「戻るんでしょ」
自分の声だというのに、こんなにも胸に響いて冷たくなっていくのは何でだろう。
言ってしまった後、どれだけ後悔しても遅い。
杏寿郎さんの表情が、今まで見た事ないくらい衝撃を受けていて、そして悲しそうに笑った。
何かが割れる音が耳に響いた。
「ああ、名前の言う通りだ。俺の居場所はここではない」
「…だよね」
ズキンズキン。
胸の痛み、そして形容し難い苦しさ。
今、酷い事を言っているのは私なのに、何故私が傷つくんだろうか。
なんてことを言ったんだ。
杏寿郎さんだって、好きでここにいるわけじゃないのに。
今すぐにでも家族の待つ時代へ戻りたいはずなのに。
何でこんな酷い事しか言えないんだろう。
嫌でも自分が杏寿郎さんと無関係の人間だとわかってしまった。
どう頑張っても同じ時代に生きる事の出来ない、二人。
いくら事実とは言え、八つ当たりのように杏寿郎さんに言うべきことではなかった。
一気に部屋の空気が悪くなって、二人とも沈黙してしまう。
さっきまで目を逸らすことなんて出来なかったのに、むしろ今では顔を見ることすら出来ない。
あまりに気まずすぎて、私はそそくさと部屋を出た。
杏寿郎さんが声を掛けようとしていた事は分かっていたけど、敢えて気づかない振りをした。
パタンと後ろ手に扉を閉めて、ぺたぺたと裸足で冷たい廊下を歩く。
そんなつもりはなかったのに、玄関のサンダルを履いて、玄関から外へ出た。
手にはスマホだけ。
数時間前にスーツを着て外に出ていたけど、その時よりも肌寒く感じる。
部屋着だけで外に出るのはバカだったかもしれない。
空が透き通っていて、月夜が綺麗に見える。
この月は杏寿郎さんの生きていた時代と同じ物だったなんて、なんか不思議な気持ち。
家を飛び出して、道なりに歩いていく。
深夜に差し掛かろうという時間。
勿論歩いている人間なんていない。
サンダルのペタペタ音。
車のエンジン音。
雑音の中に私だけのような、そんな気がして。
「謝らなきゃ」
もう少し落ち着いたら、きっとショックを受けている杏寿郎さんに謝らないといけない。
分かってるのに、分かってるのに。
「…なんで」
つーっと頬に一筋涙が伝う。
涙の流れた所だけ、夜風を感じることが出来た。
「なんで、私、この時代の人間なんだろう」
私が明治時代だか、大正時代だかの人間だったら、いつかくる別れに涙することもない。
何も考えずに杏寿郎さんに想いを伝えて、そしてずっと隣に居ることが出来る。
そんなの、この先の未来では絶対にありえない。
「杏寿郎さん、きょう、じゅ…」
涙で視界が見えづらくなった。
とうとう足もその場で止まってしまって、Tシャツの袖で涙を拭う。
「…あー…私は酷い女だ」
好きな人の幸せを願えない、最低な女。
◇◇◇
何と口にすればよかったんだろうか。
名前の言った通り、俺はいつまでもこの時代にいるわけにはいかない。
元の時代に戻り、愛する家族の元に、そして自分の責務を全うするために。
少し前の自分なら、こんなにも戸惑う事は無かった。
きっとどんな手段を取ったとしても、元の時代に戻る方法を探しただろう。
だけど、今はどうだ。
平和な日常と呼べる毎日を送り、考える事は彼女が今日も無事に帰ってくることばかり。
「…はっ…」
昔の俺ならば、バカだと笑っただろうか。
たった一人の女性の言葉にこれだけ胸を揺さぶられた。
これが名も知らない人間から言われた言葉ならば、何も思わなかっただろう。
でも、”彼女”だった。
今にも泣きだしそうに顔を歪めた、彼女。
『杏寿郎さんは、戻るんでしょ』
学生時代の親しい友人と並ぶ写真を見て、嫉妬した。
彼女に対して失礼な事を言った。
彼女は「自分たちの立場と同じ」だと言った。
燃えるような怒りが胸に広がった。
こんな名前も知らない男とこの俺が。
馬鹿な。
それを否定したかったが、彼女の言葉で頭が一瞬にして冷めた。
彼女が部屋の外へ出て行って、声を掛けようとしたが伸ばしかけた手を止めた。
何を熱くなっていたんだろうか。
俺はこの時代の人間ではないというのに。
彼女の隣に立つ資格すらないというのに。
それを自覚した瞬間。
全身がしびれるような感覚が俺を襲う。
息が出来なくなり、慌てて喉を押さえたが、手が震えて言う事を聞かない。
座っていた身体はそのまま倒れるように床へ転び、机の脚が目の前にあった。
息が出来ないのに、口は勝手に動いていた。
「…名前っ…」
無意識に口にしていたのは、彼女の名前だった。
苦しさに瞼を閉じた先、瞼の向こうに見えた一瞬の光景。
それは、我が家の門扉で掃除をする千寿郎の姿だった。
次の瞬間には痺れは治まっていた。
瞼を開けたら既に千寿郎の姿はなく、先程見た机の脚しか見えなかった。
直感で理解した。
「もう、時間がないのか」
それはこの時代との別れが差し迫っている事を意味していた。