命のやり取りをする日常で、初めて好きになった人だった。
相手は完全な一般人で、たまたま本屋で購入した本を落とした私と仲良くなってくれた、その人。
私の周りには独特な雰囲気の人ばかりがいるため、静かに本を読んで過ごしてくれるような友達は、その人が初めてだった。
友達から次第に好きな人になったのは、会ってから時間は掛からなかった。
いつも約束をしていたわけじゃない。
隠れ家的カフェで静かに本を読んでいたら、いつの間にかその人が隣に座っている。
ある程度読み進めたら、お互いの読んでいた本の紹介をして、楽しく談笑する。
その時間がとても幸せだった。

「ツナ」
「あ、棘。どうしたの?」

任務の無いときはいつもそのカフェに行っていた。
今日だって、そのつもりで手には数冊の本を持って出かけようとしたところ、廊下で同級生の狗巻棘に出会った。
彼は私が出て行くところを見つけて、背後から声を掛けてきたのだ。

彼とは長い間一緒にいるけれど、未だに何を話しているのか、よく分からない時がある。
それでも何となく会話が続いているから、あながち外れでもないのだろうけれど。
立ち止まって「どうしたの?」と首を傾げたら、棘は私の手元の本を見つめて「こんぶ」と呟く。

「今から本を読みにカフェに行こうと思って。帰りに何か買ってこようか?」
「おかか。ツナマヨ、しゃけ」

別にお土産いらないらしい。
棘の視線が本から私の私服へ移った。
今日はいつもよりも少し可愛めの服装をしている。
いつもみたいな暗い色一色のあんな制服なんて、着ていられないからだ。
たまには女の子らしくオシャレをしたっていいでしょう、と鏡の前でウキウキした。
きっと棘はそれが珍しかったのだろう、何か言いたげに目を細める。

「…何でもないって。本当に」
「おかか」
「嘘じゃないってば。もう、棘のばーか」

まるで私を責めるような視線に耐えきれなくて、さっさと踵を返して棘の前から立ち去った。
後ろで棘はきっと呆れたように私を見ていたに違いない。
だって仕方ないでしょう。好きな人が来るんだもの、少しでもオシャレをしたかったんだ。

可愛いと言ってくれればいいけれど。

そんな淡い期待を抱いて、私はカフェへ急いだ。


◇◇◇


棘に捕まっていたから、いつもよりカフェに到着するのが遅くなってしまった。
いつもは私の方が早いのに、今日は彼の方が早かったらしい。
いつもの定位置に座って、静かに本を読む背中を見つけた。
カウンター席である、その隣に私も腰を下ろして、私が来た事に気づいた彼が本から顔を上げた。
にこりと可愛くみえるように笑って会釈をする。
そうして、私もまた彼と同じように本を読み始めた。

数十分後。
頼んだ飲み物の氷がすっかり解けてしまったところで、私はやっとストローに口をつけた。
それを見た彼も同じように飲み物を口に含む。
そんな何てことない仕草にドキドキしていたら、気づいてしまった。
彼の左手の薬指に、今まで無かったそれを見つけてしまったのだ。

「あれ、その指輪」

思わず声に出していた。
すると彼は少し気恥ずかしそうに「ああ、そうなんだ。婚約をしてね」と笑う。
私はズシンと自分の心にどす黒い何かが降ってくるようなそんな感覚に陥る。
ガンガン頭が痛い。痛みの隙間から「嘘だ、そんな」という悲しい声も聞こえてくる。

婚約…?

彼は私の心が暗黒に落ちている間にも、見たことないような緩んだ顔で、その指輪を買った経緯を説明している。
それは、今までのどんな本を紹介するときよりも、幸せそうだった。
私は、その会話を表面上は笑って時々相槌を打って、聞いている素振りを見せた。
本当は何一つ耳に入っていなかった。
入れたくなかった。信じたくなかった。
つまりそれは、彼が私以外の人を好きになって、そしてゆくゆくは結婚するということなのだから。

結局その後はどうやって別れたのか覚えていない。
いつの間にかカフェを出て、いつの間にか寮に戻ってきていた。
けれど、寮についた私の足は、自分の部屋に戻ることなく。
普段誰も使わない階段の踊り場に、そっと壁に背中を預けて暫く座り込むことにした。
自分の部屋に戻ってしまったら、思い出してしまうから。
今日の朝、私がどれだけ彼に会うためにウキウキで準備をしていたのかを。



「しゃけ?」


暫くずっとそうしていた。
何を考えていたわけでもない。ただ、一人になりたかった。
どれくらい過ごしていたのかはわからないけれど、急に頭の上から降ってきた声に、驚いて顔を上げた。

「棘」

ここは、普段誰も使わない階段。
勿論、棘だって通らないはずなのに。
なのに、棘は朝と様子の違う私を見て、心配そうに膝を曲げていた。
気遣って欲しくなくて、私は不器用ににこりと笑う。

「何でもないよ。ちょっと考え事」

嘘だ。
考えてなどいない。
むしろ考えることを放棄していた。
それでも本音で会話など出来るわけもなく、私は苦し紛れにそう呟いた。

「おかか」

すぐにその嘘は見破られてしまったらしい。
口元を隠しているのに、棘の口先がツンと尖っているような気がした。
少し怒っている? 何となくそんな空気を感じ取りながらも、私は苦笑いを零した。

「明太子」

はあ、とまるで溜息を零すかのようにそう呟いて、棘は私の隣に腰を下ろした。
何で隣に座るんだろう、なんて考えても良く分からなかった。
一人になりたかったから、隣にいて欲しくないはずなのに。
何故か、そんな気持ちとは裏腹に今にも棘に縋りついて泣いてしまいたい気持ちになった。

「……どうやったら、選ばれるんだろうね」

脈絡のない会話だ。
急にそう言った私を棘が驚いた顔で見つめる。
前後の会話なんてあったものではない。
棘だって意味が分からないはずなのに、それでも口にしてしまっていた。

「きっとこの人なら、と思ったのに。選んでもらえなかった」

任務以外は彼の事を考えていた。
本当に心から好きだった。
でも、相手は私を見ていなかった。
意識すら、されていなかった。

私は自分の気持ちを彼に伝えることも、しなかった。

「自分勝手ってわかってる。好きな人には幸せになってほしい、当たり前のことなのに。なのに、素直にそう思えない」

私は酷い人だ。
彼の幸せそうな表情を見ても、自分の事しか考えられなかった。
幸せを願うことなんて、出来なかった。
むしろ、


「こんな気持ち、知りたくなかった」


彼を呪いたい。
そんなこと、考えたくもなかったのに。

私の話を、棘は黙って聞いていた。
ビックリするくらいドン引いているかもしれない、それもそうだろう。
色恋でこんなにも不安定になる私なんて、嫌いだ。
きっと棘だって嫌に決まっている。
棘の表情を見たくなくて、私は俯いた。


「……っ…」


俯いたら、今まで目の縁にぎりぎり留まっていた雫がポロポロと零れ落ちた。
一つ逃すと、後からドンドン零れてくる。
止めることなんてできなくて、私はただずっと床に落ちる雫を見ていた。

すると、棘が急に私のサイドの髪を優しく手に取った。
まるで私を慰めてくれるかのように、優しく撫でる手に、私は驚いて身体が硬直した。
ゆっくり顔を上げて、隣に座る棘を見ると、前髪の隙間から見えた棘がゆっくり口元のチャックを下ろして、何かを呟こうとしていた。

「……な、」

呟こうとして、はっと気づいた棘が口を閉じる。
自分の言葉に力が宿るのを慌てて止めたみたいだった。

何を言おうとしていたのかは分からない。
けれど、自分のルールを破ろうとしてまで私に何か言葉を投げかけようとしてくれた棘を嬉しく思った。


「ありがとう、棘」


きっと不細工な泣き顔だろうけれど、無理やりにでも笑って大切な仲間に感謝を伝えた。



バイバイ、恋が死んだよ



大丈夫、きっとすぐに忘れる。
私って薄情な女だから。





(泣くな、俺を見て。そう言えないこの声を心の底から呪う)

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