ああもう、なんて日だ。
何か月も前に消えてしまった男の人に未だ焦がれている事を、再認識してしまった。
そんなつもりはなかったのに。
引っ込んだかと思った涙も考えれば考えるほど溢れてくる。
忙しい毎日の中で、少しずつ思い出す事も無くなっていくのだろうか。
私のお弁当を美味しいと言ったあの声も、私の仕事を横から掻っ攫って手伝ってくれる腕も。
私と最後にキスをしたあの唇も。

「…うっ、うう…」

さぞ滑稽な事だろう。
夜の街で涙で化粧が酷い事になった顔面を晒し歩く女の姿は。
普段ですらナンパのナの字も声が掛からないのに、こんな様子では到底ナンパなんてされない。
まあ、されても困るのだけど。

いい加減泣き止む方法はないだろうか、酒か、酒を飲めば頭もぱっぱらぱーになって、どうでもよくなるだろうか。
ぐじゅぐじゅに濡れた頬を袖で軽く拭い、私はまた嗚咽を漏らす。
道行く人も私の様子を見て「やばい女だ」とでも思ったのだろう、わざと避けて歩きやがる。
別にいいけどね、今まさに私は悲劇のヒロインごっこの最中だから。

全方向に八つ当たりしながら、頬にべったり引っ付いた髪を耳に掛けた。

その時だった。
後ろから自分の腕が凄い勢いで引かれて、身体のバランスが崩れた。
倒れる、と思ったけれど私の身体は地面に倒れる事なく、後ろから現れた人影に軽く抱き留められてしまう。
肩に置かれた手は、女性の華奢な手なんかじゃなくて。
ごつい癖に指がすらりと長い、固そうな手。

「え?」

化粧が落ちた不細工な顔で振り返れば、そこにいたのは焦った顔をした男の人だった。


◇◇◇


自分のやるべきことを思い出して、勤めていた仕事を辞め、任務に復帰してから数か月。
仕事を辞める事自体は後悔はないはずだった。
だから、後に残す者たちの為にマニュアルを作成し、自分が居なくなっても困らないように対応したつもりだ。
だが、一つ心残りがあるとすれば、彼女の事だった。

目を離す事の出来ない後輩。
彼女は仕事ぶりはそこそこしっかりしていたが、自分の事になると二の次になるのか、仕事を押し付けられたり、飲みの席でハラスメントの上司に絡まれることが多かった。
彼女に取りついていたモノを祓ってから、注視するようになったが、そうして知った彼女の一面に少しずつ引かれている自分に気が付いた。
勿論最初はただの気まぐれだと思っていた。
彼女の作るお弁当が、予想以上に自分の口に合っていて。
「長い髪の方が似合う」と言えば、律義に切らずに伸ばし続け。
一緒に残業をしてやれば、安心したように笑う顔を見て、心臓が跳ねた。

気まぐれではなくなった。
だが、気まぐれでなければならなかった。

彼女と過ごす日々の中で、自分の居場所がどこにあるのかを理解してしまった。
昨今の行方不明事件を見て、彼女が「こわいですね」と言った。
自分は少なくともその原因を知っているだけに、深くは答えることはなかったが、だが、思ってしまった。
彼女が”被害者”となった時、自分は死ぬほど後悔するのだろう、と。

自分の力が”あの人”に遠く及ばない事は学生時代で身をもって知った。
だけど、少なくとも彼女を脅威から遠ざける力くらいはあるつもりだった。
ならば自分のやるべきことは、ここで働くことではない。

彼女に生きてもらうために。

一度とり憑かれた人間は、呪霊に遭遇しやすい。
もう二度と彼女を危険な目に合わせないと誓った。

そうと決めたら、彼女には何も告げずに消える予定だった。
だけど、自分の前で酒に酔い、少なくとも自分の事を先輩として慕ってくれているだろう彼女を見ていたら、別れの言葉を告げたくなった。
忘れてくれればいい。だけど、忘れないで欲しい。
自分の中の矛盾する気持ちに振り回されたが、それも最後。
彼女を危険な目に合わせないために、自分は彼女に二度と接触しないつもりだった。
呪術師として生きていくということは、死と隣り合わせ。
彼女の傍にいれば、いつ何時彼女に危険な目に合うか分からない。

先輩として、彼女を慕う男として。
夢だと勘違いしている彼女に、最初で最後のキスをした。

そんな切なく甘い夢も数か月も前のこと。
任務に追われる毎日で、ふとした時にこうして彼女のことを考えてしまうのは、もう一生治らないかもしれない。
任務帰りの車の中、運転する伊地知君の背中から目を逸らし、ネオンが広がる街を眺めていた。
夜中だというのに人通りも多く、酒をあおった者、恋人と寄り添い歩く者、それぞれだった。
その中で一角。
一人の女性を見て、道行く人たちがぎょっとした顔で避けて歩く光景を見た。
どうやら女性は派手に泣きべそをかいているらしく、しきりに自分の顔面を拭いそして空を仰ぎながらまた泣いていた。
確かに避けて歩きたくなる人物ではあるだろう。
何故か、その人から目を逸らす事が出来なかった。
丁度車が赤信号で停止したのもあるだろう。
どこか放っておけない雰囲気のある、女性。

「……停めて下さい」
「は?」

泣きながら歩く女性が、自身の髪を耳に掛けた。
ちらりと見えた横顔は、見間違いでなければ何度も夢見た女性のもので。
脳が理解する前に、反射的に口から言葉が飛び出していた。

「停めてって、今赤信号ですよ」
「ああ、そうでしたね。では」
「……え?」

伊地知君が何をバカな事を、と言うような声で目の前の信号機を指さした。
そうしている間に私は車のドアを開けて、外へ飛び出した。
伊地知君は私が外に出た事に大変驚いたようで、ぎょっとした顔で振り返っていた。

ただもう私の目には、伊地知君ではなく、泣きながら歩く彼女、苗字さんのことしか映っていなかった。

車から飛び出すと、そのまま無我夢中で彼女に追いつき、彼女の細腕を掴んだ。
後ろにゆっくり倒れそうになる彼女の肩を支え、そして目が合う。


「七海、さん?」


久しぶりに聞いた彼女の声。
じわりと胸の中に何かが染み渡るような気がした。
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