05
伊黒くんの顔を見るのが嫌だ。
寝室で隣で眠っているというのに、最近は伊黒くんに背中を向けて眠るようになったし、晩御飯だって後片付けをしてから食べるから、と言って先に食べるようお願いをしている。
そうすると同じ家にいるのに伊黒くんの表情を見なくて済むから、私は表面上は普通に出来ている。
と、思っていた。
前みたいに伊黒くんの顔を見ても幸せだなぁ、と思うよりも頭の中に甘露寺さんと一緒に微笑む伊黒くんの姿が思い浮かぶのだ。
胸が、心臓が、すべてが苦しい。
分かっていた事なのに、こんなにもつらい。
伊黒くんが買ってきてくれたお花はもうすぐで枯れそうだった。
花瓶の下に落ちる花びらを一つ一つ拾って、それを縁側で腰かけた膝の上に置いた。
お昼間の優しい風が落ちた花びらたちを攫おうとしている。
私はその一つを手に取り、顔の前に持ってくるとふーっと息を吹いてやる。
花弁は一瞬のうちに私の手の上から居なくなって、空へと舞い上がってしまった。
私の伊黒くんへの気持ちも、この花びらのようにどこかへ飛んで行ってくれないだろうか。
何故伊黒くんは私を選んだのだろう。どうせならもっと別の人をお嫁さんにしてくれればよかったのに。
そうすればきっと私の気持ちも、よくある片思いの失恋で終わった。
こんな、こんな結婚生活を望んだわけではないのに。
伊黒くんは私の態度に気づいてくれているのかな。
でも普段と変わらない様子を考えると、きっと私の事なんて一寸も考えてなどないだろう。
それでいい。それでいいのに、どうして私の心は矛盾して苦しいんだろうか。
……そろそろ、気持ちを切り替えないといけない。
だって今日は、大事なお客様が来るのだから。
『明日、客を呼んでもいいだろうか』
昨晩、寝ようと布団に入った私に、伊黒くんがおずおずと話し出した。
伊黒くんの方は見ないで何も考えずに「いいよ」と言うと、隣から安堵の息が漏れたのが分かった。
そして次に放たれた全く予想していなかった人物の名を聞いて、私は伊黒くんにばれない様に顔まで布団を被ったのだ。
『甘露寺が是非、お祝いをしたいと』
神様、仏様。
今まで私は特別良い行いをした覚えはありませんが、悪い事もしなかったでしょう?
なのになんで、どうしてこんな酷い仕打ちをするの。
前世の私がよっぽどの悪人だったのかもしれないけれど、それにしたって酷い。
鼻を啜る音も涙を堪えようと漏れる嗚咽も、すべて隣の伊黒くんに気づかれるわけにはいかない。
だから、こうして布団に当ててじっと待った。
伊黒くんが眠るのを。朝になるのを。
いつものように朝、伊黒くんは出かけて、任務終わりに甘露寺さんを連れてくるという。
だから私はお客様を出迎える準備をする。
そうして、今すべての家事を終えた私は、ただ地獄のような時が来るのを待っている。
あの花のように可愛らしい笑顔に、対抗する術なんて持ち合わせてはいない。
目の前にしてしまったらきっとこの心もまた真っ黒な闇に染まる。
花束を貰った時の嬉しい気持ちが、すべて吹き飛んでしまう。
初めて、伊黒くんから貰ったものなのに。
ふと、玄関の方から人の声がした気がして、私は縁側から部屋の中へ。
花びらは全てお庭に払った。
名残惜し気に花びらを見つめて、私は意を決して玄関へと向かったのだ。
「いらっしゃいませ」
既に玄関に待っている二人を、夜中にずっと練習した笑顔で迎える。
想像通りの反応で甘露寺さんと伊黒くんがそこに立っていた。
伊黒くんはこくりと頷いて、いつものように先に家に入ってきて、甘露寺さん手に持った紙袋を私に向かって差し出す。
「今日は本当にありがとう。これ、とってもおいしいお団子なの。よかったら」
「お気遣いありがとうございます、頂戴しますね。あとで皆さんで食べましょう」
そう言って微笑めば、目の前の可愛らしい顔がぱあっと明るくなる。
可愛い。
女の私でもそう感じるのだ。
きっと伊黒くんには特別可愛らしいものに見えるに違いない。
そのまま客間に案内をして、伊黒くんと甘露寺さんを座らせて。
私はお団子を持って台所へ消える。
三人分のお茶を用意しながらも、ずっと消えない胸の痛みに気づかない振りをした。
大丈夫、大丈夫。
今日はきっと、無事に終われる。
お盆にお茶とお団子を載せて廊下を歩くと、客間のほうから甘露寺さんの可愛らしい笑い声が聞こえてくる。
伊黒くんの声は聞こえないけれど、きっと楽し気にしていることだろう。
きゅっと唇を噛んで、立ち止まった。
少しだけ、深呼吸をして。
また笑顔を貼り付け、私は客間に顔を出す。
「お待たせしました」
「ありがとう、名前さん。あ、名前さんとお呼びしてもいいかしら」
「ええ」
「嬉しいわ。私の事も、蜜璃と呼んでね」
大丈夫。
表面上は普通にお話が出来ている。
二人の前にお茶とお団子を置いて、私は甘露寺さんと伊黒くんが向かい合って座っているその場所、伊黒くんの隣に腰かけた。
それを見て「ふふ」とまた笑う甘露寺さん。
「婚礼の時も思ったけれど、やっぱりお似合いの二人だわ。素敵ね、伊黒さん」
「……あぁ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
駄目だ、まだ。
自分の心臓が痛い。
だけど、私のことよりも。
想い人にそんな事を言われている伊黒くんの方がつらい。
目の前にいるのに、好きだと言えない伊黒くんが可哀想で、息をするのも忘れた。
「…っ、名前さん、どうしたの!?」
だから、貼り付けた笑顔がいつの間にか剥がれていて。
はらはらと頬を伝う涙に気づかなかった。
伊黒くんが見開いた顔でこちらを見る。
心配そうに甘露寺さんもまた、私を見る。
でも、もう駄目だ。
私はどう考えても、邪魔者だったのだ。