もう泣く事すら出来ないのか
「そう言えば今度の記念日、どっか行きたいとこないの?」
屈託のない笑顔のまま、善逸は私に尋ねた。
いつもと変わらない週末。
善逸の部屋で、善逸の隣で、善逸の肩に頭を預けていた私はゆっくり身体を起こした。
来月、私達が付き合って二年になる記念日。
善逸はその事を言っている。昨年も二人で旅行に行って楽しんだ、素敵な日。
私の返事を待つその顔を見ていたら、ズキズキと胸が痛んだけれど、私は勇気を出して口を開いた。
「善逸、驚かないで聞いて欲しいんだけどね」
「なになに〜? そんなに驚くような所なの?」
悪戯っ子のように目を細めて。
そんな無邪気な表情をする、善逸が好きだった。
そう、これは過去形だ。
「別れて欲しいの」
善逸の手に私も手を重ねていたけれど、さっとそれを自分の膝の上に戻した。
務めて明るく。いつものように。変わらない態度で。
そう言うと決めていた。
決めたのはここ最近じゃない。もうずっと前から、思い出すのも難しいくらい。
いつか言わなければいけないとずっと思っていた。
ずるずる引きずっていたら二度目の記念日がやって来ようとしていた。
このままだと私はまた無駄な一年を過ごすことになる、そう思ったからこの日、私は決心して部屋にやってきた。
「は?」
善逸は訳が分からない、といった表情で顔を歪めたけれど、一瞬でいつものお調子者の顔に戻り
「ちょっと、笑えない冗談どこで覚えたの〜? いくらなんでも俺だって怒るよ」
と、こちらもまた笑い話にするように言い放つ。
私は笑う事は止めて緩く首を横に振るだけにした。
冗談なんかじゃない。これは本気だ。それをわざわざ口にするのも嫌だ。
いつもならば、私がにこりと微笑んで「うっそー」とネタばらしするのに、今日は態度が違う。
善逸がその事に気づいたときには、血の気の失った顔で私の肩に手を伸ばす。
私はその手を肩に触れる前に軽く制止した。
明らかな拒絶。
善逸の表情がくちゃりと歪む。
「な、何…? え、本気? は?」
「そうだよ」
「笑えないって…! なんだよ、俺、何かした?」
「…そうだね」
別れを切り出される事に何も思い当たることがないと言う。
酷く焦った顔を見て、私の心に黒い靄が広がった。
善逸にとっては、何てことない事だったんだ。
私達が付き合ったきっかけは、学生時代同じクラスで、善逸から告白されたからだった。
私も善逸の事が好きだったから勿論OKをして、そのまま今日まで付き合ってきた。
彼氏彼女の関係。
私は善逸の彼女。
でも、それは善逸にとってはそこまで重要なことでもなくて。
善逸の口から次々に出てくる女の子の名前。
そして、気が付けば二人きりでご飯へ行ったという報告を、悪びれもなく私にしてくる。
事後報告ならまだいい。
果ては「今から女の子と遊んでくるから、ちょっと待ってて」と言われて、晩まで放置されたこともある。
その度に私は苦言を呈してきた。
最初はぷりぷり怒ってみたりして「私という彼女が居ながら何てことを!」と軽く殴ったこともある。
それが一向に辞める気配がなくて、次第に私の態度も怒りから悲しみへ。
涙を流してその背中に縋りついたこともあった。
結局善逸は苦笑いを残し、私を置いて行ってしまったけれど。
それを、この二年間続けてきたのだ。
むしろ、よく我慢した方だと思う。
いつのころからか「女の子と遊んでくる」と言われても「あっそう」としか返さなくなった。
私が拒否しなかったのをいいことに、善逸の女遊びは加速した。
週末遊ぶ約束をしていたから部屋を訪れていても、窓から見える部屋の中は真っ暗で。
インターフォンを鳴らしても反応一つない日もあった。
一回や二回では済まされない。
次第に心が引き裂かれていくのを感じていた。
途中で引き返すことは出来たハズだ。最初はそうしていた。女の子のところに行ってほしくなくて、あの手この手で善逸を繋ぎとめようとした。
でも、疲れてしまった。
何故、私がこんなことをしなければならないのだろう。
何故、善逸は私に告白したんだろう。
何故、私はこんなに冷めているんだろう。
色んな疑問が渦巻く中、出た答えはこの関係の清算。
あんなに好きだった金色の髪と瞳を見ても、前のようにドキドキはしない。
きっとあの髪に触れた女の子がいたんだろう、とか。
あの瞳に映った女の子はどんな子だったんだろう、とか。
そんなどうでもいい事は思い浮かぶのに。
その髪に触れたい、瞳に映りたいとは思わなくなった。
何度も言うように最初は違ったのだ。
告白をされてからの数か月は幸せそのもので。
善逸の傍に居たい、って心の底から思っていた。
でも今は、
「ごめんね、善逸。私、上手に出来ない」
善逸はきっと軽い気持ちだったのだ。
別に女の子と遊ぶくらい、普通だと。彼女をたまに大事にすれば、それだけでいいと。
快くその背中を押してあげれるような、寛大な心の持ち主になりたかった。
きっと善逸はそれを望んでいた。
でも、私には無理だった。
「私、私を好きになってくれる人じゃないと、ダメみたい」
「何言ってんの!? 俺は名前の事好きだよ? ねえ、名前もそうだよね?」
変化のない私の態度に善逸が声を荒げる。
好きだよ、と言われたのは酷く久しぶりのような気がする。
別に私も毎日伝えてはいなかったけれど、それでもふとした時に気持ちは伝えていた。
好きだよ、と。悲しいよ、と。
それを分かってくれてはいなかったのだろうか、彼は。
とことん私に興味がなかったんだ、と胸に痛みが走ったけれど、傷つくのももう最後だ。
私は善逸の言葉に肯定せず、その瞳を見つめる。
「私と善逸の気持ちは違うみたい」
同じなはずないよね。
私は善逸の中で一番になりたかった。
でも、善逸は違う。
きっとその他大勢いる女の子と同列、またはその下に位置している。
わかってる、そんなこと。今まで現実から目を逸らしてきただけなのだ。
「違わねぇよ! なんで? なあ、俺たち、仲良かったじゃん。なんで別れるとかそういう話になるわけ?」
「そうだね、最近は喧嘩もしなかったね」
「じゃあ…」
「喧嘩をする気力も起きなかった」
ひゅっ、と善逸の喉が鳴った。
絶望に染まる表情を見て、私は何故だか笑い出しそうになる。
本当に、本当に、善逸は気づいてなかったんだ。
私が一人傷ついていたことも、どんな気持ちで善逸を見送っていたのかも。
なんだ、そうだったんだ。
「お願い、善逸。私と別れてください。何でもするから、お願い」
少しだけ善逸から距離を取って。
深く、頭を下げた。
善逸の声にならない声が頭の上で聞こえた。
「何で…? 俺と、別れるって…? そんなの、嫌だ」
「大丈夫だよ、これで善逸には何のしがらみも無くなるんだから」
「名前の事、しがらみなんて思ったこともない! 俺は、名前が好きだ、愛してるんだよ…ねえ、そんなこと言うなよ、なあ」
愛してる。
その言葉を聞いて、目の前が真っ赤になった。
下げていた頭を思わず上げて、怯えたような瞳を思わず睨みつけてしまうくらいに、動揺した。
「嘘を吐かない善逸が好きだった」
憎々しく。
いつの間にか手に作った拳が怒りで震える。
善逸は、今まで私に嘘を吐かなかった。
それなのに、最後の最後でこんな酷い嘘を吐くなんて。
私の言葉に善逸がビクリと肩を揺らす。
善逸が口を閉ざしたその間に、私は周辺に置いていたカバンをひっつかんで、立ち上がった。
そのまま振り返ることもせずに玄関へ。
「名前…」と善逸が名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、無視をした。
靴を履いて、玄関のドアノブに触れて、やっと思い出した。
くるりと身体を翻し、靴を脱いで善逸の前に戻る。
その姿を見て善逸は少しだけ瞳に光を灯した。
が、それもすぐに消えた。
「返すね」
善逸の手の上に置いたのは善逸の部屋の鍵だ。
置かれたものを目にした瞬間、深い絶望の色に染まる善逸。
踵を返してそそくさと部屋を後にした。
外に出て、すたすたと夜道を歩いていく。
私はその時やっと気づいた。
ああ、もう私は、
善逸を想って泣く事すら出来ないんだ。
乾いた頬に触れて一瞬立ち止まったけれど、何も思う事はなかった。