名前から俺の住んでいた時代の事を知りたいと言われた時、正直嬉しく思った。
この時代は大正の世とは比べ物にならないくらい豊かであるし、自由だ。
何より、鬼がいない。
そんな世の中で生きている名前から知りたいと言われたら、まるで自分の事を知りたいと言われたようだった。
名前と色々話している内に婚約者の話に移り、「煉獄さん、婚約者さんとかいたんじゃないですか?」なんて言われた時は、口の中の水分が全て外に噴出してしまった。
確かにあの時代で婚約者がいるものは少なくない。
勿論、見合い等ですぐに添い遂げる者を見つける者もいるが。
何故か名前に指摘された事で酷く動揺してしまった。
俺には責務があるから、婚約者や恋人に現を抜かしている余裕はなかったが、それを口に出すのも何故か戸惑われた。
もし俺に婚約者がいると言えば、名前はどんな反応をするのか、なんて。
勿論そんなことはないのだが、俺は名前にどんな反応をしてほしいのだろうか。
興味が無さそうに「へぇ〜」と言われるのか。
それともそのつぶらな瞳から、大粒の涙を流して「嫌です」と言われるのか。
……後者は考えるだけで心臓が痛い。
そんな事を考えている間に、どうやら俺の反応から婚約者や恋人なんて居ないと思ったのだろう。
平然とした顔でその後の会話を続ける名前を見て、少し寂しく思う。
何故だ?
ふと、そんな疑問が浮かんだが、すぐにそんなことを考える余裕等無くなってしまった。
「じゃあ、煉獄さんも嫁は三人欲しいんですか?」
同僚の宇髄には嫁が三人いた事を思い出し、それを口にしたらこれだ。
当たり前だが、心に決めた人は一人で十分だ。三人もいる宇髄の気がしれない。
それを言う前に名前はしらーっとした顔をしつつ、目を細める。
ムキになって否定をすれば、自分の顔と名前の顔が想像以上に近かった。
触れることはなかったが、視線は名前の瞳に映る俺。
そして、そのみずみずしい唇にあった。
慌てて顔を逸らしたが、俺の心臓はまるで今にも爆発してしまうのではないかというくらい、跳ねている。
今まで名前の顔を見れないことなど無かった。
無かったのに、何故か今は意識してしまう。
こっそりもう一度名前の顔を見ると、僅かに頬が桃色に染まっているのを見て、電撃が走った。
何故かその時。
俺は名前を抱きしめたいと思った。
◇◇◇
今日も俺は名前が勤めから帰ってくる時を見計らい、家の外の大きな道で待っている。
俺がそこに立っているだけで、道歩く人たちは不審そうに見上げてくるが、声を掛けてくる者はほとんどいない。
たまに母親と手を繋いだ小さな子供が「おっきい」と俺を指さすので、応えるように手を振る。
そんな事をしていたら、道の向こう側から黒いカバンを肩から下げた名前が小走りで近づいてくる。
走ったら躓いてしまいそうな靴で器用に俺の元にやってくると、「ただいま、煉獄さん」と柔らかい声。
俺は名前の肩からカバンを預かり、同じように「おかえり」と返す。
どうやらその時、無意識に頬が緩んでいたらしく名前から「今日、何かいい事ありました?」と問われる。
別にこれといって特段何もないのだが、強いて言えば、ちょこちょことまるで小動物のように歩いてくる名前が可愛いと感じたくらいか。
それを口にしたら、目の前の名前はどんな反応を見せるだろうか。
「敬語を改めると言っていなかったか?」
「…あ。だって、まだ慣れないんです…もん」
俺と年が同じだと言った名前は、まず他人行儀な敬語を辞めると先日宣言していた。
が、長らく使っていた言葉は戻せないらしく、まだ俺に対しては砕けた物言いにはならない。
俺としてはどちらでもいいが、確かに丁寧な言葉よりも距離が近い気がして嬉しい。
「わからなくもない。が、もっと親しい仲のように接してほしいとは思う」
「親しい仲って、恋人みたいな、ですか?」
「…こ、恋人や…家族だろう?」
「なるほど」
では、家族のように接するのはどうすればいいですか。
なんて言われてしまって、今度は俺が困ってしまった。
家族。家族。
ふと頭に浮かんだ父や千寿郎。
二人と名前ではどう違いがあるのだろうか。
何かあれば心配であるし、守ってやりたいと思う事に違いはないハズなのに、何かが違う気がする。
「……『煉獄さん』と呼ぶのをやめてはどうだ?」
「確かに。苗字呼びは少し堅苦しいかも」
俺の苦し紛れの提案に、名前は少し考え込むようにしてコクコクと頷く。
そして、一泊置いてその可愛らしい笑顔を見せながら、
「杏寿郎さん?」と首を傾げる姿に、また俺の心臓が悲鳴を上げた。
「な、なんだ…?」
「何だって、杏寿郎さんが呼べって言ったのに」
「お、お、俺は…ただ『煉獄』と呼ばれるよりも、その方が嬉しいと思ったから…」
「嬉しいですか、杏寿郎さん」
俺の右手首を小さな指が摘まむ。
下から見上げるようなその顔が、目に焼き付いた。
考えるよりも先に答えていた。
「…ああ」
心の底から、そう思った。
少し照れた名前が「じゃあ、今度から杏寿郎さんって呼ぼ」と呟いたのを聞きつつ、俺は慌てて名前から視線を逸らした。
この前から心臓の様子がおかしいと思ってはいたが、名前を見ていたらどんどん症状が悪化している。
自分の口に手を当ててゆっくり深呼吸をしたが、調子は戻らない。
病気などまともにかかった覚えはないが、これは何かの病気の前兆だろうか。
それはまずいな、とかなんとか考えている間に、自分の片手にチクりと痺れたような感覚が走る。
棘でも刺さったかと思ったが、そうでもないらしい。
見た目からは手に変化はなかった。
が、ジンジンとまるで手から全脈打つような痺れが、一瞬俺の身体を襲う。
名前は気づかない。
俺は、不審に思いながらもう片方の手で摩ってみたが、その時には既に痺れは跡形もなく消え去っていた。
なんだったんだろうか。
気味の悪さを感じつつも、次の瞬間にはまた「杏寿郎くん」などと隣で揶揄う声が聞こえ、それどころではなくなってしまった。