「なんか変な夢を見るんだよねぇ」

同期の女性と自販機の前にいる彼女の声を聞いて、自然に視線がそちらに向いた。
コーヒーを買いに自販機に寄っただけだったので、特に気にも留めないつもりだったが、彼女の後頭部にちらりと見えた影を見て、眉間に皺が寄った。

「疲れてんじゃないの?」
「疲れていたらむしろ夢とか見ないんじゃない?」
「あ、そっか」

首をぐるんと回して彼女、苗字名前さんははあ、と小さく溜息を吐く。
それを見て同時の女性は心配そうに声を上げた。
確かにすれ違いざまに見るだけでも、以前よりも顔色が悪い気がする。

……面倒な。
彼女の後頭部に張り付いているのは、少々処理するのが面倒な小童。
すれ違いざまに処理してもいいのだが、その場合確実に彼女と目の前に立つ女性に不審がられるだろう。
今の段階では悪夢を見る程度に収まっているのなら、大したことはないだろうが、巣食う時間が長ければ長いほど悪化していく。
命の危険も感じるほどに。

だが、それを処理する気は起きなかった。
何故私が、という気持ちが先行し、何事もなかったかのようにコーヒーを片手にデスクに向かった。
このまま放っておけばもっと面倒になることは分かってはいたが、その類から一線を引いた身。
自然に任せておくに限る。
それが、彼女の運命なのだろう。

数日経てばそんな事があったことすら、綺麗に頭から抜け落ちていた。
業務上、外に出ている事が多い自分が、彼女に会う機会が無いことも原因の一つだ。
正直興味が無かった。

そう、それまでは。


「あ、おはようございます、七海さん」

昼から外に出るために、それまでに書類作成をしようと、いつもより早めに出勤した日。
きっと誰もいないだろうと、オフィスの扉を開けた先にポツンと立っていたのは、彼女だった。
彼女は、自分の席ではない場所に立ち、手元にある白い雑巾を片手にこちらに会釈をした。
一瞬何をしているのか理解が出来なかった。
挨拶を終えると彼女はそのまま雑巾を持つ手をせっせと動かし、目の前のデスクを拭き上げていく。
それを横目に自分のデスクの前にやってくると、自分のデスクも今彼女が拭いたデスクのように埃一つない状態だった。

「何をしているんですか」

話しかけるつもりはなかった。
オフィスには彼女と私だけ。
いつものように自分の世界に籠っていればいいと思っていたのに。
何故か声に出ていた。
苗字さんは手を止めないで「お掃除です」と淡々と答える。
そんなもの見ればすぐにわかる、と思ったが口には出さなかった。

デスクを拭く横顔を見ると、先日の自販機前に居た時よりもさらに顔色が悪かった。
きっと身体的に不調も出ている頃だ。
なのにも拘らず、彼女は他人のデスクを拭いている。
何を考えているのかさっぱりだった。

「そんな事をしているから、疲れが溜まっているんじゃないですか」
「…そうですよねぇ。自分でも分かっているんですけど、ここの人ってみんな無頓着だから気になっちゃって」

彼女とはこんなに会話を続けたのは初めてだった。
自称綺麗好きの彼女はやはり手を止めずに、私の問いに簡単に答える。
彼女の後頭部には先日よりも一回り大きな黒い影が見えた。
……まずいな。

「あ、でも七海さんの机の上は殆ど何もしていませんよ。十分綺麗です」
「そうは言っても、貴女が拭いてくれたのでしょう。ありがとうございます」
「いえいえ」

確かに同僚や上司のデスクと比べればまだ綺麗な状態を保てているはずだ。
それでも彼女がきれいに絞った雑巾で拭き上げた事には変わりはないのだが。
青い顔でゆらゆらと身体を揺らし、机を拭く彼女を見て、先日までの自分の気持ちが揺れる。

「…苗字さん」
「はい、なんですか」
「髪が緩いですよ」
「…髪?」

ハーフアップされた、長い髪。
そのゴムの隙間から少々髪の毛が飛び出していた。
それを指摘すると、苗字さんは「あ、ほんとだ」と言いながら、いつの間に出したのかコンパクトで自分の髪をチェックする。
自然な動作でそのままゴムを取り、結び直そうとするその姿を見て、声を上げた。

「結びましょうか」

普段なら、絶対に言わない。
だが、これしかないと考えた結果、そう口にしていた。
苗字さんは一瞬ポカン、と動作を止めたけれど、深い意味を考えずに「えーいいんですかー」と簡単に答える。
案外頭の出来は良くないらしい。
それが今回は助かるのだけれど。

「お願いします。七海さんっていつも髪綺麗にしてますもんね。女性の髪弄るの得意ですか?」
「意味が分かりません」

私の前に来た彼女はくるりと身体を回転させて、自分の髪を私に差し出した。
私は、髪をひと束手に取って、彼女に気づかれないように後頭部に巣食う影を滅する。
ジュ、と燃えるような音が聞こえ、そして何食わぬ顔で彼女の髪を結び直した。

「ありがとうございます」

髪が綺麗にセットされた事を確認した彼女は、また雑巾でデスクを拭く動作に戻る。
横顔を見る限り、少しずつ頬に血が巡っていることが確認できた。
これで、ひとまず問題はないでしょう。

自分でも不思議だった。
何故、一度は見捨てたはずなのに、彼女を延命させるようなことをしたのか。

お互いその時はそれ以上言葉を交わすことなく。
彼女もまた自分の身に何が起きたのか気づく事はなかった。
ただ、それ以降、自然と彼女を追うように視線をやるようになってしまった。

……放っておけない。
そう言う意味では彼女は小動物と同じようなものなのだと、無理やり自分を納得させた。
03


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