08
宇髄の案とやらを最後まで聞いた俺がバカだった。
あれでは苗字に気持ち悪い奴だと思われて終いだ。それでは苗字の気持ちが離れていくのも時間の問題である。
「俺は帰る」と宇髄に啖呵を切って屋敷を飛び出したはいいが、このまま自分の屋敷へ素直に戻っていいか足が戸惑う。
家に帰れば苗字がきっと夕飯の用意をしているところだろう。
ここ最近の家庭内の雰囲気から考えれば、足も鈍くなる。
どんな顔をして話せばいい。
本当は分かっている。俺達には圧倒的に会話が足りない。
普段の会話だけでなく、最初から。
結婚する前からもっと会話をするべきだったんだ。
至極当たり前の、事を。
悶々と考えていたらあっと言う間に自分の屋敷の前だった。
結婚してから早く家に帰ることばかり考えていたが、屋敷にたどり着くまでの体感がこんなにも短い時間だったのは初めてだ。
いつまでも戸惑っていても仕方がない。
小さく息を吸って、玄関扉に手を掛ける。
「今、帰った」
そう言って一歩足を踏み入れたら、いつものように奥からトコトコと走って迎えてくれる苗字の姿が。
「……いないのか?」
いつもならば出迎えてくれる苗字の姿が、今日はない。
買い物にでも出かけているのだろうかと中へ入って、着替えるために寝室の方へ進んでいく。
ついでに他の部屋にいないかとキョロキョロしてみたけれど、やはり苗字の姿はなかった。
…珍しい。
そもそも苗字はこの時間に出かけたりなどしない。
俺が帰ってくる時間を把握しているのか、早めに晩の買い物を済ませてくれるからだ。
では、何故苗字がいないのか。
「…っ…」
脳裏を掠めた嫌な想像で冷や汗が噴き出る。
まさか、嘘だろう。
そう思いたい。まさか、苗字が出て行くなんてこと。
でも片隅では「とうとう俺に愛想をつかしたか」と納得する自分も居て。
自分の身体はズンズンと慌ただしく、あちらこちらの部屋の扉を乱暴に開けていく。
だがどこの部屋にも苗字の姿は見えない。
平常を装うことも忘れて、俺は次第に声に出していた。
「名前っ…」
初めて名前を呼んだのが、こんな場面だとは。
なりふりなど構っていられない。せめて返事があってくれと、切に願いながら口に出した。
客間にも台所にも、厠にもいない。
諦めに近い感情で、最後の部屋、寝室を開けた。
彼女は、そこにいた。
自分の化粧台に顔を埋めて眠る姿を見て、俺は心底安堵した。
いつの間にか肩から着地していた鏑丸も同じくホッとしたように、舌を出している。
肩の力が抜けると同時に自然と眠る苗字に近づいた。
いつから眠っているのかはわからない。だが深く眠っているようで、俺が近づいても起きる気配はない。
起きているときには触れることすらないその肩に、優しく触れてみる。
ビクン、と僅かに身体が揺れた。
そんな様子すら愛らしいと思う。
俺は、ずっとずっと、彼女に恋をしていた。
いつか一緒になりたいと思っているだけで、今までまともに行動はしなかったが。
肩から頬にそっと指を滑らせていく。
「……泣いていたのか」
頬には明らかに涙の通った痕が残っていた。
俺のいない間に、誰を想って泣いた…?
彼女の涙の理由にさえなれない自分が不甲斐ない。
頬からゆっくり視線を化粧台に向けて、俺はやっと気づいた。
彼女の手にある花柄の便箋に。
◇◇◇
とても幸せな夢を見ていた。
私は大好きな伊黒くんのお嫁さんになれて、伊黒くんもまた、私の事を大好きになってくれて。
周りの人たちに祝福をされた、そんな素敵な夢。
夢の中でも夢だと分かる、現実離れしたお話。
目を開けたら、そんな現実はありはしない。
そんなこと分かっているのに。
「名前」
伊黒くんの優しい声で、私の名前を呼ばれた気がした。
それだけじゃない。名前を何度も何度も呼ばれながら、私の身体を伊黒くんが抱きしめてくれている。
身体の自由がきかないことがこんなにも幸せだなんて、知らなかった。
素敵な、本当に素敵な、
「夢じゃない。名前」
耳元ではっきり聞こえた言葉に、瞬間的に眠気は吹っ飛んで行ってしまった。
パチ、と瞼を開けた先は見慣れた羽織の柄で。
どうして、と考える前に理解したのは、夢の中のようのに伊黒くんに抱きしめられているという事だ。
しかも思ったよりも強く抱きしめられている。
夢から醒めたのにまだ夢を見ているのかと混乱している私に、伊黒くんはまたあの優しい声で呟く。
「頼む、返事をしてくれ」
「……は、はい」
反射的に返事をしてしまった。
伊黒くんは私が返事をすると、さらに力を込めて私を抱きしめる。
それでも背中とか骨とか痛くないから、きっと加減をしてくれているんだろう。
……ちょっと待って。冷静に考えたら、私伊黒くんに抱きしめられているんだよね?
え?
「……出て行こうとしたのか」
抱きしめられている事実にようやく頭が追い付いて、叫び声をあげる一歩手前。
伊黒くんの低い声で私は一気に意気消沈。
化粧台の上にあった手紙は、綺麗に封が開いてあった。
書いたことに満足して、そのまま眠ってしまったなんて、最後まで爪の甘い私。
「あの、伊黒く」
「…俺は、甘露寺の事を意識したことなど無い。断じて」
「え?」
ぎゅう、と抱きしめられたまま、絞り出すように言われて。
色々と混乱の続く私はすぐには理解できない。
でも、もしかして、なんて。
私の身体を一つも逃がさないように抱きしめてくれるこの手は、まさか本当に。
私の戸惑いを感じたのか、抱きしめていた手を緩めて、身体が少しだけ離れた。
私の顎に手をやって、伊黒くんの色の違う二つの瞳と目が合う。
仄かに頬が赤いと感じるのは、気のせいだろうか。
「俺はずっと、君だけを」
そんな綺麗な瞳が、苦しそうに細められて。
そして、僅かに震える身体。
私の身体が震えているのかと思ったら、違った。
目を見開いて、ただただ驚愕した。
「わ、私?」
「ああ」
「…甘露寺さんは?」
「甘露寺とは何でもない」
「なんで、何で私と結婚した、の?」
「君だから一緒になりたかった」
伊黒くんの大きな手が袖の中から私の手を探し出して、するすると指を絡めていく。
こつん、と伊黒くんのおでこが私のおでこにくっついた。
こんなに近い距離で伊黒くんを感じたのは、初めて。
伊黒くんがぽつりぽつりと教えてくれた。
ずっと私の事を気にしてくれていたこと。
感情が邪魔をして素直に話しかけられなかったこと。
皆さんの計らいで、私に求婚できたこと。
私に好きな男性がいると聞いて、毎夜夢の中で見知らぬ男性に向かって呪いをかけていたこと。
私の身体に傷を作りたくなくて、隊を離れるように言ったこと。
甘露寺さんが家に来た日、何度も何度も時が戻ればいいと思ったこと。
そして
式の前日と、初夜は全く眠れなかったこと。
全部全部、傷ついた思い出だったものが、幸せな夢に塗り替えられていく。
長い時間、伊黒くんの話を聞いていたのに、それでもまだ本当なのかと疑う気持ちもある。
でも、はっきりわかるのは、私のこの手を握ってくれる大きな手は、もう二度と離れないということ。
「俺と夫婦になって欲しい」
もうすでに夫婦だよ、と泣きながら笑う私を見て、伊黒くんは「ああ」とまるで子供のように笑う。
そして、布団も敷いていない畳の上にゴロンと転がった。
「私を、お嫁さんにしてください、小芭内、さん」
私の顔の横にある伊黒くんの顔が、見る見るうちに赤みを帯びて、そしてまた私の身体を身動き取れない様に優しく抱きしめた。
あたたかい胸板に顔を埋めながら考えるのは、数か月前の結婚する直前に悲観する私のこと。
……大丈夫だよ、あの時の私。
拝啓、報われない片思いをしている私へ
少し遠回りしたけど、私はちゃんと幸せになれるから。
これからは私達の勘違いを、ゆっくり答え合わせをしていこうね。
「……宇髄が、これを言えば必ず上手くいくと教えられたが、言わなくて正解だった」
「何を教えてもらったの?」
「……」
「大丈夫、教えて伊黒くん」
「…………俺の子を産んでくれ」
「はい、小芭内さん」
「…ッ!!」
おわり。