生まれるならその涙



 はじめて涙というものを見たのは、母が流したものだった。最初の涙にして最後の涙になる、と、子供心に不思議なことも思ったものだが、その後の人生で私はたくさんの涙を見ることになる。それも、自ら望んで。
 その涙は、母以外の女の人に恋をした父が荷物をまとめて出ていく背中を母と二人で見送っていたとき、母から静かに流れたものだった。そのときわたしはあまりにも幼くて、けれど、去っていく父を眺めながら、もう二度と父は帰ってこないのだろうという確信を持ち、しかしそれ以上に、声を出さず、動かず、ただただ涙を流し続ける母の姿が美しかった。幼いわたしは父の後ろ姿ではなく、母の顔を見上げることに夢中だったのだ。
 この能力を手に入れた日のことを明確には覚えていない。まるで生まれた頃から使える魔法のように、息のように、歩くように、愛しいものを撫でるように、当たり前のように。わたしは小瓶に涙を詰めて、それを保存することができたのである。数は少ない、だって、涙を見る機会そのものが少ないから。クラスメイトが石に躓き転んだ際に流した涙、飼い犬が死んだときに友人が流した涙、映画を観ていたときに、恋人が感動して流した涙……。瞳から零れたしずくを人差し指でそっと掬うことに、わたしはいつから長けていたのか。前世でどれだけ多くのひとの涙を救ってきたのかと思うほどに。涙を保存できる能力と同じくらい、誰かの涙を拭う人差し指の優しさは自然に身に付いていた。けれど、そうして友人たちの涙を少しずつ集めても、わたしのコレクションのなかに母の涙が入ることはなかった。母は父が去っていったあの日以来、少なくともわたしのまえでは、涙を流したりしなかったのだ。
「母の涙に焦がれて40年くらいかな。手に入れたのは、今日からちょうど10年前」
 私は涙のひとしずくが入る程度の本当に小さな小さな空の小瓶を取り出し彼に見せた。
「病気でね、息を引き取る直前に流した涙だったの。この涙の正体が病からくる苦しさなのか、死への恐怖なのか、娘の私を想ってのことなのか、去っていく父への未練なのか、それとも他のことなのか。やはり母の顔は美しかったわ。ただ残念ながら、あの日見たほどのものではなかった」
「オレにはその小瓶のなかにあるという涙が見えないんだが」
「アハハ、そうね。うん。紅茶に溶かして飲んじゃったの」
 この紅茶に、と私はティーカップを指差した。中身は小瓶同様にすっかり空だが、底にほんの僅かだけ、焦げ茶色の液体が残っている。
「1年以上小瓶に詰めて保管していた涙を、飲み物に混ぜて飲むとその涙の理由を知れるの。母の涙を飲むかは迷ったな。なんせ、今まで手に入れた中で一番美しいコレクションだったから、なくすのは惜しくて」
「父親のことだった?」
「いいえ。彼女が送った人生の、幸も不幸も含めて。その全てに対して流した、愛おしさの涙よ」
 彼のコーヒーカップからたつ湯気を一瞥してから向けた窓の外で、赤子を抱く母親が歩いていた。美しい微笑みだった。母親という生き物はみな、どうしてああも美しいものなのだろうか。疲れで乱れた髪もハリを失った肌も荒れた指も、美の条件とは程遠いはずなのに。彼女たちの内側から溢れ出す美というものの正体を、母の涙を飲んでもなお掴むことは出来なかった。
「不思議なものだな」
 彼は腕を伸ばし、私の瞳の下を人差し指で撫でた。幾ばくかぎこちなかったが、それはまるで、涙を掬うような。
「泣いているように見えたんだが」
「私は涙を流せないのよ。そういう制約だから」
「なるほど。しかしそうか、涙が流れていなくとも、人は泣けるものなんだな」
「なにそれ、変なの」
「今のキミがそうだよ」
 彼は非常に穏やかな面持ちでコーヒーを啜った。私は自分の顔を意味もなく触ってみたが、当然、水の一滴もついてるわけもない。自分の頬は思っていたよりもぷにぷにしていて、あたたかくて、なかなかさわり心地が良かった。二度と涙を流すことはないのに、そのくせ、しずくがとてもよく滑りやすそうな頬のかたちだった。
「それでクロロ、あなたの涙はもらえるのかな」
「そのつもりだったんだが、飲まれるのは困るなと思ってな。少し考えさせてくれ」
「理由を知られるのは嫌かな?」
「こう見えて秘密主義なものでね」
「安心してよ、クロロの涙を飲むつもりはないの」
「口先で安心出来るほどお人好しではないんだ」
「念書でも書きましょうか」
「ハハハ、書類か。盗賊相手に」
 笑い声こそ小さいものの、彼は心底愉快そうに目を伏せた。
「でもクロロ、私のもうひとつの能力欲しいんでしょう」
「ああ。それはもう」
「涙をくれなきゃあげないわ」
「それじゃ仕方がない」
「諦めるの?」
「まさか。言ったろ、オレは盗賊だ」
 その不穏なはずの響きとは裏腹に私は穏やかな気持ちでなるほど、と頷いて、呼び鈴を押し、やってきたウエイトレスに紅茶のおかわりを注文した。ウエイトレスは伝票を一瞥してから、アッサムのホットですね、とハンディを打ち戻っていく。彼女の後ろ姿を見つめる。
 ゆるんだエプロンの紐を眼差しで追いかける。追いかける。靡いている。私は、いつから最後、というものを追い求めるようになったんだろう、と考える。おそらく最初からだ。私は、はじめて母の涙をみたとき、これを最後の涙に欲しいと感じたのだ。あのとき感じたこれが最後、という気持ちは、これが最後の涙になればいいな、という欲求だったのだろう。ここまで生きてようやく幼い自分の欲を少し理解出来るのだから、子供という生き物はそれが己自身であっても全く難解な生き物である。そう、私は、きっと最初から最後のコレクションを探していたのだ。最後を飾るにふさわしいコレクションを、人間がみな生まれたとき無意識に抱いている渇きを埋めるが如く追い求めていたのだ。それが母の涙だと思っていた。10年前の今日までは。
「せめてもう一度だけ涙を見せてくれないかな。それで能力はあげるわ」
「なぜそこまでオレの涙にこだわる必要が?」
「必要はないよ。ただあの展望台で見たあなたの涙が美しいと思っただけ」
「風が目に染みただけの涙かもしれないのに?」
「それでも美しいと思ったから」
「言われて泣ける人間じゃないんだがな」
「あら、展望台なら着いて行くわ」
「残念ながら今日の風は目に染みなさそうだ」
 彼は全く残念じゃなさそうな声色で微笑んだ。
 忘れもしない半年前、クロロの涙を見たのはカターレという国の展望台だった。本当に、ただの偶然だった。夕暮れが近づいてきた時刻、数人の影の隙間を縫い、ひとりで、ぼんやりと空を眺めながら、つう、と一筋の涙を流していたのだ。美しかった。あの涙を人差し指で掬えたら、もう死んでも良いとさえ思ったほどだった……。……。
 目を閉じる。
 開いた。
 この男とこうして向き合って座るまでにどれだけの労力を費やしたことだろうか。彼の涙を目の当たりにしてから、コレクションはひとつも増えていないというのに、時間とお金だけは途方もなく消えていった。惜しいことはない。彼の涙にはそれだけの価値がある。
 窓を見る。曇の流れが穏やかだ。
「少し歩かない?」
「付き合うよ」
 そう言ってクロロは流れるように伝票を指で挟んだ。彼にとっても私にとっても、お金など大した敬意ではなかった。
 クロロを追いかけてはじめてやってきたはずの街には不思議な懐かしさがあった。どうすれば彼の涙を手に入れられるのだろう。私はどうして涙を求めるのだろう。いままで人差し指で救ってきた涙たちが頭のなかに浮かんでくる。眼前の景色に集中せずぼんやり歩く私の隣を通りすぎる人々にはみな、旧友の眼差しがあるような気がした。あたたかいところだと思った。ああ、もしかしたらここは子宮なのかもしれない。遠くから聖歌隊の美しい響きが聴こえてくる。ほんとうは私はまだ生まれていなくて、ここは生まれる前の夢で、クロロという男は世界に存在していなくて、私はこれから生まれるのかもしれなくて。涙を求めるのは、私がこれから生まれる際に、産声を上げる際に、必要だからなのかも、しれなくて。歩いていると人生というものがすべて空想に思えてくるのは何故だろう、あれだけ過酷だったはずのハンター試験も、今となっては、過去の汗なのだから。
 クロロがふいに立ち止まった。白い服を身に纏った少年少女たちがもうすぐ終わる太陽の時間へ祈るように歌っていた。遠くから聞こえていただけの響きがすぐそこにあるのが妙に不思議だった。私たちは合唱に耳を傾けた。盗み見た彼の横顔には、まるで盗賊には相応しくない祈りが宿っているようだった。
「ねえクロロ、もしかしたらここは子宮なのかもしれないね。私たちはこれから生まれるんだ。涙を流して……」
 私は感じたことをそのままクロロに伝えた。彼はポケットに手を突っ込んで、僅かに首を動かした。それが頷きなのか私には分からない。
「ここが子宮なら、子宮というのは、恐ろしいところだな」
「そうね。安息地なんてないのかもしれない」
 この世界が地獄ということを、私も、きっとクロロも、知りすぎてしまったのだ。
「生まれた先にあるのは天国かな。それともこれが続くのか」
「天国だと知れれば今すぐ生まれるのに……」
「ふうん。オレは生まれなくていいかな」
「何故?」
「オレをつくったのはここだから。それらを捨てて天国には行けないよ」
「天国に行けば全てを忘れて、シアワセ、とやらになれるとしても?」
「ああ」
「へえ……」
「捨てるには愛おしすぎた。オレは、生まれなくていいよ」
 そう、と私は相槌を打ちながら、母のことを想った。そして私の手元にある涙たちのことを。彼らからこぼれ落ちた、棚に並べられた、雫たちのことを。彼は目を伏せて、より一層深くポケットのなかに手を入れていた。泣いているような横顔だったが、涙は流れていなかった。彼の頬に一筋の雫を落としているようにみせたのは光から生まれた影だった。美しいと思った。ただただ、いまは、ぜんぶが美しいと。風も、この地面も、空も、聖歌隊の歌も、隣人の眼差しを持つ住人も、私自身も、あの日の母の涙も。この隣の男も。ああ、その涙が欲しい。その涙が私が手にする最後になれば良いのに。
 ポケットのなかで密かに人差し指を動かす。彼の瞳の下をそっと撫でる。もう幾度となく繰り返してきたはずの動きなのに、はじめてのようなたどたどしさで。
 ねえクロロ、私はね、あなたの涙で最後にして欲しかったんだよ。太陽が沈もうとしている。雲。光。聖歌隊がお辞儀をする。拍手を送る人々。ここは地獄。私たちはみな、子宮のなかでもがいている。最後の涙を求めて。
 ああ、そうか、その涙で生まれたかったんだね、わたし。


END.



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