Ethiopia


正直、策などなかった。
苗字さんに出会ったのも偶然、手元にあったチケットを渡したのも偶然。そんな中、言葉は咄嗟に出てしまっていた。思いつきでの行動なんて、柄じゃないのに。
あの時、チケットを手に持った彼女はどこか不安そうに俺と目を合わせた。初めて見た。何が、彼女をそうさせているのか。それは、興味本位でしかなかった。
しぶっていた苗字さんの口から「アイドルと付き合っていた」なんて言葉を聞いた時、芽生えた感情は焦りと気まずさ。誰と付き合ってたの、それは俺が知ってる奴?



季節は夏を終えかけ、気づけばライブまであと1ヶ月。カフェで見る苗字さんはいつも通りの対応で、俺を見ると他人のように笑顔を向ける。初めはライブの話を持ちかけてみたけれど、それすら苗字さんはかわす。「考えておきます」だなんて言いながら、少しだけ引きつった笑顔には流石に困った。チケットを渡した事、間違いだっただろうか。突発的な行動は、やっぱり良くない結果しか招かないようだ。
それからは、その話題を避けるようにした。

「夏も終わるねぇ」
「秋は、ビールが美味しいですね」
「苗字さん、年中ビール飲んでるよね」

アル中かよ、そう罵倒しかけて言葉は止まる。コンビニや道端であった時はまだしも、カフェの中ではやはり言葉を選んでしまう。不可抗力でバレてしまった苗字さんは良いとして、他の店員にまで「瀬名泉」のイメージは壊したくない。幸い、苗字さんは俺がアイドルとしての面構えが違う事を言いふらしていないらしい。前にバイトの子が「名前は瀬名さんのこと知らなかったんですよ」って言っていた事を思い出す。そりゃあ、興味無かったら言わないだろうねぇ。だって、苗字さんだし。
口元を抑え、言いかけた言葉を飲み込むように唾を飲む。その様子を見ていた苗字さんは、俺の心を見透かしたかのように口元だけ笑ってみせた。

「アル中じゃないですよ」
「……言ってないからぁ」

そうでしたか、なんて言いつつ苗字さんは目を伏せる。長くてカールのかかったまつ毛と、目元に光る控えめなシャドウのラメ。人並みと言えるベーシックな化粧の施し方に、勿体無さを覚えつつもそれが苗字さんらしいなんて思えてしまう。この人の事は、何も知らない。俺が渡したチケットをどういう気持ちで手に取ったのかも、今どんな心境でいるのかも。髪の毛を染めただとか、いつもしているアクセサリーが変わっただとか、外見の事は分かるのに、内面の事なんて全く知らないままだ。

「はい、瀬名さん」

コーヒーの入ったペーパーカップが、目の前のカウンターテーブルに置かれる。肌寒くなる秋といえど、今はまだ初秋。スリーブからも熱が伝わり、熱いとでも言うかのように皮膚は小さく悲鳴をあげた。

「今日のは、エチオピアです」
「国名?」

疑問を投げかけると、苗字さんは俺と目を合わせた。いつもより大きく目を開いて、輝いたような瞳で俺を見る。コーヒーの事を話す時の目だ。俺は自然に口元が緩む。

「エチオピアは、コーヒー発祥の地なんです」

待ってましたと言わんばかりの表情。その話に質問を加えれば、彼女はさらに喋り出す。普段口数が少ない苗字さんだから、こうやって話せる事が嬉しい。表情も豊かになるんだよね。その口から出てくる話は、そこらにいる女子のような会話じゃないけれど。それさえも、俺は苗字さんらしさと嬉しくなる。俺はそんな彼女に肯定の相槌と質問を、コーヒーを飲みながら繰り返す。そして苗字さんは、一通り話し終えた時に俺を見て照れたように笑ってくれるんだ。

「瀬名さん、話聞いてくれるから嬉しくて。つい」

すみません、なんて最後には小さく謝る苗字さん。謝らなくて良いのに、というか謝ってもそんな事は明日には忘れてるでしょ。俺はそう思いながら、口元が緩んでしまう。

「何笑ってるんですか」
「ううん、別にぃ」

このやり取りが嬉しいだなんて、俺は言えないものだから。照れを隠すようにサングラスをかける。そんな俺の姿を見て察したのか、苗字さんは会話中も動かしていた手を止める。

「ありがとうございました」
「じゃ、またねぇ」

ひらりと手を振って、店の扉を開ける。朝の日差しは眩しくて、サングラス越しでも強さを感じられた。俺は、片手に持ったコーヒーを見てため息を零す。ライブまであと1ヶ月、分かっていたのに今日も苗字さんには切り出せなかった。自分はこんなに弱気だっただろうか、情けなくなってしまう。




財布に仕舞われたままのチケットは、ちょうど2週間後を示していた。行こうか行かまいか、悩んだままここまで引きずっている。毎日来る瀬名さんには、話題を出す事なくそのまま。瀬名さんも、その事については触れてこない。それに甘える自分が情けなくて、今はもう罪悪感で打ちひしがれそうだ。

「来るの?再来週」

ベッドの上で寝転んだまま、凛月は横で寝る私を見る。その表情は楽しそうで、八重歯がちらりと姿を見せた。私は思わず、嫌な顔をしてしまう。
凛月には、瀬名さんが同じユニットだと知った時点でベラベラと話してしまった。毎日店に来る事、家が近いこと、ライブのチケットを渡された事。同じユニットの人と知り合ってしまったものだから、彼にとっても良くない気がして。けれどその話を聞いた凛月は、焦る事もなく「セッちゃんがねぇ」と楽しそうに笑っていた。その意味は分からないけれど、こいつは全然気にならないらしい。まあ、幼馴染の元カノと寝れる奴だしね。私も、人の事言えないけれども。

「まだ悩んでる」
「来たら良いじゃん、俺も居るんだよ」
「……真緒は」

私は、悩みの人物の名前を挙げる。俺も居るだなんて言葉を無視したからか、少し不満げな表情を見せたがすぐにいつものあの笑みを浮かべた。そして凛月は察したかのように、私の髪の毛を撫でる。

「ま〜くんも忙しいからねぇ、俺が呼べば来るだろうけれども」

何度か髪を撫でた凛月は、私の後頭部に手をやりキスをする。唇が触れただけのキス。真緒の話をしてる最中に、こういう事してくるこいつは相当性格が悪い。

「名前は、セッちゃんじゃなくてま〜くんを探しに行くの?」
「違うけど」
「じゃあ、ま〜くんは気にしなくて良いじゃん」

目を細めて、凛月は笑う。そうなのは分かっている。けれど、私はまだアイドルを見ると真緒と重ねてしまうんだ。その状態で、瀬名さんを見てはいけない気がして。私は、凛月の手を握る。ひやりとする凛月の手は、私の眠そうな手を冷やしてくれた。

「言っとくけど、俺もアイドルだよ」

知ってるよ。言いかけた言葉は声にならず、一気に押し寄せる睡魔に身を委ねてしまった。

「名前は、寂しがり屋さんだね」

遠くから聞こえる声は、私の名前を呼んでいる気がした。

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