目が覚めたら、私は自室のベッドの上だった。
いつの間にか陽が昇っていて、ベッド脇の時計を確認するといつもの起きる時間だった。
ゆらりと上半身を起こしたら、僅かに頭に痛みが走る。
昨日はとんでもなく飲んでしまったらしい。
二日酔いなんて、本当に勘弁してほしい。
そうは思うが、私にしてはいい夢を見たので、まあ良しとしよう。
昨晩の飲みの席では七海さんに気になる人がいるという事実を知ってしまったが、まだ恋人ではないのだし。
むしろ夢の中でキスをしてしまった私の方が進んでいる、と勝手に思い込むことにした。
自分の唇に指でそっと触れてみた。
夢の中なのに、とてもリアルな感触。
恥ずかしい記憶だけが鮮明に残っていた。

「…お弁当つくろ」

これ以上七海さんの事を考えれば、完全に遅刻してしまう。
私はまだ寝ていたかったけれど、自分と七海さんのお弁当を作るため、布団から抜け出した。
いつものように七海さんの好きそうな具を入れて、最後にそれらをまとめて巾着へ。
二人分のお弁当を持ち、会社へと急いだ。
その時、私は忘れていた。
昨晩の夢で七海さんが話していた内容を。

会社に着くと、忙しい七海さんなら既に来ているだろうと思っていた。
だけど、珍しく七海さんはいなくて、代わりに同じ部署の先輩後輩たちがざわめきながら、七海さんの机の周りをうろうろしている。
まあ、私には関係ないことだと思い、そのまま自分の席に着席した。
机の下には、いつでも七海さんに渡せるようにお弁当を置いた。
思わずそれを見てほくそ笑んでいると、一人の後輩が焦った顔で私に声を掛けてくる。

「苗字さん、昨日の飲み会の後って七海さんと一緒でした?」
「昨日? どうだっだっけ、飲みすぎて覚えてないや。……何かあった?」
「昨日二次会に参加されなかったのは、苗字さんと七海さんだけなので、一緒だったのかなと。あの七海さんが無断欠勤しているらしくて、皆で連絡しているんですけど繋がらないんです」
「……無断、欠勤?」

後輩の顔色は血の気が引いていた。
とても嘘を言っている様子はない。
私達の話している後ろの方で、上司が苛立ちながらどこかへ電話している。
それも繋がらなかったらしく、大きな舌打ちを零しながら電話を切っていた。
ドクン、ドクンと心臓が妙に脈打っている。

『私は、もうすぐ消えます』

あれ、夢の中の七海さんは確か、そんなことを言っていなかっただろうか。
凄く寂しそうな顔で、別れを惜しむ様な。

途端に私は立ち上がり、後輩を押しのけて七海さんの机の引き出しを開けていく。
そのほとんどが空っぽになっていた。
だけど一つだけ、引き出しに大量の資料が収納されていた。
それは、七海さんの受け持っていた業務の引継ぎマニュアルだった。
ご丁寧にPCの中にまでデジタルデータとして保存されていた。

それを見て確信した。
七海さんは、本当に消えたのだと。
普通なら事故にでも巻き込まれたかなんかだと心配するところだろうが、七海さんなら最後にマニュアルを残して周りが困らない様に最低限残していくことが予想された。
という事は、だ。
本当の本当に、七海さんは消えた。

大量のマニュアルを引き出しから机の上に引っ張り出すと、それを見た上司が絶望の顔色へ変化する。
七海さんがこの会社に戻ってこないことを、理解したのだろう。
そして、私は見つけた。
マニュアルを引っ張り出した後の引き出しに、小さなポストイットが残されている事に。
誰もがマニュアルに気を取られて、そのメモに気づかない。
私は誰も気づかない間にそのメモをさっとポケットへ移し、さっさとトイレへ逃げ込んだ。
トイレの個室に入って、鍵を閉めたあと、慌ててポケットのポストイットを取り出し、ゆっくり中身を確認する。

誰宛なのかも分からない。
そこには一言だけ。


『忘れて下さい』


紛れもない七海さんの達筆な字が、そこにあった。

「…嘘つき」

ポストイットの字がいつの間にか零れた涙で歪んでいく。
ポタ、ポタ、と紙に落ちる雫。

だって、夢の中では忘れるなと言っていたじゃないか。
…いや、あれは夢なんかじゃない。
きっと昨晩、飲み会の後、七海さんは私にお別れを言ったのだ。
最後の、お別れを。

「どうして」

何で何も言ってくれなかったんだろう。
いつも一緒にいたのに。嫌われていないと思っていたのに。
思えば私は七海さんの事、よく知らない。
いつも何を考えているのか。

「何で、」

あれが最後だと言うのなら、どうしてキスをしたんですか。

私の事、どう思っていたんですか。

聞きたいことは沢山あるのに、もう何一つ聞くことができない。
お弁当を作っても、もう二度と食べてくれない。
残業をしても、付き合って貰えない。

もう、会えない。

「七海さん」

貴方に伝えたい事があったんです。


◇◇◇


本当に七海さんはあれから出勤することはなかった。
最初は混乱していた社内だったけれど、それも七海さんのマニュアルのお陰で、すぐに鎮火した。
最後まで何故七海さんがあんな辞め方をしたのか、誰もわからなかったから、暫くは噂の的であったけれど。
曰く、社内の女性を妊娠させて逃げたとか。
曰く、犯罪に手を染めて、国外逃亡したとか。
曰く、ムショに入ったとか。

どれもこれも事実であるはずがないけれど、噂だけが流れた。

私は、七海さんが居なくなってからも変わらず会社に居た。
でもお昼になれば自分のお弁当を持って、会社横の公園へ行き、お昼休みが終わるまでそこで過ごした。
もしかしたら、七海さんが現れるんじゃないかという小さな希望が捨てきれないからだ。
でも、何日も、何か月も経っても七海さんは現れなかった。

私の髪は胸のあたりまですっかり伸びてしまっていた。


数か月経っても未練たらたらの私の気持ちは一切変わることなんてなくて。
恋人の片りんすら見られない私を、友達が無理やり合コンへ連れ出した。
最初は抵抗したけれど、よくよく考えれば男の人と仲良くなれるチャンスだし、悪い人は連れてこないと言っていたから、もしかしたら本当に恋人ができるかもしれない。
ここ数か月の腐っていた事を思えば、ここで心機一転して新たに恋人を作って、七海さんをすっかり過去の人にしてしまってもいい気がする。
そうじゃん、そうすればいいじゃん。
何か楽しい事でもあれば、きっと七海さんのことなんて

「簡単に忘れられると思ったのに」

数時間前の合コンを思い出しながら、私はトボトボとネオン街を歩く。
はあ、と溜息を吐いたところで、自分の失態を無かったことには出来ない。
折角オシャレをしても、いざ目の前に行くと全く心は揺れないし、興味もわかなかった。
それだけじゃなくて、目の前の男の人達を見ながら、どうしても頭の中にある七海さんと比べてしまう。
結局のところ、私は忘れることなど出来ないのだ。

「酷い人だよ、七海さんは」

この数か月で何度呟いたか分からない言葉を吐いて、私は誰も歩いていない夜道を歩く。
思わせぶりな態度をした上、最後に唇まで奪っておきながら、自分は綺麗に消えるなんて。
しかも忘れろ、というメッセージ付きである。

「…会いたい」

忘れる事なんて、出来るはずがないのだ。
私の心の中にいつまでも居据わる彼の背中を思い出し、私はパチンと自分の頬を軽く叩いた。
いつまでも夢見る夢子でいるわけにはいかない、そんな年齢でもない。

「でも、もう少しだけ、」

まだもう少しだけ、七海さんの事を考えていたい。
きっと何年も経てば、きれいさっぱり忘れることが出来るかもしれない。
だとすれば、今この時くらい、七海さんへの未練を断ち切るためにも、七海さんの事ばかり考えていても許されるだろう。

その時は、この伸ばしていた髪もばっさり切ってしまおう。

自分の髪を耳に掛けながら、私はくすりと笑った。
09


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