あたしは誰もいない早朝を狙って厩舎に来ていた。毛並みを整えるブラシ片手に一人と一頭で睨めっこを続けている。深い闇のような瞳があたしの不安げな表情を映していた。
 あたしは馬が苦手らしい。真剣に向き合って、確信に変わった。何日経っても、丸くて大きい瞳は誰を見ているんだろう、とそればかり気になってしまう。全てを見透かすような瞳が、苦手だ。あたしの中の悪魔を引き摺り出されてしまうような。彼女の前ではいくら偽善者ぶっても、意味がない。そんな感覚がするからだ。
 
「ブラッシングさせて、くれない?ほら、その足怖いから降ろしてもらって……」

 今にも蹴り出しそうな足を見て、馬に懇願してみるけれど、一向に興奮が収まる様子はない。ジャンから指摘された恐怖心だが、完全に消えている訳ではなかった。蹴られると痛みが伴うので、どうしても怖いという感情を消し去ることができない。アニに手当てしてもらった痣も、消えかけてはいる。水浴びで誰かに指摘されると、つい思い出してしまうのだ。悲鳴に似た馬の叫びと痺れるような痛み。この恐怖を完全に克服するには、馬を落ち着かせて蹴られないようにするしかない。
 支給されている餌を使って、ようやく馬を落ち着かせたあたしは、ブラッシングに取り掛かることができた。自分でも積極的に世話をしている自信があるので、彼女の毛並みは他の人よりも綺麗だ。馬術の教官に褒められたお墨付きでもある。ブラシを滑らせると、鹿毛が光に反射して艶めいてみえた。

「あなたは美しいね」

 あたしが手入れをしているにしても、元より彼女の顔つきは整っている。一見した、筋肉のつき方や体のバランスも彼女の美しさの要因なんだろう。あたしが不安に感じてしまう瞳も長い睫毛で縁取られていて、馬という生き物の華麗さを引き立てていた。あたしの言葉を肯定するかのように、彼女も鼻を鳴らす。この利口さもそう思わせる要因の一つだ。
 訓練兵団の馬は、卒業生から新兵に回されるらしい。彼女も数々の主人を見送って、今度はあたしに引き合わされた。彼女が何年訓練兵団で過ごして来たかは知らないけれど、ほんのここ数年ではないだろうとは分かる。会って来た主人の中で、あたしが一番鈍臭いということも。

「少しでも、あなたに相応しくなれたかな」

 出会ってから数ヶ月経った。ジャンのアドバイスもあり、最初の頃よりは彼女と向き合う時間が増えた。癖や好きな餌の種類、向き合わなければ分からなかったことが沢山ある。期待して彼女の様子を見てみたが、フンと鼻を鳴らされてしまった。やはり、信頼関係を築くには何かが足りないらしい。

「手厳しい……」
 
 馬術の試験は徐々に難易度が上がっている。早く乗りこなせるようにならないといけないが、思っていた通りの道のりになりそうだ。立髪をブラシで梳いてやりながら、ため息をこぼした。
 一通り毛並みを整えて、手入れ道具を元あった木製のバケツに戻す。蹴られも噛まれもしないで終えられて一人、肩を撫で下ろした。少し前までは世話をする度に怪我していたけれど、今日は無傷で済みそうだ。振り返って、彼女の様子を眺めていたら飲み水が濁っているのに気がついた。
 
「水、汲んでくるね」

 汚い水をひっくり返して、井戸に走った。古めかしい石造りの井戸へ備え付けのバケツを落として、遠くでざぶんと音が鳴る。水の重みで不安定な振動が手に伝わってくるのを慎重に巻き上げ、水がたっぷり入ったバケツを抱える。水は見た目よりも重かった。彼女の所までおぼつかない足取りで移動し、飲み場にバケツを傾けて水を移そうとする。

「ぎゃっ!」

 足元でズルっと音が聞こえた。逆さになったバケツが宙に舞うのがスローモーションで見える。瞬きをした後のあたしは、石畳の床にぶつけた衝撃が反響する頭を抑えながら蹲った。冷えた水がじっとりと全身に覆い被さっている。後ろから受け身も取れずに転倒したせいで、頭以外も全身が痛む。飲み場の周囲にあった濡れた干草で転けたんだろう。これ以上馬鹿になってどうするんだ。注意散漫だった自分の間抜けさに、怒りと似た感情をぶつけながら痛みが治るのを待った。数分してようやく頭を上げたあたしは、濡れた干草のなんとも言えない匂いを纏って彼女を見上げる。

「最悪だ……」

 干草まみれで膝をついているあたしに、彼女はいつも通り鼻を鳴らした。励ましてくれている、とあたしは都合よく解釈する。この状況で嘲笑されていたら挫けそうだったからだ。地面に染みを作りながら、清掃用のデッキブラシを手に取った。気持ちを切り替えて、彼女の世話を終えなければ。水浴びさせてもらって訓練に参加するしかない。

「ノエル?」

 大きな水溜まりを側溝に掃いていると、鈴を転がしたような声が響いた。心なしか、彼女の瞳も踊っているように見える。ブラシ片手に振り返って、小柄な体格が視線に入ってきた。絹のように艶やかな金髪は入口の太陽光で輝いている。金髪をした同期は何人もいるけれど、彼女のことは一目で分かった。干草塗れの女を困惑の瞳で見ているのは、女神ことクリスタ・レンズだった。

「お、おはよう」

 服から水を滴らせながら、手を振る。こんな朝早くに人が来るとは驚きだけど、生き物が好きだという彼女が厩舎を訪れるのに何の疑問も湧かなかった。
 
「その格好、どうしたの?」
「水汲んだバケツをひっくり返しちゃって、こんな様に……」

 やって来たクリスタに、ばっちり全身を見られてしまった。間抜けな姿を目撃したのがクリスタで心底良かったと思う。これが、サシャやコニー。ましてやユミルなんかだったら、例のマゾ事件みたいに長らく噂にされていただろう。名前を考えるとしたら、干草女とかだろうか。
 
「それじゃあ、風邪ひいちゃうよ!私、タオル持ってくる」

 間抜けな姿に対して、クリスタは慌てた様子で声を上げた。駆け出しかけているクリスタに面食らいながらも、呼び止める。
 
「えっ、いいよ。このまま水浴びしちゃうし」
「訓練中に体調が悪くなったら大変だよ」
「あ、う。それは、そうだね……」

 自分のした後始末を関係のないクリスタに頼むのは胸が痛くてヘラヘラ笑っていたのだが、正論を言われてしまい押し黙る。

「すぐそこにあるから待ってて」

 翻る金髪を見送って、女神様にこんな雑用を任せても良かったのか、と胸の内で不安が渦巻く。せめてクリスタを汚すわけにはいかないので、髪の束を絞って干草を取っておく。思っていたよりも早く、クリスタは真っ白なタオルを抱えて戻ってきた。
 
「ありがとう、クリスタ」
「私が来てよかったよ。ノエルはすぐ無理するもん」

 ふかふかのタオルを受け取って、頭を拭いていく。服はどうしようもないので、上から軽く叩くだけにしておいた。肌着なんかの薄い服はできる限り絞る。
 
「あの説も助かったよ」

 クリスタの気配りにあやかったのはこれで二回目だ。入団してばかりの頃、立体起動術を自主練して伸びていたあたしにガスを分けてくれた。中途半端な場所で切らしたせいで、重い体を引きずったまま訓練所まで歩いて帰らなければならなかったあたしを助けてくれたのだ。噂は本当だ。女神はここにいた、と本気で思った。
 
「クリスタも馬の世話?」
「うん、今日は朝早くから目が覚めちゃって」

 水気を吸って重くなったタオルを絞りながら問うと、クリスタは頷いた。ふと、違和感を感じて口を開く。
 
「ユミルはいないんだね」

 入団直後から、ユミルとクリスタはセットだった。二人が離れているのは当番くらいで、普段ユミルは女神の名に相応しい可憐さも兼ね備えているクリスタへ近づいてくる兵士に威嚇している。ライナーもぽろっと劣情を催して、塵のような目で睨まれていた。
 
「まだ寝てたから、起こすにも起こせなくて」

 寝顔のユミル。想像して、見てみたい気もした。あたしが部屋に入ったら、起き上がって強制的に叩き出されそうだけど。もう好感度を下げたくないから、実行する勇気はない。
 
「会いたかったな。ユミルは嫌がるかもしれないけど」 
「そんなことないよ!ただ、ユミルはノエルのこと、気になるみたいで……」

 自虐的な言葉をクリスタは否定した。大きな瞳を左右に泳がせて、言葉を探している様子だ。眉間に皺を寄せ、何度も口を開けたり閉じたりしたクリスタは悩んだ末に言った。
 
「ユミルは、本当に優しいの!」
「ふふ、知ってるよ」

 必死なクリスタに笑みを零しながら答えたら、クリスタは意外そうな顔だった。他の人より嫌味は多いし、マゾだって噂も流されたけれど、ユミルが意地悪だからそうしているとは思えなかった。昨日のことも含めてだ。

「昨日だって、教官に叱られる前に教えてくれたしね」
「ノエル……」

 クリスタは手を組んで、目を輝かせた。ユミルの誤解が解けたことがよっぽど嬉しいようだ。念を押すように笑っていたら、背中を誰かに押された。放って置かれて不満そうな彼女の表情は、今にも前足を蹴り上げそうだ。
 
「あっ、そ、そうだ!クリスタ!馬と仲良くするにはどうすればいい?」

 緊張感を振り解くように、馬から二歩下がる。蹴りたそうな足が地面を引っ掻いているのを眺めながら、名案を口にした。立体起動術で一体討伐した時も、成績上位の人間にアドバイスを貰った。馬術の成績が高いクリスタにも何か聞けるかもしれない。
 
「この通り中々心を開いてくれなくてさ」

 やれやれと大袈裟に手を広げてみる。距離を取られたのが気に食わないのか、彼女の荒い鼻息が聞こえてきた。コミニュケーションを取りながら熱心に世話をしているつもりでも、完全に信頼関係を構築できたとは言えない。
 
「確かに、ノエルの子は神経質そうだね。それと、大人びてるって言うか……達観したような目をしてる」

 クリスタは馬の前に堂々と立って、冷静に分析している。あたしにはない、クリスタの力なのだろうか。次第に、彼女の視線も穏やかに変わり、忙しなかった脚は動きを止めた。
 
「もしかしたら、こういう子は真正面から向き合ってあげないと駄目なのかもね」

 胸がどきりと音を立てる。クリスタは目を細めて、彼女の顔に手を寄せた。その手にあたしのような震えや怯えはない。長い鼻筋を撫でてながら、言葉を続けた。
 
「生き物はそういうのに敏感だから。隠し事をするのは気に食わないって子もいるんだ」

 心当たりしかないあたしは、何も言えずにいた。そんなあたしの様子を眺めながら、クリスタは何も言わないでいてくれた。
 
「まずは私たちがこの子たちにありのままの姿を見せる。そうしてやっと、心を許してくれるんじゃないかな」

 クリスタに頭を預けた彼女がじっとあたしの様子を伺っているようだった。あたしがしてきた小細工も、純粋な人や生き物には見抜かれてしまうんだ。

「クリスタも、秘密があるの?」
「……うん」

 私たち、とクリスタは言った。好奇心が勝って聞いたら、クリスタが顔を縦に振る。驚きはない。誰しも秘密を抱えているのだから。
 
「そっか」
「何か聞かないの?」
「聞かないよ。あたしも隠してること、沢山あるから」

 クリスタがどんな嘘をついていようが、関係ない。あたしはクリスタが好きだ。根掘り葉掘り聞いて嫌われたくないし、根本からみんなを騙しているような秘密を抱えているあたしからすれば、どんな秘密だって軽い。
 
「ノエルもなんだ。ふふっ、なんか嬉しくなっちゃう」

 花が綻ぶようにクリスタが笑った。朝から真正面で受けるクリスタの笑顔は、目が覚めるほど輝かしい。ライナーにでも自慢してみようかな。
 
「ジャンが言ってたんだ。あたしとクリスタが似てるって、こういうことかも」

 あの時はどこが似ているのだろう、と不思議だったが、クリスタとは共鳴する部分があるように感じる。ジャンの考察が当たっていたんだ。
 
「ジャンが?」
「うん、ジャンって以外と人を見る目があるらしいね」

 目を丸くしているクリスタに、ジャンとの会話を思い出しながら言った。エレンとの喧嘩で名を馳せているジャンだけど、素直に尊敬できる所が沢山あることをもっとみんなに知って欲しい。皮肉と目つきは治す必要がありそうだ。
 それから、クリスタとはたわいもない話をした。青白かった空も真っ青に変わり、足元に浮かんでいた霧も掻き消える。人々が活動する騒々しさが厩舎まで伝わってきた頃、自身がびしょ濡れだったことを思い出した。水浴びをして訓練の準備をするには、そろそろが限界だろう。
 
「クリスタ、先に行っててもらっていい?彼女と話したいんだ」
「もちろん。また、訓練でね!」

 彼女、と言って顎で示せば、クリスタも分かってくれたようだった。厩舎の入り口まで見送り、手を振って別れる。しん、と静まり返った厩舎で彼女の前まで戻ってきた。誰にも話すつもりはなかった。まさか馬に話すことになるなんて。厩舎の入り口まで閉めると、その場は屋根の隙間から入ってくる光だけだった。
 
「あのね、聞いてくれる?わたしの話を――」

 親友を殺した、悪魔の話を。


 驚くほど順調に列へ戻った。手綱からも彼女の落ち着きぶりが伝わってくる。教官が側にやってきてその言葉を伝えるまで、夢かのように思えた。
  
「ノエル・ジンジャー。合格だ」

 馬術の試験が終了後、あたしは馬を撫で回していた。抜き打ちで行われたというのに、あそこまで安定してこなせたなんて。自分でも信じられない。あたしが頑張ったわけではなく、彼女がやる気を出してくれたからできたことだけれど。

「おいおい、マジかよ。手懐けてんじゃねぇか!」

 公衆の面前で蹴られ、噛まれしていたあたしの成長ぶりはすぐに伝わったようだった。彼女をベタ褒めしていたあたしに、ジャンとマルコがやってくる。本気で驚いているらしい二人を前にして、自慢げに鼻を鳴らした。
 
「ふふん、まあね」

 あたしの態度が気に食わなかったのか、ジャンが即座にケッと吐き捨てる。気分が上々のあたしはそれすら可笑しくて、へにゃへにゃ笑った。マゾネタを引きずり、何やら嫌味を言ってくるジャンにもヘラヘラしてたら、マルコが感心したように腕を組んだ。
 
「僕たちも負けてられないな、ジャン」
「んだよ、まだ初歩中の初歩だろ。ヘタクソが俺に追いつくにはあと十年は掛かるな」

 ジャンが指摘した通りだった。馬を扱えるようになってからは、自身の技量が試される番になる。あたしにとっては長い道のりだったかのように感じるけれど、実はようやくスタートラインに立てたのだ。言い方を考えろ、とジャンを軽く叱咤してくれるマルコの優しさに浸りつつも、気を引き締めた。

「ジャンが馬とコミニュケーションをとるようにアドバイスしたって聞いたよ。何を話してたんだい?」

 思い出した、と言った調子でマルコが話しかけてくる。真っ先に思い浮かんだのは、早朝の厩舎。彼女に明かした秘密についてだった。
 
「……内緒!」

 人差し指を立てて、意味深に笑ってみた。