「千寿郎くん、おはよう〜」
「おはようございます、名前さん」
ふぁあ〜と気の抜けた欠伸と共に、台所へ顔を出した女性。
朝餉の準備のため立っていた僕は、彼女を見るなり思わず笑った顔のまま朝の挨拶をした。
涙目を細い指で擦り、そのまま僕の隣に立った名前さん。
彼女は、先日兄が連れ帰ってきた女性だ。
『ただ今戻りました!』
何日も行方不明で、鬼殺隊の中では既に亡くなっているのではと噂されていた兄が、いつもと変わらない大声で玄関に立っていた時は腰が抜ける程驚いたけれど、もっと驚いたのは隣に立ったハイカラな洋服を身にまとった女性と一緒だったことだ。
今までどこに居たのですか、何故行方不明だったのですか、怪我はありませんか、とか色々聞きたいことはあった。
だけど僕の口からそれらの質問が飛ぶ前に、兄の声が遮る。
『俺の妻になる、名前だ』
無事に帰ってきた兄を見て思わず涙が零れていたのに、一瞬で引っ込む経験は、今までもこれから先もこれっきりだろう。
名前さん、と紹介された女性は顔を赤くしながら兄の背中をバシバシと叩いていた。
だけど、二人の間に繋がれた手を見て、少しだけ安堵した。
女性と縁のなかった兄上がまさか、と驚き嬉しい気持ちはあるけど、同時に血の気を引いてしまう。
『…まさか、女漁りのために…?』
そのために、今の今まで鬼殺隊と我が家に連絡なしで消えていたのですか、と口にした時、兄上と女性がほぼ同時に否定の言葉を吐き出したので、僕は2人から長い経緯を聞くこととなる。
かれこれ名前さんが我が家にやって来て、2ヶ月が経とうとしていた。
身寄りのない名前さんを我が家で引き取り、ゆくゆくは兄上の奥さんになるらしい。
勿論その話を聞いた父上は大反対したし、ここ最近で1番酷い暴れ方をしていた。
兄と殴り合いの喧嘩にまで発展した時は、どうやって間に入ればいいのかと青くなったが、僕の隣にいた名前さんが、割って入るように声を上げた。
『親子喧嘩するくらいなら、私は今すぐ出ていきます!』
取っ組み合っていた2人は一瞬体を止めて、名前さんの方へ視線を合わせた。
ふん、と怒ったように顔を背け、身一つで玄関に向かう名前さんを止めようとする兄上。
そして「さっさと出ていけ、小娘」と荒々しい言葉を吐く父上。
廊下で聞こえた名前さんの「杏寿郎さんが殴られるくらいなら、私は土の上で寝ます! そりゃ私が原因なのは分かっているけどできることなら、あの酒乱にビンタの4つや5つお見舞いしてあげたいくらい!」という声を聞いて、父上の眉間に皺が走る。
そのまま父は不機嫌に辺りの家具を蹴飛ばしながら、部屋へ篭ってしまったが、名前さんを宥めた兄上がなんとか彼女を屋敷に置くよう、父上に申し込んだらしい。
手が出ることなく話し合いで解決出来たのは、名前さんにバレたら出ていかれてしまうから、と兄上が言っていた。
勿論、父上は了承したわけではなく、当面の間だけという条件の元置くことになったので、名前さんが父上と揉める事があれば、すぐに追い出されるだろう。
なのに。
「聞いて、千寿郎くん。槇寿郎さんね、また勝手にお酒の量増やしてたのよ〜。部屋がお酒の臭いでいっぱいだし、健康に悪いって言っても言う事聞かなくってね」
「ち、父上に進言したのですか…!?」
「うん、でも全然聞いてくれないのー」
はーもう、やんなっちゃう、と首をコキコキ鳴らし呆れた声を上げる名前さん。
思わず顎が外れそうになったのは気のせいじゃない。
あの父上に物申したくなるのは分かるが、それを実現できる人間はそう居ない。
兄上ですら諦めていたのに。
「それだけじゃなくて、逆に『うるさい小娘』とか言って追い出されちゃった」
「な、何もされていませんか…!?」
「うん? うん、大丈夫だよ?」
あっけらかんと言う姿にいよいよ僕の顎は零れ落ちそうになってしまった。
自分の父であるが、あれだけ暴れる酒乱に喜んで近づこうとは思わない。
それなのに名前さんは平然と父の部屋の戸を開けて行くのだ。
思わず唖然としてしまう。
なんとも不思議な女性だと思う。
鬼殺隊の隊員の 女性たちや、兄上と同じ柱の方々とも、大きく雰囲気が異なる。
勿論性格的な事ではなくて、生まれ持った雰囲気、彼女が異国の人間であることも大きいのだろう。
兄上からは、血鬼術で異国に飛ばされた先で出会ったと聞いていた。
本当はもっと詳しい説明をされたが、僕では理解が追いつかなくて、簡略的に理解できたのは、それだけ。
生まれ育った文化が違うから、着物の着付けも分からないし、炊事場の使い方だって分からないと言っていた。
けど、名前さんはあっという間に覚えてしまって、今では慣れた手つきで着物の袖を捲っている。
兄上が異国に飛ばされた時、見ず知らずの兄上を看病し養ってくれたほどの女性だ。
一般女性とは比べ物にならないくらい逞しさが違う。
母が儚くなった時、僕は幼かったのでもう母上の記憶も霞んでいるが、名前さんみたいな方だったのかと思わず考えてしまう。
兄上の様子からはそんな風には思えないけれど。
朝餉の準備を2人で済まし、いつもの様に父上の部屋に向かって声を掛けた。
中からはなんの返事もなかったが、少し扉を開けて、朝餉の盆をそっと置いた。
「あ、槇寿郎さん。食べたら食器洗うので持ってきて下さいねー」
僕が扉を閉めようとした時。
僕の後ろから名前さんが顔を出して、そう言うとさっさと廊下を通り過ぎて行ってしまった。
中で縁側に座り酒を飲んでいた父上が、鬼の形相でこちらを睨んでいた。
僕はペコペコと頭を下げて、なんとか扉を閉めると大慌てで兄上の部屋へ向かった。
「兄上、このままでは名前さんが!」
兄上は既に起きていた。
隊服と父上から引き継いだ羽織を身に纏って。
なんと説明すれば良いか分からなかったが、何か言わなければと口にした。
色々と端折りすぎて、兄上には到底理解できる内容ではなかっただろう。
それでも兄上は柔らかな笑みを見せて「大丈夫だ」と言う。
「な、何が大丈夫ですか? 父上の機嫌を損ねていては、本当に追い出されてしまいます!」
「別に名前は間違っていないし、父上が怠けすぎているだけだ。勿論不満はあるだろうが、何かあれば俺が父上と話をしよう」
「名前さんに、何かしたりしないでしょうか?」
「父上が? まさか」
僕の心配を笑い飛ばしてしまう兄上。
兄上がそう言うなら、と少し興奮していた気持ちが冷めていく。
それだけ言うと兄上は僕の横を通り過ぎて行き、部屋を出た。
背後で聞こえる「名前、父上ばかりに構うのもいいが、俺の相手もしてくれないか」という惚気か分からない言葉の後、この世のものとは思えない名前さんの悲鳴。
我が家は名前さんが来てから、とても騒がしくなったなぁと思うばかりだった。
◇◇◇
兄上が任務へ出てすぐ、空模様が崩れ始めた。
名前さんも、兄上の見送りついでに買い物へ出ると言っていたけれど、傘は持っていただろうか。
僕が迎えに行くべきかと玄関で悩んでいるうちに、どんどん空は暗くなり、終いにはゴロゴロと良くない音まで聞こえてきた。
いよいよ大変だと傘を片手に出ようとした時、ガラガラと玄関が開いた。
「ただいま、千寿郎くん」と名前さんが帰ってきたのはいいけれど、上から下まで桶の水を被ったかのようにびしょびしょで。
「ごめんね、何か拭くものある?」
と言って着物の袖をハンカチでポンポンと叩く様子に、そんなことをしたところで水なんて吸いませんよ、と言う余裕は無かった。
僕は大急ぎで部屋から大きな手拭いを持ってくると、名前さんの頭を問答無用でわしゃわしゃと拭う。
「ありがとう。もう大丈夫だから、買ってきた物を台所へ持っていくね」
「風邪引いちゃいますよ? 先に着替えてください!」
「そうだね、すぐに着替えるね」
ニコニコと笑って僕に荷物を渡すと、そのまま名前さんは自分の部屋へ小走りで向かう。
名前さんの歩いたところが水で濡れているのを見る限り、相当雨に降られたらしい。
風邪をひかなければいいが、と思った僕の予想はこの後的中する事になる。
「何をしているんですか、名前さん。」
「おつまみを作ってるの。槇寿郎さん、ご飯あんまり食べないから」
着替え終わった名前さんが、休憩する間もなく炊事場へ立っていたので、僕は覗き込むように近づいた。
最初の頃は使い方が分からない、と言っていた炊事場も、名前さんはあっという間に使いこなしてしまって、家に来ていた手伝いの人よりも沢山の料理を作れるようになった。
作れるようになった、というより、元々知っている料理は出来るらしく、今まで口にしたことのないような料理がたまに晩御飯の時に出てくることもある。
今回はなんだろうと声をかけると、父上のツマミを作っていると言う。
「父上の、ですか…?」
毎日あれだけ煙たがられているのに、どうしてめげずに父上に構うのだろうか。
気になって聞いた事もあったけど、その時は確か『頑固親父ってどこにでもいるもの。ブラックに勤めていた時もそんな連中ばかりだったから、平気』と、よく分からない事を言っていた気がする。
「お酒と一緒なら食べてくれるなら、栄養がある方がいいでしょ? まあ、本音はお酒は控えてほしいけど」
「でも、父上が食べるかどうか…」
「いいよ、食べなかったら私が全部食べるし」
全部食べる、と言う名前さんの手元の皿を見る限り、女性の名前さんが1人で食べるには大変そうな量が入っていた。
それを見ていたら、何だか僕もお手伝いをしたくて「僕も何かさせて下さい。あと、出来たら少し食べてもいいですか」と口にしていた。
名前さんは、嬉しそうに頷いた。