あの七海さんが、今何と言った…?
現実逃避のため、幻聴だとか頭に思い浮かんだけれど、周りの人も私と同じように目を丸くしていたので、そうではない事を悟った。
ドクドクと心臓の音が聞こえる。
お酒を飲んでいる所為もあるんだろうけど、勿論それだけが原因なんかじゃない。
静まり返ったテーブルに、先輩が驚きながら口を開いた。

「な、七海にもそういう人が居たんだな」
「まあ」

冗談です、という一言を期待していたのに。
残念な事に七海さんは肯定はしたけれど、否定はしなかった。
七海さんが軽い冗談を言う人じゃない事は、ここ最近の付き合いで良く知っている。
という事はつまり、七海さんにも意中の女性がいるということ。
指先がまるで氷に触れたように冷えていくのを感じた。
動揺しているのが七海さんにバレたくなくて、私は隠すようにビールを一杯仰ぐように飲んだ。

「飲みすぎでは」
「…そんな事ないです」

心配そうに七海さんが言うけれど、こちらはそれどころではないのだ。
ズキンズキンと痛む心臓の理由を知らないほど、若くはない。
気になっていた男性には気になる人がいる。残念な事に私の淡い恋はここで終わりを告げた。
私はもう子供じゃない。失恋したからと言って、この場でぐずぐず泣くような真似はできない。
ただひたすら気を紛らわせるために、目の前の液体を飲み込むだけ。

私がどんどんジョッキを開けていく間に、先輩たちは七海さんに相手の情報を聞き出そうとしていたけれど、七海さんはそれから頑なに口を開く事はなかった。

…七海さんのばか。
気になる人がいるなら、何で私のお弁当を食べたんだ。
何で、勘違いするようなことを言ったんだ。



◇◇◇


「ななみさぁん、あなたはぁ、酷い人ですねぇ」
「酷い酔い方をしているのは苗字さんの方ですが」


ふわふわしている。
私が浮いているのかと思ったけど、そうではなくて。
あんまり頭は回らないけど、きっと夢の中だろう。
だってそうじゃなきゃ、私が七海さんにおぶってもらっているはずがないもの。

背中ごしに聞こえた声は少しだけ不機嫌そうだった。
でも私の方が気持ちは沈んでいるんだ。それもこれも、

「ななみさんの所為ですよ…ばかばか」
「暴れないでください。落としますよ」
「ななみさんはそんな酷い人じゃないですぅ〜」
「…苗字さん、数十秒前の発言覚えてますか」

七海さんの背中を力の入らない手でぽかぽか叩いてみると、七海さんは溜息を吐いたけれど、私を落とすことはなかった。
やっぱり夢の中とはいえ、七海さんは優しい。
私のお弁当を美味しいと言っていつも残さず食べてくれて、髪を伸ばした方が似合うと言ってくれて。
それなのに、七海さんの瞳に映るのは私じゃないなんて。
こんなの今思い出すだけで泣きそうになる。
その場で泣かなかっただけ、ほんとよく我慢したと思う。

「夢なら、何言っても許されますよねぇ?」
「……内容によります」

夢の中ならば、現実の七海さんに言えない事を言っても許されるだろう。
だって今日の七海さんは本当に酷い。
これですっぽり諦めるためにも、思っている事をすべてぶち撒けてもいいだろう。
だってこれは、夢だもの。
気になる人がいる七海さんは、私なんかを背負ったりしないもの。

「ねえ、ななみさん」
「何ですか」
「どんな人なんですか、気になる人って」
「……何を唐突に」
「唐突じゃないです」

だって、ずっと考えてる。
夢の中なのに、ずっと頭の中は七海さんの事でいっぱいで。
悲しいのとつらいのがぐるぐるで、もう訳が分からない。
七海さんの隣に立つ女性はどんな人なんだろうって、どうしてそれは私じゃないんだろうって。
七海さんが選んだ人ならきっと凄くいい人で、お似合いなんだろうなって。
いつも一緒にお弁当を食べるなら、もっと早く気持ちを伝えておけばよかったって。
ずーっとずっと考えてる。

「どうせ、ななみさんのことだから、めちゃくちゃ大切にするんですよねぇ? もうほんと意味わかんない」
「貴女の言っている意味の方が良く分かりません」
「何でわかんないんですか、ななみさん!」
「……やっぱり飲みすぎでは」
「お酒飲まないとやってられんですよ!」

七海さんのあほー、と背中に吠えた。
やっぱり七海さんは溜息を吐いていた。
酷い人だ。本当に。なんでもっと早く突き放してくれなかったの。
そうすればこんな風に嘆く事もなかったのに。
でも、まあ…夢だから、いっかぁ。

「…苗字さん」
「なんですかぁ、観念して白状する気になりましたかぁ!?」
「貴女には言っておきます」
「……なんですか」

七海さんの顔は見えないけど、さっきまでの溜息交じりの呆れた声とは違った真面目なトーンで。
夢の中でとうとう私は振られるのか、と息を飲んだ。
だから、最後の私の声は弱弱しく震えていた。
こわい。七海さんに言われるのが。
明日から、一緒にご飯を食べられなくなるのが。

そんな小さな小さな願いについて、頭が痛くなるほど考えていたら、七海さんは予想外の言葉を残す。


「私は、もうすぐ消えます」


振られると思っていた。
けど、それは違った。
でもそれは、振られた方がマシだと思うくらい酷い言葉だ。

「消えるってどういうことですかぁ? 私の夢の中からいなくなるってことですかぁ」
「貴女は…さっさと酔いを醒ましなさい」
「だって、言っている意味わからんです」
「言葉通りです。明日から私はいません。もう二度と会う事もないでしょう」
「……は?」

淡々と、まるでいつもの仕事の話をするように七海さんは言う。

「貴女には最後に言っておこうと思いまして」
「なんでですか」
「……」

背中に問いかけても、七海さんは説明をしなかった。
そして気が付けば、深夜の誰もいない公園へと入っていく。
小さな小さなベンチに私を下ろして、隣に七海さんが座る。
お酒のせいだけじゃないこの瞳を潤みは、もうそろそろ決壊しそうだった。
だって、今日は酷い日だ。
七海さんに好きな人がいると判明して、それから明日から七海さんがいなくなるとか。
これが夢じゃなかったら、本当に泣きわめいていた。

「いくら夢の中の七海さんだからといって、ゆるさないです」
「許さなくてもいいです」

七海さんは、そう言って私の髪をひと束掬った。
どんな表情をしているのか、見るのがこわかったけれど、これが最後になるなんて嫌だったから泣きそうになりながらも頑張って顔を上げた。


「許さないで、ずっと私を覚えていて下さい」


七海さんは笑っていた。
それは今まで見たどんな笑みよりも、悲しく、苦しそうだった。

「な…」

七海さん、と続くはずだった言葉は、七海さんの唇によって塞がれて。
まるでこの世界に私と七海さんだけになったような、そんな感覚に陥った。

驚いて抵抗しようとしたけれど、私の手はすとんと膝の上に落ちた。

夢の中くらい、七海さんに触れたい。
きっと、これが本当に最後だろうから。

私は涙を流しながら、身をゆだねるように瞼を閉じた。
08


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