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そりゃ仕事中はずっと理不尽に怒鳴る上司の事を何度も呪ったし、出来る事なら明日から島流しにでもあってほしいとか、急に上司の交通機関が全部何かの事故で動かなくなって、出勤できなくなって欲しいとか、そんなささやかな事をずーっと願っていたけれど、別にそれ以上の事をお願いした覚えはないし、現実離れした体験をしたいとも考えたことない。

例えば、自分の家の前で人が血を流して倒れてる、とか。

目の前の光景が目に入った時、あまりの惨状に私は一瞬意識を飛ばしてしまったらしい。
この場で本当にどうでもいい事が頭を過ったけれど、今はそれどころではなかった。
終電帰りでくたくたの足とは思えないスピードで、倒れているその人に近づき、慌ててその人の首筋に手を伸ばした。
手に伝わる僅かな振動で、その人が生きていることは分かったけれど、本当に生きているのかと問いたくなるくらい酷い怪我だ。
その人の髪は頭から噴き出た血でべっとりだし、肩からお腹にかけて服も血で染まっていた。
ズタボロの衣服の隙間から見えた傷は、勿論軽傷なんかでは済まされない。
真っ黒い服の上に着ていた明るい色の羽織もまた、血で汚れている。

この状況を見て、冷静に判断できる人がいるとするならば、それはきっと医療従事者としか考えられない。
残念な事に私は医療従事者でもなく、ただのしがないOLでしかないが、こんな時どうすればいいのか、嫌でも知っている。

「きゅ、救急車…っ」

119だか110だか忘れたが、二分の一の確率で電話すれば、この人を病院に運べるだろう。
震える手でポケットのスマホを取り出し、緊急電話をしようと試みた。
私の手もまた、倒れた人の血で汚れていた。

血で手が滑り、つるんとスマホが宙を浮いた。

いやまさかそんなわけ。
人は焦っている時ほど、ミスをしやすい。
そんな事、仕事で嫌というほど知っていたのに。

スローモーションのように落下していくスマホを見ながら、慌てて空中でキャッチしようとしたけれど、私の反射神経は本当に残念だった。
スカ、と空気を掴んだその時、スマホが地面にぶつかって何かが割れる音とそれが散らばる音が聞こえた。

「私の、スマホ!」

落ちたスマホを拾い上げようとして、何故か足が先に出てしまい、トドメとばかりにスマホを蹴り上げてしまう。
スマホは隣家の塀にぶち当たって、悲しく落下した。
やっと私の手で持ち上げた時、既にスマホは息をしていなかった。

「…嘘でしょ!?」

こんな非常時に何てこと…!?
ともかく、救急車が呼べないなら、隣家のお宅に鬼ピンポンでもして、救急車を呼んで貰おう。
近所迷惑な時間ではあるが、人命には代えられない。
隣家のインターフォンのボタンに触れようとした時、また私は足元の何かを蹴り上げた。
またスマホを蹴ったのかと足元を確認した時。
足元に転がる金属の棒状のものを見て、肝が冷えた。

ひゅ、と喉に空気が通ったけれど、声にならない。
足元に転がるそれは、どっからどう見ても日本刀とか呼ばれるそれで、鞘から少し顔を出している刀身に、べったり付いているのは、血ではないか?

「ひ、ひぃっ」

インターフォンを押す事なんてもうどうでも良くなった。
腰が抜けて地面へお尻をつけてしまったけれど、視線を逸らすことはできなかった。
月明かりに反射する金属の刃。
レプリカかコスプレグッズだろう、とどこかで考えるも、偽物とは思えないくらいの重量、そして僅かに香る生臭いにおい。
紛れもない、本物の血の臭い。

サーッと血の気がどんどん引いていく。
もしかしてヤの属性の人? それならなんでこんな住宅街で倒れているの!?
いやそれよりも、コンクリートの上に水溜まりになっている出血を見て、更に悲鳴を上げた。
よく見れば顔色が先程よりも悪い気がする。
まずいまずい、このままにしておいたら確実にこの人は死ぬ。
でも、救急車だの警察だのを呼んだところで、その瞬間この人はタイーホ。
……まあ、本当にヤの人ならそうしてもらうのが一番なんだけど。

「……げ、ろ」
「へ?」

まるで消え入りそうな声が僅かに聞こえて。
私は恐る恐るその人に近寄る。
確かに何か喋っている。口が僅かにパクパクと動いていた。
良く聞こえないので、耳を澄ませて集中して聞いてみる。

「俺から、離れ、ろ。君を、巻き込んで、しまう」

身体は今にも死んでしまいそうなのに。
なのに、私を気遣うその言葉はとても芯が通った強い言葉で。
私が彼を助ける事で被る迷惑を案じているのだろうか。

そんなことを言われたら、さっきまでヒイヒイと恐怖していた気持ちは、いつの間にかどこかへ行ってしまった。


「…私の家の前で倒れた事に感謝してほしいです、ね!」


これだけ出血している人を動かしていいはずはないけれど、あと数メートル動くだけで、壁と天井とふかふかベッドとお布団のある家があるのだ。
少しの我慢だ、と私は自分のスーツが汚れる事も厭わないで、彼の身体の隙間に手を入れてなんとか自分の肩に腕を回す。
そして、渾身の力でゆっくりと立ち上がる。

「ぐぐ、ぐ、ぐ」

よくよく考えれば。
きっとその時、彼は僅かに意識があったのだろう。
それでなければ、20歳短大卒OLの力で成人男性を担ぐことなど出来なかった。
一歩歩く事に身体の芯から深呼吸をし、何とか家のドアを開けて玄関へとなだれ込む。
そして廊下をほとんど引きずるようにして彼を移動させ、やっとこさ、リビングの床に連れてくることが出来た。
流石にベッドへ寝かせる力は残っていなかったので、その場でボロボロの服を脱がせ、大急ぎで風呂とリビングを行ったり来たりして彼の身体を洗浄・消毒をした。

「あれ?」

彼の上半身を脱がした時、傷を確認して私は首を傾げる。
外で見た時よりも、傷口が…。
さっきは血が溢れまくっていたのに、今はすっかり止まっていて。
どこからも出血などしていなかった。
だけど、肩からお腹にかけてある一本の傷は、鋭い刃物のようなもので斬られたようで、傷口は深かった。

傷口は深いのに、血が止まるなんて。
不思議なこともあるものだ。でもそのおかげで、救急車を呼ばずとも何とかなりそうだ。
家にいつからあったのか分からない包帯を見つけて、無いよりマシだろうとそれをぐるぐると身体に巻いていく。
そうしてなんとかその人の手当てが完了した時には、既に日が昇ろうとしていた。

見つけた時とは比べ物にならないくらい、静かに呼吸する彼をみて、やっと安堵の息が漏れた。
そこでやっと私は自分の服を見直したが、とりあえずブラウスはそのまま捨てたほうがいい事だけはすぐに理解した。

「あ、そうだ」

彼を助ける事に夢中で忘れていた。
私は廊下に伸びた血痕を雑巾で拭きとりながらパンプスを履き、家の前に転がる見るも無残な姿となったスマホと、その傍らに落ちていた刀を手に取った。

「おっも」

どう考えても金属のそれだ。
しかも使い古されたような使用感ある外観。
個性的な炎のような鍔がついている。


朝の散歩に出るじいさんたちに見つかる前に、私はそれを小脇に抱えて家に戻った。


まだその時の私は、彼がどこからやってきたのかなんて知るはずもなく。
ただただ、ご臨終となったスマホと刀を見て、盛大に溜息を吐いた。

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