「髪を切ったんですか」
PC画面を睨みつけていた私は、その言葉でまだこのオフィスに人がいる事に気づいた。
目を酷使しすぎて画面から目を逸らすだけで、軽く光が飛んだことに心の中で溜息を吐いて、声のした方へ視線を向ける。
私の隣の隣のデスクに座る、その人は呆れたような顔をしていたけれど、姿勢よく椅子に腰を下ろしていた。
こんな夜遅くまで仕事をしていてよくもまあ、そんなに綺麗な姿勢のまま仕事が出来るものだ、と黙って眺めていたら、追撃のようにその人の口が開く。
「聞いていますか」
「ええ」
無視されたと思ったのだろうか。
質問してきたその人は目を少しだけ細めて、それでも私からは視線を逸らさずに言葉を繰り返す様は、律義だなという印象。
流石に返答しないのはまずいと思い、私も反射的に口を開いた。
「それって、私に言ってます?」
明らかに私を見ながら言っているのだから、私相手に話をしていると分かるのだけれども。
どうしても疑いを向けてしまうのは、この人、七海さんと私は今までまともな会話をしたことが無いからだと思う。
というより、最後に会話した内容を全く覚えていない。
デスクは隣の隣。普段外回りが多いこの人とあまり社内で顔を合わすこともないからかもしれない。
「今、このオフィスに貴女以外の人間がいますか?」
「あぁ、そう言えば私達だけでしたか」
私よりも一つか二つ年上の七海さん。
身内に外国の方の血が入っているらしく、髪色は日本人離れした薄い金色をしている。
勿論背も私なんかよりも高いし、座っているのにも関わらず、その差は歴然だ。
七海さんの言葉で私はやっと辺りを見回し、私と七海さんの頭上しか蛍光灯が点いていないことに気づいた。
現在の時刻は11時を回ろうかという時間。
この時間まで仕事をしている人間がいるとすれば、よっぽどのブラック企業に勤めているか、よほどの無能か。
残念な事に私は後者の方だ。
だからこそ、七海さんがこの時間まで残っている事が珍しい。
この人は定時退社が無理でも、わりと早めに退社する有能社員だ。
何でまだ残っているんだろう。
「……髪を切ったのか、と尋ねたのですが」
「忘れていました。ええ、切りましたよ。失恋しまして」
やっと冒頭の会話を思い出した私は両手をぽん、と叩いて答える。
先日まで私の髪は腰まで届かずともそこそこのロングヘアだった。
それをばっさり肩より少し上まで切ってしまった。
理由は先に述べたように失恋、ではなく、ただ単に鬱陶しかっただけ。
シャンプーの消費となかなか乾かない髪にイライラしてのことだ。
だけど、それを正直に言うのは何だか面白くなかったので、敢えて失恋した、と口にした。
普段会話しない七海さんがどんな反応をするのか気になったのもある。
まあ、恐らくというか9割「くだらない」と言われるに決まっているけれども。
「それは…勿体ないですね」
なのに、私の予想に反して、七海さんは表情は変わらないが、ふうと息を吐いて「勿体ない」と言った。
思いがけない反応に「なぜ?」と尋ねてしまったのは、仕方がないと思う。
「…似合っていましたから」
ふい、と視線をPCに戻されて、そう言われてしまったら。
私はビックリしてあんぐりと口を開けて七海さんを見つめることしか出来ない。
何と言った、この人。
似合っている?
え?
「七海さんは髪が長い人が好みなんですか?」
本当に今日は良く喋る。
勿論普段はこんな会話したことないけれど。
今日くらいこういう会話をしてもいいだろう、あまり人を寄せ付けない事で有名の七海さんが珍しく人と話しているのだから。
七海さんは視線をPCにやったまま「というより、」と呟いて、少しだけ口を閉じてしまった。
とてつもなく答えづらい事を聞いてしまったのだろうか。
もしかして、元カノがロングヘアだったとか。
それはいけない。折角の人嫌いの七海さんと仲良くなれるチャンスを棒に振ることになる。
良からぬ思考を巡らせていると、PCに戻したはずの視線をまたこちらに向けていた。
「貴方は長い髪の方が似合う」
さっきと殆ど同じような意味合いの事を言われただけなのに。
何故だか、私の心臓が一回大きく跳ねた。
「あ、ありがとうございます」
すぐにまたPCを見る作業に戻ってしまった七海さんに深く尋ねることもできず、無駄にドキドキする心臓を抱えたまま私もPCを睨みつけた。
暫くカチャカチャとキーボードを叩く音が静かなオフィスに響く。
「苗字さん」
「は、はいっ」
まだ心臓がどきどきしているのにも拘らず、また七海さんに話しかけられた。
先程の気の抜けたような返事よりも体全体で反応してしまったけれど、変に思われなかっただろうか。
伺うように七海さんを見ると、七海さんはキーボードを叩きながら
「貴女の開いているそのファイルを、共有のフォルダに入れてください」
と言った。
「……え?」
「え、ではなく。共有しないと私が手を出せませんから」
「…何故、七海さんが?」
「その方が早く帰れるでしょう」
つまりは。
七海さんは私のこの残業してまで手を焼いているファイルを、共有して手伝ってくれるというのだ。
確かに七海さん程の有能な方に手伝ってもらえるのなら、私の帰宅も予想以上に早くなることだろう。
だからと言って、七海さんにお手伝いしてもらっていいのだろうか。
「それは流石に悪い気がします。七海さんのお仕事の邪魔になりますし」
至極真っ当な事を言って、私は再度キーボードを叩く作業に戻る。
けれど、横で七海さんが大きく溜息を吐いたのが分かった。
「私の仕事はとうの昔に完了しています。下手な気を遣うことよりも、今は素直に先輩のいう事を聞きなさい」
「……あ、はい」
七海さんの言葉で私は素直にファイルを上書き保存し、それを問答無用で共有フォルダにぶち込んだ。
そこまで言うなら手伝ってもらおうじゃないか。
きっと七海さんもビックリするぐらいの無能な私が垣間見えることでしょうよ。
開き直りつつ「入れました」とだけ言うと、七海さんが「わかりました」とまるで機械のように返事をする。
私は七海さんがカチカチとマウスを動かす姿を横目に、キーボードを叩きすぎて疲れた指を軽く揉んだ。
「……あれ、」
そこでやっと気づいた。
「仕事が終わったなら、何で帰らないんですか、七海さん」
七海さんは有能社員。
いつも定時近くで退社する、凄腕リーマン。
しかもさっき自分の仕事は終わっていると言ったその人が、何故今日、こんな夜遅くまで社内に残っているのか。
恐る恐る七海さんを見ると、七海さんはゆっくり私の方を向いて
「さあ、何故でしょうね」
と、口元だけで笑ったのだ。
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