06

苗字の泣き顔を見るまで、俺はそんな素振りがあったことに気づくことが出来なかった。
甘露寺が「二人のラブラブ家庭を見てみたい!」と言ってくれたから、じゃあ是非という事で家に招いた。
勿論苗字にも確認すれば、快く返事をしてくれたので問題は無かったと思っている。
が、時々悲しい目で俺の贈った花を見ている時があったので、何かあったんだろうか、なんて思っていた。
苗字の気持ちなんて、俺の頭の中には無かったのだ。

最初こそ戸惑いながら始まった結婚生活だったが、苗字との距離もどんどん縮まってきていて。
好いた奴がいた、と聞いていたけれども、その事が頭から抜け落ちるくらいに俺自身は浮足立っていた。
こうやって仲良くなっていけばいい、こうして本当の夫婦になればいい。
それが現実になっていくことを信じて疑っていなかった。

「婚礼の時も思ったけれど、やっぱりお似合いの二人だわ。素敵ね、伊黒さん」

甘露寺がいつものような笑みを向けて、そう言う。
例え世事だとしても、それが嬉しくないわけはない。
だがそれを表情に出すほど、俺は素直ではなかった。
苗字の前で恰好をつけたかったのかもしれない。
でも、心の中では感じたことないくらいの喜びであふれていた。

そう、その時までは。

俺の隣に座る苗字の大きい目から、ぽろぽろと零れる涙。
それを視界に捉えた瞬間、俺は先程まで感じていた喜びなんて一瞬でどこかへ行ってしまった。
甘露寺もまた苗字の泣き顔を見てはっとし、「…っ、名前さん、どうしたの!?」と慌てて声を荒げた。
苗字は最初、自分の頬に伝う涙に気づいていなかった。
無意識のうちに零れていたらしい。
自分の頬に触れ、それが涙であると悟った苗字は「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟き、その場を立った。
顔を覆いながら、客間を飛び出したことで、俺も反射的に立ち上がる。

「伊黒さん私、名前さんに失礼な事を言ってしまったのかしら…」

顔面蒼白の甘露寺に俺は慌てて首を横に振る。

「甘露寺は悪くない。……悪いのは、俺だ」

苗字の気持ちを忘れていた、俺が悪いんだ。
馬鹿だ、ほんの少しでも自分が好かれていると思い込んでいた。
好いた奴がいる苗字に向かって「お似合い」なんて言われた苗字の気持ちを一切、理解していなかった。

ギリギリと拳に込める力が強くなる。
それを見た甘露寺が「ごめんなさい、伊黒さん。後はお任せしてもいいかしら。私が居たら苗字さんも嫌な気持ちになるかもしれないわ」と言って、そのまま玄関へ向かう。
俺はそれをどんな表情で見送ったか覚えていない。

ただ扉が閉まったと同時に小走りで廊下を駆け、寝室の扉の前で立ち止まった。
中から聞こえる僅かな泣き声に、胸を痛んだ。

話しかけていいのかどうか、正直戸惑いもあった。
自分勝手な気持ちを優先させた結果、苗字を傷つけた。
もしかしたら、今までずっと傷ついていたのかもしれない。
好きでもない男と結婚させられて、隣に居たかった男は自分の隣には居ない。
そんな生活が一生続くことに、絶望を感じていたのかもしれない。

だが、泣かせたままで放っておくことはできなかった。
彼女は、俺の妻なのだから。


「苗字…?」

扉の前から声を掛けた。
泣き声が一瞬止んで、静けさが戻ってくる。
暫く無言が続いたが、とても小さな声で中から苗字が喋り始めた。

「甘露寺さんは…?」
「もう帰った。最後まで謝っていた」
「甘露寺さんの所為じゃないの…ごめんなさい」
「俺も、そう言った」

そうしてまた沈黙が続く。
扉を開けて無理矢理にでも中に入っても良かった。
だけど、これ以上嫌われたくなくて、躊躇してしまう。

「苗字、すまない」

俺が謝罪を口にすると、中からは息を飲んだような音が聞こえた。
「ここを開けてくれないか」と問えば、また中からはしばらく悩んだようで沈黙が続き、それから「いやだ」と拒否の言葉が発せられる。

「私が悪いから、お願いだから」

これ以上、私に構わないで。

そう言われたと同時に、俺は無意識に扉に手を掛けていた。
乱暴に扉を開けて、中へ入れば、部屋の隅で小さくなっていた苗字を見つけた。
苗字は俺が入ってきたことに気づいて、小さく悲鳴を上げたが、どうでもよかった。

「君を放っておくわけないだろう!」

まるで煉獄のように大きな声が出た。
今までこんな声を上げたことはあっただろうか。
それほど頭に血が上っていた。

「……すべて俺が悪い。俺を、恨んでもいい。だが、誰もいないところで泣かないで欲しい」

その涙の責任はすべて俺にある。
だとすれば、俺の前で泣いて欲しい。
君のすべてを奪った俺だからこそ、それが俺の夫としての務めだ。

苗字の視線に合わせ、その場に座る俺を見て、苗字は涙を零しながら首を横に振る。


「伊黒くんを恨んだことなんて、ない。これからも、ずっと」


そう言って、俺に向かって手を伸ばし、俺の裾を小さく摘まんで、またしくしくと泣き始めた苗字。
俺は、ただ苗字が泣き止むまでずっと傍に居た。

抱き潰してしまいたい、という欲を我慢して。

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