手を繋いでいよう
 海に行きたいと言い出したのは、なまえだった。衣替えも終え、夏はもうそこまでと暑さが主張しだす時期ではあるが、海水浴にはまだ少し早いはず。紫外線も出ているし、日焼けするのは職業柄好ましくない。出来れば断りたいところだったが、断られるなんてこれっぽっちも思っていないなまえに天馬は唸る。結局、渋りつつも断れるわけもなくなまえの願いを受け入れた。

「じゃあ今日の放課後ね!」
「はあ?今日!?」

 驚く天馬になまえはきょとんした顔で、今日はオフでしょと聞く。確かに今日は仕事は入っていないし、稽古も休みだ。こんなことは久しぶりで、嬉しくて今日一日柄にもなく浮かれていたし昨日名前に教えていたことすらも忘れていた。

「……さすがにオフはゆっくりしてたかった?」
「あ?俺様が付き合ってやると言うのに今更遠慮すんのかよ」

 質問が既に過去形のくせに、と心の中で悪態をつきながらなまえの取ってつけたかのような遠慮を鼻で笑う。小馬鹿にしたつもりが全然効いていなかったようで、なまえは嬉しそうに笑った。

 高校の最寄駅から1時間に2本しか来ない電車に乗って30分、着いた頃にはもう陽が落ちかけていた。なまえと天馬以外に人はおらず、静かな波音が海辺に響く。天馬は、靴に砂が入ることが嫌で砂浜に入るのを少しだけ躊躇った。けれど、そんな天馬の躊躇いなんて気に止める様子も察することもしないなまえは、我先にとローファーのまま砂浜に駆け出して海に向かってしまった。もっと俺様を労れ、なんて天馬は思いつつもなまえには通用しないだろうとため息をつき、後をゆっくりと追う。なまえ相手だと甘くなってしまう自分に、ちょっとだけ口元が緩んだ。なんて甘いんだ。
 案の定靴には砂が入り、砂浜のせいで凄く歩きづらい。やっとの思いでなまえの元までたどり着くと、なまえは嬉しそうに天馬を見てそのまま視線を夕陽に照らされたオレンジ色の海へと向けた。

「海だねえ」
「それくらい見れば分かるだろ」
「足だけでも入ろううよ」

 なまえは思いついたと満足げな表情を天馬に見せる。何だろう、と天馬は不思議そうになまえを見ていると、なまえは突然履いていたローファーと靴下を脱ぎ捨てた。

「お、おい!なまえ待て、」

 天馬の呼び止めを気に止めることなくなまえは海に走り出す。

「天馬もおいで!気持ちいいよ!」

 夕陽が名前の背で輝く、天馬は目を細めて逆光で見えづらいなまえの表情を見ようとする。また子どもみたいな顔で笑ってるんだろうな、天馬はそう思うだけで自然と笑みが零れた。

「ああ、今行くから」

 天馬は脱ぎ捨てられたなまえのローファーと靴下を見る。少しだけ考えた後、そのローファーと靴下を整えてその横に自分の靴と靴下を並べた。ゆっくりと足を入れた海は、冷たく思いのほか気持ちが良い。もう夏は始まってるのだと教えられているようで、天馬は少し複雑な気持ちになった。

「何で海に行きたがったんだ?」

一通り海で遊び尽くした後、誘われた時から謎だった疑問をなまえに問う。海からは出たが波打ち際で足を濡らして遊んでいるなまえは、砂浜で立っている天馬の方に顔を向けた。なまえは少しだけ考える素振りを見せると、いつものように屈託のない笑みを見せる。

「天馬、最近忙しいでしょ?だから息抜きに付き合ってあげようと思って!」
「頼んでねえよ」
「頼まれてないものね」

 でも天馬も行きたかったでしょ、となまえは言う。別に海に行きたいなんて思ってなかったし、息抜きなんて考え、これっぽっちもしていなかった。寮に帰れば台本を覚えたり、初公演となる舞台について考えることだって沢山ある。休みらしい休みなんて取るつもりはなかったのだ。

「いっつも働いてるじゃん、それに舞台までやり出した。いつか過労死しちゃうよ」

 なまえからは笑みが消え、眉を下げて心配そうな表情を見せた。けれどその表情はほんの一瞬だったようで、なまえはすぐに笑みを作り直す。

「死なねえよ、俺様を誰だと思ってるんだ」

 天馬はなまえの小さな表情の変化には触れず、自信満々に笑う。本当は問い詰めたかったし、自分のことで心配してくれていることに対しては喜びたい。けれど、それ以上踏み込んだらいけない、そんな気がした天馬はなまえに本心を聞けることは出来なかった。

「そうかあ。舞台、楽しみにしているね」

 天馬のいつも通りの返答になまえは笑う。まるで安心したとでも言うような笑み、天馬はもどかしくなってなまえから視線を逸らした。表情はころころ変わるのに、何を思っているのかわからない。もっと言葉にして欲しい、そんな欲が自分から出ていることに少し恥ずかしくなった。
 ふと、自分の腕時計に目がいく。気づけば陽はほぼ落ちている。行きの電車は1時間に2本しか来なかった、もしかしたら、を想像して不安げになまえへと視線をやる。

「そういや終点いつだ?」
「えっと、あ……まってあと3分後」
「はあ!?」

 天馬の大きな声が響く。なまえはうるさいと笑いながら、焦る様子もなくローファーに足を通す。流石に靴下を履くことはやめたようで、カバンに乱暴に突っ込んでいた。先に靴を履いていた天馬はその一連の流れを見届けたところで、天馬はなまえの手を強引に掴んで走り出す。

「いくぞ!」
「天馬、砂浜は真っ直ぐでいいからね!」
「んなことくらいわかるわ!」

 焦る天馬と反対に、相変わらずマイペースな名前は掴まれた天馬に引っ張られるように走った。方向音痴の天馬が先導を切っていることから、間違えてしまわないようなまえは方向を指示する。駅まで歩いて5分ほど、走れば3分以内には着くはずだろう。


「間に合ってよかったね」
「お前はなんで他人事なんだ」

 出発の数十秒前に電車に乗り込むことができた二人は、暫く息を整える。よかったね、と笑うなまえを見て天馬は疲れた顔をした。焦る様子なんて見せなかったくせに、まるで天馬を見守っていたかのような言いぶり。
ふと、自分の手となまえの手が繋がっていることに気づく。電車に間に合うことに必死だったから、手を繋いでいたことすら忘れていた。天馬となまえはよく一緒にいるが恋人同士ではない。当たり前だが、今まで手を繋ぐことなんてなかった。小さい手、天馬は想像していたより華奢ななまえの手にちょっとだけ戸惑う。

「……天馬?」

 黙り込む天馬をなまえは覗き込むように見る。なまえは繋がれている手には気に留めていないようで、それがさらに天馬を恥ずかしくさせた。意識なんてされていないかもしれない、だからこそこの手を離したらいけない気がして、天馬は手を離すことなく動きを止める。気づいて欲しいなんて言わない、出来ればもう少しだけその純粋無垢な表情で俺の傍にいて欲しい。そう伝えるかのように、少しだけ繋いだ手の力を強めた。


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