「七海、さん?」

私の身体を支えてくれた男性を一目見て、そう言っていた。
見慣れない柄のネクタイに白いスーツ。そして、見た事もない眼鏡をかけた男の人は、どう見ても私の前から姿を消した七海さんだった。
走ってきたのだろうか、少し呼吸が乱れていたけれど私の肩に乗っていた手をぱっと放して、慌てて一歩分距離を取った。

「人違いです」

いやそんなわけあるか。
眼鏡の中心を指で押さえ上げると、七海さんはわざとらしく視線を逸らした。
確かに同じ会社に勤めていた時とは風貌とは少し違うけれど、それでもその声はどう聴いても七海さんのものだ。
あと、その髪色と高身長が他人の空似でいるわけない。
反論するように「嘘、七海さん」と泣きべそ交じりの声が出た。

「違います」

私が名前を呼ぶとまた一歩後ろへ下がる七海さん。
もしかして、ふざけてらっしゃる?
意味が分からない、だってどう見ても七海さんだし、明らかに私を知っている様子だったじゃないか。
涙を拭うこともせず、まるで壊れたラジオのように「七海さん」と呼ぶと、その度に七海さんは一歩下がる。
さすがに私も気づいた。七海さんが私を避けようとしていることに。
でも、それでも私は七海さんに会いたかった。
ずっとずっとずっと。その影を忘れようとしても、頭の片隅にずっと七海さんがいた。

「…っ、では、私はこれで」

そう言って、七海さんはくるりと身体を翻し、そのまま来た道を戻ろうとする。
その姿に私はもう涙が止まらなかった。
ヒールだというのに、慌てて背中を向ける七海さんに駆け寄り、背中の服をぎゅっと摘まむ。
振り払われることは分かっていたけれど、離す気はなかった。

「嘘だぁ、七海さん、だもん」

ぶえええん、とまるで子供のように情けない姿で泣く私を、七海さんは振り払わなかった。
道行く人が私達(主に私)を見てさっきよりも避けて道を歩いていく。
そんなもの、もうどうでもいい。だって目の前に本物の七海さんがいる。
ずっと焦がれていた七海さんが。嫌われたっていい。それでも、せめて訳を話して欲しい。
どうしてキスをしたのか、どうしていなくなったのか、どうしてまた私を見つけたのか。

七海さんは私のきしょく悪い泣き声を聞いて、はあ、と重めの溜息を吐き、仕方ない素振りで振り返る。
また突然逃げようとされても困るので、私は両手で七海さんの服を掴んだままだ。
眼鏡の奥の七海さんの目は、残業してバカやってる私を見る目と同じだった。

「この場合は、私が泣かせた事になるんでしょうか」

額に手を当てて、また同じように溜息を吐く七海さん。
同意する代わりにぎゅっと強く服を掴んだ。
七海さんはその手をじっと見つめ、私の手首にそっと自身の手を添える。

「そんなに握らなくても、もう逃げませんよ」

子供をあやす様な、優しい語り口だった。
私に手を優しく解き、そして解いた手を七海さんの大きな手が包む。
相変わらず涙は止まらないけれど、ポカンとした顔でそれを見ていた私を七海さんがそのまま引いて歩いた。

「こんな人通りの多い所では、流石に」

すたすたと歩く七海さん。
後ろを歩く私と七海さんの間の手は優しく握られている。
どうやらもう逃げるつもりはないようだ。
握られた手をずっと見つめつつ、目的地に到着するまで私はずっと泣きっぱなしだった。


◇◇◇


到着したのは、人っ子一人いない深夜の公園だった。
遊具の少ないベンチが数個あるだけの、貧相な公園。
そこの一番奥にあるベンチに私を優しく座らせると、その隣に七海さんも腰かけた。

手はまだ繋がれたままだ。

手と七海さんを交互に見ても、七海さんは何も言わない。
とは言え、私も何を言っていいか分からないので、七海さんが話し出すのを待っていた。
暫くそうしていたら、長い沈黙を七海さんが破る。

「何故、泣いていたんですか」

あ、その話から? と思わず力が抜けそうになった。
何故と言われれば、それは全部「貴方の所為」としか言えないんだけれど。
ここは正直に言っていいのか、どうなのか。言えば確実に困らせることになるだろう。

「……合コンに行った帰りで、見事に惨敗して」

半分正解、半分嘘。
合コンに行ったのは本当だけど、惨敗したというより私にその気がなかった。
頭の中の七海さんを忘れようとしたけど、どうしても忘れられなくて結局、思い出してぐずぐず泣いて歩いていたのだ。
深くは述べなかったけれど、七海さんの表情が分かりやすく歪んだのが分かった。
そんな馬鹿みたいな理由で泣いていたのかと、呆れられているかもしれない。

「気になる男性が居たんですか」
「……いますよ」

ずっと、ずっと。
頭の中から消えない、男の人。
知らず知らずのうちに好きになって、知らず知らずのうちに私の前から消えた。

「そうですか」

七海さんの平坦な低い声。
何を考えているのか分からない。
それでもその声をずっと聞いていたいと思った。
長い間ずっと。

「…髪も伸びましたね」
「そうですね」

私の髪に視線を移した七海さん。
最後に別れた時から、私の髪は一切切っていない。
鬱陶しいと思った時もあったけど、切ることはできなかった。

「その人が、」
「はい?」

「その人が、長い髪の方が似合うと言ったので」

ぽつりと誰もいない遊具の方を見ながら言う。
これは本当。七海さんがそう言ったから、切らなかった。
切らなければ、いつか七海さんと会える気がしていたから。

七海さんの息を飲む声が僅かに聞こえた気がした。

「……でも、もう切っちゃおうかなって思ってたんです。いつまでも忘れられないのもつらくて」

これも本当。
願掛けのように無謀な願いをずっと髪に込めるのは、残された私にはただただつらい。
いい加減自分の幸せを考えないと本当にお嫁にいけなくなると思ったのも事実。

「だから、合コンに行って、いい人がいればいいなって思ったんです。……その人よりもいい人なんていませんでしたけど」

だって、私のお弁当を美味しいと言ってくれたのは、七海さんだけ。
私の世話を焼いてくれたのも、七海さんだけ。
それ以上の人なんているわけがない。

「でも、最後に会えてよかったです。会社も最初は大変でしたけど、なんとかなっていますし。私も気持ちの切り替えが出来ます」

七海さんの目を見つめて、私は泣き顔のままぎこちなく笑う。


「お元気で」


そう言うと、やっぱりボロボロと涙が零れてきてしまって。
目の前の七海さんが涙で歪んでいく。
それでも私は目に焼き付ける様に七海さんを見つめた。
これで、本当に最後だ。私の、好きな人。

すると、私の目の縁をそっと七海さんの人差し指が拭う。
ほんの少し視界がクリアになって、驚いて七海さんを見た。

七海さんは、目を細めて私を見ていた。

「切らないで下さい」
「…は?」
「その髪、ずっとそのままにして下さい」
「何言ってんですか」

これには流石に涙も一瞬引っ込んだ。
私に七海さんの気持ちを残したままでいろというのか、それは酷な話だ。
少し怒りも含んだ声でそう言うと、七海さんの両手が伸びてきた。

そして、私の背中まで回して、ぎゅっと七海さんの方へ引き寄せられる。
完全に身動きが取れなくなった。

「あと、仕事も辞めてください。ずっと思っていましたが、あの仕事は割に合いませんし、教科書のようなブラック企業です」
「何でそんな事七海さんに決められなくちゃならないんですか」
「それから、これから毎日お弁当を作ってください」
「……え?」

なんとか抜け出そうとモゾモゾ動く私をがっちり捕まえたまま。
七海さんの穏やかな声が、私の耳を掠める。

「毎日全部食べます。だからお弁当を作ってください」
「だ、誰の」
「私のです」
「な、なんで…」
「あとは、今の家から引っ越してもらいます」
「へ?」

ポンポンと次から次へと命令される言葉に、流石に頭がついていかない。
混乱する私に七海さんは続けた。

「私の家に」

言われた言葉の意味を理解して、抵抗する力が抜けた。

「寝る時は同じ布団で」
「え、っと」
「朝ご飯はなるべく一緒に食べましょう。晩御飯は仕事の都合上、一緒にできるかわかりませんから」
「ななみ、さん」
「出張以外、毎日帰ってきます。毎日、ちゃんと話をしましょう。貴女と、名前さんと話したいことがあります」
「…な、な、名前」

なんだそれは。
段々と身体が熱を持っていく。
こんなまるでプロポーズみたいなことを言われているのは夢? それとも現実?
大混乱する私をよそに七海さんは、私の髪を撫ぜた。


「死ぬまで、ずっとそれを続けてください」


嫌ですか? と耳に囁くように言う七海さん。
どうして、なんで、なんて沢山の疑問が頭に浮かぶのに。
私の口は瞬間的に「二度と離れませんからね」と呟いていた。

もう、目の前から消えられるのは嫌だ。
だって私はどう頑張っても七海さん以外じゃ相手にならない。
七海さんじゃないとだめなのだ、私の七海さん。


「名前さん、貴女を愛しています」


抱きしめられた力が少し緩んで、そして私の顔に近づく七海さんの顔。
戸惑うように、ゆっくりと私の唇と啄んだ。
唇が離れて、七海さんの穏やかな目が私を射抜く。

「…私には言ってくれないんですか」
「七海さん、まずそれよりも勝手に消えた事を謝ってください」
「申し訳御座いませんでした。謝りましたので、次は貴女です」
「まるで自分が好かれている事が当然のような口ぶりですね?」
「違いますか?」


「いいえ、違いません。愛してます、七海さん」


そう言って私は七海さんを抱きしめ返した。


モノクロだった世界が、七色に色づいた。
おわり


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