぁあぁぁぁあぁぁあぁぁぁあぁぁあぁ!!!!!
その瞬間、私の目の前は怒りで真っ赤に染まった。



*****



私は朦朧とする意識の中で、七海くんの声にならない叫びを聞いていた。
しくじった。身体中の骨が砕かれて全身に激痛が走る。
肺も潰れたのか呼吸をしようとすると、ヒュー、コロコロと血の塊が喉を転がるような、呼吸が上手くできずに抜けていくような変な音がした。
いたい。イタイいたい。
苦しい……
身体中の痛みと呼吸を奪われた苦しさに視界が涙に濡れる。
じわじわとゆっくりと訪れる死にただひたすら終わりを望んだ。目は霞んでもう何も見えない。
嗚呼、これはもう助からない。反転術式を使う余力すらない。
死ぬのはこれで三度目だな、なんて意外にも冷静に考えていた。
不思議と死ぬのは怖くなった。だって、この世界に未練なんてないから。
私はこの世界でずっと、ずっと、孤独だったから。悟くんや七海くんたちのような素敵な仲間がいても、ずっと私の中の孤独は埋まらなかった。
私はずっとずっと、死ぬ時を望んでいたのかもしれない。だって今、とても安堵している。
やっと、やっと死ねるって。
嗚呼、やっぱり私にとって大切な家族はカナエ姉さんとあの子たちだったんだ。
私は姉さんを、あの子たちを、忘れてない。ずっとずっと、想ってる。
それが酷く嬉しくて、愛おしかった。
これでやっと、あの残酷で、けれど大切な家族がいる世界に帰れるかもしれない。
もう何も見えない瞳に、カナエ姉さんの微笑んだ姿が見えた気がした。
嗚呼、カナエ姉さん。迎えに来てくれたのね。
やっと会える。姉さんと父さんと母さんの元へ行ける。
私は本物の胡蝶しのぶではなかった。でも、確かにあの瞬間、あの世界で生きていたのは私だったんだ。
きっと、優しい家族は私を受け入れてくれる。
幸福に包まれながらゆっくりと目を閉じようとした。刹那、一瞬だけ浮かんだ悟くんの顔。

――嗚呼、一つだけ心残り……あったな。

ちゃんと気持ちに応えてあげられなかった。
悟くんは私が死んでも大丈夫でしょうか。
案外ケロッとして私の事なんてすぐに忘れてくれると嬉しい。
いよいよ旅立とうとしたその瞬間、私の脳裏に鮮明にある記憶が蘇った。

途端に押し寄せてくる後悔と絶望。
嘘だ。嘘だ嘘だ。嗚呼なんで。

私には前前世で、鬼滅の刃と同じくらいにお気に入りでハマっていた漫画があった。
「呪術廻戦」というタイトルのその漫画こそが、この世界だった。
嗚呼、私はまた作られた世界に転生していたんだ。
何でいつも、私はこうなんだろう。どうして今になって思い出すんだ。
あの時もそうだった。上弦の弐に殺された直後。死ぬ直前に思い出したって、何もかも遅いのに!
嗚呼、嫌だな。これじゃあ未練が残ってしまう。
さっきまでの幸福感が嘘のように絶望と後悔に変わる。
だって、だって、私が知っている原作の通りの未来になるのなら、夏油先輩はこの後離反する。
呪詛師になった彼がこの世界に及ぼす影響の大きさはきっと計り知れない。
それに何よりも、悟くんが心配だった。
悟くんはきっと、私が死んでも立ち直れるだろう。でも、夏油先輩を、たった一人の親友を自らの手で殺すことになる。
それがあの、渋谷事変での封印に繋がるのなら……

嗚呼、どうして……

もう私には何も出来ない。何も残せない。
どうして私はいつだって、大切な人を守れないのかな。
嫌だな。こんな終わり方は、嫌だな。
きっと、きっと私は……



*****



――記録――

2007年9月。
××県、××市。高専二年生、三名を派遣。

灰原雄(二級)
胡蝶しのぶ(準一級)

うち二名の術師の死亡を確認。



*****



目の前に人形のように力なく横たわる二人の遺体を前にして、俺は言葉が出なかった。
灰原もしのぶも、身体中傷だらけでボロボロだった。しのぶに至っては全身の骨が砕かれたせいで、関節が変な方に曲がっていた。
それでも二人とも状態は綺麗な方だ。術師によっては死体すら残らないし、残ったとしてもそれこそ五体満足じゃなかったり、変わり果てた姿にされることが多い。
それに比べたら、二人はまだ綺麗に死ねた方だった。
死んだら綺麗もクソもないけどな。

「胡蝶は呪霊の一撃を受けて全身の骨が砕かれた後、地面に叩きつけられたらしい。死因は肺の損傷による窒息死だな。死ぬまでに時間がかかった分、苦しい死に方だったと思うよ。」
「……そう」

目の前に横たわるしのぶは、綺麗な顔をしていた。
元々惚れた贔屓目を抜きにしても美人だもんな。
眠っているようにしか見えないけれど、もう死んでるって分かる。
血の気の引いた青白い頬にそっと触れても、温もりは一切感じない。当たり前だ死んでるんだから。
そう、しのぶは死んだんだ。
頭では分かっているのに、涙が出てこない。俺って結構薄情だったんだな。
惚れた女が死んだのに、全然泣けないなんて。
硝子からの話を聞いて心の底から湧き上がってきたのは、悲しさじゃなかった。
激しい怒りと憎悪。しのぶたちを死に追いやった呪霊はまだ討伐できていないらしい。
だったら、俺が受ける。俺がしのぶの仇を取らないと、きっとこの腹の底から湧き上がってくる怒りは収まらない気がする。
硝子が何か言っているけれど、俺の耳には何も聞こえなかった。



*****



――傑が任務先の集落の人間を皆殺しにし、行方を眩ませた。
その事を知らされたのは、俺がしのぶたちの任務の引き継ぎを終わらせて高専に戻ってからだった。
夜蛾先生の話によれば、両親すら手にかけているらしいと聞いて、俺はもう何もかもが信じられなくなっていた。
その日のうちに硝子から傑に会ったと連絡があって駆けつければ、あいつは非術師を殺して術師だけの世界を作るとか意味わかんねー夢物語を語り出した。
傑は言った。「俺にならそれができると。」もしも自分が俺になれるなら、そんな馬鹿げた理想も叶えられると思わないかと。
あいつはもう、自分の生き方を決めしまったらしい。
もしもこの世界がもう少しマシだったなら、違う未来があったんだろうか。
くだらない。もう、何をしても遅いっての。
だけど俺はあの時、傑を殺せなかった。追うことが出来なかった。
俺だけが最強でも駄目なんだ。このクソみたいな世界を変えるには、俺だけが強くては意味が無い。
傑との道はもう分かたれた。だからもう振り返らない。
次に会った時は、必ず俺の手で殺す。それがせめて親友としてしてやれることだと思うから。



*****



しのぶの部屋に入るのは、あいつが死んでから初めてだった。
必要最低限の家具が置いてあるだけで、後は本に埋め尽くされただけの部屋。年頃の女子らしさは全くなく、まるで図書館のようだ。
ふと机の上に置かれた金魚鉢に目が止まる。
犬猫なんかの毛の生えた動物が大っ嫌いだったしのぶが唯一可愛がっていたのが金魚だった。
ガキの頃に連れて行ってやった夏祭りで、珍しく興味を示したあいつの為に俺が取ってやった金魚を、しのぶはずっと大切に育ててきた。
金魚なのにフグと名付けられたそいつは主人が死んだというのに呑気に水の中を優雅に泳いでいる。
しのぶは昔からネーミングセンスだけは酷かったなと思い出して懐かしくなった。

「……水、少しだけ濁ってんな。」

いつも定期的にしのぶが水槽の掃除をしていたが、そろそろ時期なのか水が濁っていた。
しのぶが亡くなった今、こいつの世話をする奴は誰もいない。
こいつがぞんざいな扱いをされたら、あいつは悲しむかな。それとも怒るだろうか。
生き物の世話なんて生まれてこの方やったことなんて無い。
だけど、このままにしておくのもどうしても出来なかった。何故か気になってしまうのだ。

「……めんどくせぇけど掃除してやるか。」

俺が小さくため息をついて、金魚鉢を持ち上げると、何か違和感を感じた。
持ち上げて金魚鉢の底の裏を除くと、何か紙が貼り付けられていた。

「あっ?何だこれ?」

セロテープで簡単に貼り付けられたそれを剥がすと、それは小さく折りたたまれた手紙のようだった。
折りたたまれた封筒を広げていくと、そこに書かれた「遺書」の二文字に息を飲んだ。
しのぶの遺書か?あいつこんなもの書いてたのか。だけど何でこんな所に……
気になることはいっぱいあった。けれど俺はあいつの最期の言葉が知りたかった。
ドクドクと心臓の音が速くなる。手汗が滲んで、少しだけ手が震えた。
ハサミなんて持ってないから、中の手紙を巻き込まないように適当に封筒の上の方を破る。
封筒の中には、二枚の便箋と……

「ネックレス?」

封筒をひっくり返すと、ジャラっと鎖の音を立てて掌に落ちてきたのは、ネックレスだった。
いつだったかしのぶと街に出かけた際に俺が蝶の髪飾りと一緒にプレゼントした物だ。
小さな紫の蝶が二匹あしらわれたネックレス。髪飾りはあの任務で壊れてしまったのか、見つからなかった。
どうしてこのネックレスだけを遺書と一緒に入れていたのか……手紙を読めば分かるだろうか。
かさりと音を立てて手紙が開かれる。手紙の最初の文字に「五条悟様へ」と書かれていて、心臓が大きく跳ねた。

『五条悟様へ。この遺書が無事に悟くんの元へ届けられることを祈って書きます。
まず、金魚の飼い方についてですが……』
「ちょっと待て!」

思わず手紙にツッコンでしまった。
何だこれ。何で遺書に「金魚の飼い方」なんて書いてるんだよ。意味わかんねー!
とりあえず読み進めてみたが、1ページ丸々が金魚の飼い方についての説明だった。
本当に何だこれ。俺に世話しろってか!ふざけんな!……まあ、面倒見てやらなくはないけどさ。
まさか二枚目もこんなふざけた内容じゃないよな?
遺書なんて重々しいもの残しておいて、期待させておいて、ろくな事書いてなかったらあいつの墓に猫の写真集でもお供えしてやる。
そんなことを思いながら二枚目へと目を通す。

『悟くん、私が死んでも悟くんはきっと何とも思わないかもしれませんね。』
おい、俺はそこまで血も涙もねぇ奴じゃねぇよ。
どうでもいい奴なら兎も角、しのぶは違うだろうが。
お前は絶対にどうでもいい奴なんかじゃない。俺にとって、傑と同じかそれ以上に大きい存在だったんだ。
そう言ったら、お前はどう思ったかな。

『もしも私が、悟くんにとって少しでも大切な存在だったのなら、私のことはどうか忘れてください。』
忘れられる訳ないだろ。どんだけ一緒にいたと思ってんだ。

『少なくとも、私は忘れて欲しいです。死んでしまった私は過ぎ去るだけだから。私は誰の記憶にも残らなくていい。』
誰が忘れてやるもんか。毎年命日に墓参りしてやる。お前が好きな生姜の佃煮を嫌って程お供えしてやる。

『最後にこれだけは謝らせてください。悟くんの気持ちに応えられなくて、ごめんなさい。
これは悟くんだけに限ったことではないけれど、私はきっと、誰も愛せなかった。
私にはどうしても忘れられない人達がいて、その人たちを置いて幸せになるとか、どうしても考えられなかった。だからこそ、私が死んだのなら忘れてください。そして、できることなら悟くんはちゃんと幸せになってください。
このネックレスは、できれば私の遺体と一緒に埋葬してくださると嬉しいです。胡蝶しのぶ。』

くしゃりと、強く握り締めたせいで手紙にシワができた。
何だこれ。なんだよ、幸せになれって。
ふざけんな。俺はお前と生きたかったんだよ。
お前と幸せになりたかったんだよ。
ふざけんなクソが!!

ギリっと歯を食い縛る。激しい怒りが込み上げてくる。
自分は幸せにならないくせに、俺の幸せを勝手に決めんな。
マジでふざけんな。俺に幸せになって欲しいなら、生き返って戻ってこいよ。
俺はしのぶ以外いらねーっての!
傑もしのぶも、どいつもこいつも自分勝手だ。だったらこっちだって好きにやってやる。
俺はしのぶの望み通り忘れてなんてやらないし、傑の目的だって阻止してやる。
俺は手に握り締めていたネックレスを徐に首にかけた。
これも、お前にはやらない。俺がしのぶに贈ったものだから、形見として貰っておく。
絶対に、忘れてなんかやらない。しのぶの最後の願いだけは、叶えてやらない。
ポタリと、頬を何か冷たいものがつたう。それは止めどなく目から溢れてきて、頬をつたって手紙に落ちる。
折角しのぶが綺麗に書いた文字が滲んでいく。
嗚呼、俺ちゃんと哀しかったんだな。あいつの死を、ちゃんと受け入れられるかな。
俺の隣にはもう、しのぶも傑もいない。それでも、俺は立ち止まることはできない。する訳にはいかない。
傑、俺も自分の生きる道を決めたよ。お前がいなくなったことがきっかけで決まるなんて、笑えないけどさ。
俺は……お前たちがいなくても進んでいくよ。



*****



◆胡蝶しのぶ
享年16歳。
星漿体の少女、天内理子の幸せを願っていたが任務の失敗に現実の厳しさを思い出す。
炭治郎たちのお陰で心が救われていた。そのせいで少しだけこの世界で平和ボケをしてしまったことを悔いる。
間違った情報の任務によって灰原と共に命を落とす。
自分一人だけがこの世界に転生してしまい、孤独を感じていた。彼女の周りには確かに心を許せる仲間がいたが、どうしても前世での姉や妹たちを忘れることができなかった。
それ故に彼女の心の底の孤独は埋まらなかった。
自殺だけは絶対にしないが、心のどこかで死を望んでいた。
ようやく訪れた死に幸福な気持ちで逝けるかと思ったが、突然死の淵で思い出してしまった「呪術廻戦」の記憶に絶望する。
この後残される五条の結末を知り、それでも、もうどうにもできないことに後悔しながら死んでいった。
遺書を書いたのは鬼殺隊の頃の名残り。いつ死んでもおかしくないと任務の度に書いていた。

◆五条悟
しのぶのことが昔から好きだった。
しのぶが何処か遠くを見るように時折寂しげな表情を浮かべていたことには気付いていた。
勝手に自分を捨てた親のことでも思い出しているのかと自己解決していた。
しのぶの死にショックを受けるが、最初は頭では理解していても、心が追いつけずに悲しめなかった。
しのぶの遺書を読んで初めて彼女の死を受け入れ、涙した。
しのぶが残したペンダントは形見として肌身離さず身につけている。
毎年彼女の命日には必ずお墓参りに行くし、時間のある時には逢いに行く。
しのぶが思い入れがあると言っていた藤の花の花束と好物を持っていく。
この後五条は少し荒れて、しのぶのことを想いながらも寂しさを埋めるように女遊びが酷くなる。
夏油のことはずっと親友だと思っているし、愛しているのはしのぶだけ。
乙骨先輩顔負けの純愛……なのだろうか?

◆夏油傑
五条の同期で親友。彼の性格は五条と肩を並べられるくらいクソだとよく言われる。
それでも五条の善の判断は彼を参考にされていたので、しのぶからはいざという時には頼りにされていた。
天内理子の死をきっかけに非術師への不信感を募らせるようになる。
しのぶと灰原の死。そしてとある任務での出来事が決定打となり呪詛師になった。

◆家入硝子
しのぶの目標としている先輩。
歌姫同様にしのぶを大変可愛がってくれていた。しのぶの遺体の解剖は冷静に行ったが、彼女の死を知った直後は顔には出さなかったがショックを受けた。

◆灰原雄
しのぶの同期でめちゃくちゃいい人。
しのぶは彼の人の良さに煉獄さんを少し重ねていたし、任務では頼りにしていた。
しのぶの反転術式によって止血されたが、命を落としてしまう。

◆七海建人
しのぶの同期。彼の冷静な判断力をしのぶはとても信頼していた。
実は五条としのぶが素直になれないだけでお互いに想い合っているのではと勘づいていた。
いつも五条のいい加減な思いつきに振り回されるしのぶとは苦労人仲間。
今回の任務で同期のしのぶと灰原を失ったことや、夏油の離反により呪術界はクソだと強く思うようになる。



*****



思い出すのは、あの兄妹のこと。
たった一人生き残った妹を鬼にされ、彼女を人に戻すのだと強い意志の宿った瞳でそう告げた少年。
そんな彼のことを、私は、私たち柱は有り得ないと無碍にした。
彼にとってかけがえのないたった一人の家族を殺そうとした。
鬼は存在してはならない。
人を襲う鬼なんて有り得ない。存在しないと、彼の話を到底信じることなんてできなかったから。

だけど炭治郎くん。君はちゃんと成し遂げたんですね。
私はあの戦いの途中で命を落としてしまったから、直接結末を見届けることは出来なかったけれど、死ぬ直前に取り戻した前世の記憶が教えてくれた。
あの原作通りの結末を迎えたのなら、きっと禰豆子さんは人に戻れたのでしょう。
カナヲは私の遺志を継いで上弦の弐を倒してくれたのでしょう。

取り戻した記憶は私に後悔と絶望を与えたけれど、同時に大切な家族を、仲間を置いて死んでしまった私に、僅かな希望をくれた。
だから私はこの世界でも人の起こす可能性を信じた。
きっと諦めなければ奇跡は起きるのだと、あの世界で捨て去ったはずの幻想をまた抱いた。

だけどやっぱり現実は甘くなくて、残酷で。
鬼舞辻一人さえ倒せば終わると信じていたあの世界よりも、この世界は地獄だった。
人が存在する限り呪霊はいなくならない。そして同じ呪術師同士でも殺し合う。
呪詛師なんて存在までいるこの世界に、一体どれだけの希望が残されているんだろう。

ねぇ、誰か教えてくれませんか?

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