07
「望まない結婚を続ける意味があるのだろうか」
伊黒と甘露寺の態度が可笑しいと聞いて、そこいらを歩いていた伊黒を茶に誘った。
最初はなかなか話し出さなかったが、二時間も嫁たちの惚気話をしたついで「嫁がかわいいだろ?」と尋ねたら、これだ。
冗談、と笑ったら伊黒はいつも以上に口を閉じて暫く何も言わなくなった。
いよいよこれはまずい。
まさか本気の本気だとはゆめゆめ思うまい。
だって、お前この前結婚したところじゃなかったか?
「……この結婚を望んでいなかったのかよ?」
「いや、俺は…俺だけが望んでいた。アイツを俺のものにしたい、と。でも、苗字にとっては、好いた男と一緒になれず、好きでもないただの同期だった男と結婚したんだ」
「はぁ?」
未だに壮大な伊黒の嘘かと思ったが、自分の嫁を未だに苗字で呼び、こんなにも悲痛な表情をしている様子からは、とてもじゃないが、偽りとは思えなかった。
もっと早く言えよ。俺、二時間も惚気ちまっただろうが。
仮面夫婦だという伊黒の前で「雛鶴は〜」「須磨はバカだが〜」「まきをは〜」とぺらぺら喋った少し前の俺を殴りたい。
いやそれにしても、
「結婚する時に何も言わなかったのか?」
「結婚する時もその前も、今も…」
「嘘だろ、お前」
それだけ思いつめるくらい相手の事を想っているのなら、それを口にすれば万事解決じゃねーかと思ったが、そういうわけにもいかないらしい。
伊黒は俺ほどじゃないが顔も悪くねぇ。
女は好きになるよりも思われるくらいの方が幸せになれるもんだ、とは言えない。
相手からすれば、突然嫁になれと言われ、拒否することなく今日を迎えているのだから。
勿論、何故嫁がされたのかもわかってないんだろうな。
会ったことはないが、伊黒の相手が不憫だ。
「じゃ、今から好きだ愛してる傍に居てくれ、と伝えてみろ」
「……苗字には、好いた男がいるんだ」
「だから何だっつーの」
「宇髄は人の気持ちが理解できないらしいな」
「うるせぇ。お前よりも順風満帆な結婚生活送ってるんだから、文句言われる筋合いねーよ」
嫁には伊黒の他に好きな男がいるらしい。
俺様が当事者ならば、そんな事知ったことではないと攫ってでも嫁にするつもりだが。
伊黒が強硬な手段に出るほどの相手と考えれば、それはそれで面白い。
……まあ、状況は悪いみたいだけどな。
伊黒に出した湯呑に追加で茶を注ごうとしたが、一つも減っていない事に気づき、持ち上げた手を下げた。
俺の前でも伊黒は飯どころか、茶一つ飲まねえ。
そんな奴が毎日家に帰って飯を食う。
勿論任務があるときもあるだろうが、それでも家では飯を食ってるんだ。
きっと嫁の前で。
そう考えたら、望んでいようとなかろうと、今の嫁を手離すのは伊黒にとっては良くはないだろうな。
「この宇髄様が、とびきりのいい案を教えてやるよ」
口角を上げて目の前のちっさくなった男を見下ろすと、伊黒は不審げに俺に視線を合わせた。
◇◇◇
もう何日もまともに伊黒くんと会話をしていない。
勿論最低限のお話はするけれど、本当に最低限。
前みたいにお布団に入る前の少しのお話とか。食事中のお話とか。
全部なくなってしまった。
私が口を開かないのもそうだけれど、伊黒くんも何も言わない。
きっと私に愛想をつかせてしまったのだろう。
ズキンと胸が痛む。
結婚してから何度この胸は痛んだろうか。
きっとこれからも傷ついていくんだろうけれど、それはとても、とても寂しい。
やっぱり伊黒くんのためにここは身を引くべきなのかもしれない。
「…幸せな夢を見せてもらったよね」
嘘でも好きな人のお嫁さんになれたこと。
一生忘れない、私の宝物。
覚悟を決めないといけない。
もう伊黒くんの前では泣かない。
最後は笑顔でお別れを言いたいからだ。
そして、この気持ちにちゃんと終止符を打つために、伊黒くんに伝えよう。
迷惑であることは分かっているけれど、長い片思いを終わらせるためには必要だと思うから。
お昼に使用した最後のお皿を洗って、私は自分の割烹着で濡れた手を拭った。
伊黒くんはなんて言うだろう。
「せいせいした」?
「身を引いてくれてありがとう」?
そんなことを言われたら、一生立ち直れない気がするけれど。
きっと、伊黒くんはそんなこと言わない。
「伊黒くんなら、」
最初から優しかった。
任務の時は私の事を気にかけてくれていた。
そんな伊黒くんなら、きっと
「何も言わないかも」
今までと同じように。
はあ、と息を吐いて私は割烹着を脱いだ。
それを椅子の背に引っかけて、とことこと寝室へ引っ込む。
寝室にある私の化粧台。伊黒くんが用意してくれたものだ。
引き出しから花柄の便せんを取り出し、筆を持つ。
ずっとずっと想っていたことだから、もっとあっと言う間に書けるかと思ったけれど、すぐに筆は止まった。
本当なら顔を見て伝えたかったけれど、上手く言葉に出来ないかもしれない。
まあ、手紙にしたところで上手に伝わるかと言われると分からないけど。
大丈夫、まだ時間はあるもの。
ちらりと時計を見ながら、伊黒くんが帰ってくるまでにこの手紙を書き終える事を決めた。