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 面白みもない荒野がただひたすらに広がっていた。いくら走れどその光景はなかなか変わりそうにない。隣で馬を走らせているジャンの欠伸につられそうになるのを堪え、口を手で覆った。彼女の背で揺られて何キロ走って来たんだろう。これまでは特に、なんの困難も障害もなくて楽だ。このまま最後まで続いてくれればいいのに。と、退屈に没頭しかけていた頭に教官の言葉が脳裏を掠めた。緩みかけていた気をしっかりと引き締めるように手綱を握る手に力を込める。
 現在。あたしたちこと、第104期訓練兵団は現在一班と二班に分かれてそれぞれのルートで目的地を目指している。目的地で情報交換をしたのち、それぞれのルートを通って訓練地に帰還。馬を使った訓練であり、走らされる心配もない。あたしも簡単な工程だという印象を受けたけれど、教官は兵士としての本文を忘れるなと再三忠告していた。ジリジリと身を焦がすような太陽の他に、困難に思うようなことは今のところ何もない。この状況でいかに警戒心を持っていられるか、言葉で言われてもピンとこなかったことの意味がやっとわかった。困難がないからこそ、集中力を保つのが難しい。実践を想定した警戒心となれば尚更だ。最も、ジャンは真面目に取り組む気すら無くなっているようだけど。

「――じゃあ、あんまり急ぎ過ぎても駄目ってことかな」
「う、うん」
「それで消耗するんなら急ぐ方が馬鹿だろ。様子見てゆっくり行こうぜ」

 急ぎ目的地へ向かえば、二班との合流を待たなければならない。アルミンの懸念で進行速度を考えあぐねているマルコに向かって、前を進むジャンが声色だけでもわかるくらい気だるそうに言った。不真面目な態度にうんざりしたエレンが馬を走らせる速度を上げようとしている。集団の規律が乱れかけ、マルコがジャンの意見を仰ぐけれど、憲兵団の入団に直接関係する訓練ではないからと非協力的だ。訓練に没頭しようと呼びかけるマルコに反して、ジャンは退屈を持て余している様子だった。愚痴をこぼすジャンにエレンが皮肉を言っている。静かにピリついている雰囲気がコニーとサシャのお陰で和らぐと、皆一様に黙り込んだ。教官の懸念していた通り、一班は持て余した暇に呑み込まれようとしていた。

「クリスタの子、気持ちよさそうだね」
「走れるのが嬉しいみたい」

 退屈に喘いでいるあたしたちに比べ、馬たちは久々の遠出でどの子も嬉しそうだ。クリスタの馬は休憩中も忙しなくしていた。クリスタも気がついていたようで、愛おしそうに馬を見つめ、軽快に進んでいく自分の馬の首筋に手を伸ばす。背景が荒地なのだけあって、クリスタの女神っぷりに磨きが掛かっている。この視線を羨む人間は何人いるんだろう。整った顔立ちの横顔を眺めながらぼっーとしているあたしの視界の端で影が通った。

「ったく、トカゲと一緒に行進とはな」
「珍しいな」

 並走していたのは大きなトカゲだった。まだ訓練内容が不服らしいジャンが不満を漏らす。マルコが驚嘆の息を吐いているが、あたしも同じ意見だ。訓練地には馬の他に目立った動物が姿を見せることはなく、開拓地の荒地で夏に小さいトカゲを見たのが最後だった。

「ほんとだ、珍しい」

 訓練地周辺ではこんな生き物も生息しているのか。物珍しさに遠目ながら観察していると、食に目のないサシャが「美味しいですよ」と言い出した。見た目に反して、鶏肉のような味がするとか。そう言われてから見れば、美味しそうに見えてこなくもないな。サシャの狩人らしい一面に感心していると、ジャンが馬に鞭打って列から飛び出した。

「お、おい!」
「食糧確保の訓練になるなら、トカゲ狩りの方がマシだろ!」

 マルコが静止の声を上げるけれど、ジャンはそう言ったっきり振り返らない。記録係のアルミンが必死に何かを書き留めている。教官がこの現状を知ったら、なんと思うんだろうか。むしろ、計画通りなのかもしれない。

「やめなよ!そんな」
「俺が行く」

 動物好きのクリスタは心が痛むんだろう。不安そうに瞳を揺らしたクリスタへ何か言おうと口を開きかけたら、隣にいたエレンが馬を蹴ってジャンの後を追った。
 エレンを追いかけるよう、みんなで馬を走らせる。エレンの活躍でトカゲは丸焼きにされなくて済んだようだ。早々とさっていくトカゲの後ろ姿の前で見るからに険悪なムードが立ち込めている。班長のマルコが馬を止めたので、一班は列を止めた。班分けを言い渡された時から予想できていた光景に、頭が痛くなる。せめて、ミカサを入れてくれれば楽だったかもしれないのに。これではマルコの負担が重すぎる。仲裁しに行ったマルコへ助太刀するつもりで、あたしも馬を降りた。

「お前ら子供かよ」
「そうそう。二人ともはしゃぎ過ぎだって」
「お前らには言われたくねぇな」

 コニーの言葉に同調して、軽くひらひらと手を振りながら近づいたけれど、ジャンは納得できないようだ。瞳孔を細めた人相の悪い顔で、そう言い捨てられてしまった。

「ジャン、我慢してくれよ」
「マルコに苦労かけちゃ駄目だよ」
「ッチ、ヘタクソは黙ってろ。そんな必要ねえだろうが」

 上から目線の言い方が気に障ったらしく、舌打ちをもらってしまった。想像していた反応にどうしたものかと首を捻る。憲兵団へ入りたいジャンは評価もされず、教官もいない荒地訓練を馬鹿正直に取り組む気が起きないようだ。理屈は理解できるけれど、ただでさえ訓練に対する士気が低い訓練で自分勝手に行動されるのはこたえる。あたしよりも、マルコの心労が計り知れない。

「遅れが出れば、報告しなくちゃいけなくなる」
 
 ジャンとエレンのいざこざで一班は完全に歩を止めている。このまま、喧嘩を始めてしまったら遅れが出るのは確実。記録係がいる限り、遅延した理由を伝えなければならない。記録係のアルミンにはマルコが指示を出してくれて、延命はできたものの、ジャンは苛立ったままだ。本格的にヒートアップする前で切り上げるべきなんだけど、いっそ報告してお叱りをうければ改善されるのだろうか。エレンが関わると捻くれてしまうジャンのことだ。評価を下げられたのはエレンが原因だと更に亀裂を深める気しかしない。

「ジャン・キルシュタインが食糧を確保するための訓練をエレン・イェーガーに邪魔されたと報告しとけ」
「っんだと?」
    
 これじゃあ、売り言葉に買い言葉。二人が言い合っているのを放置したとしても改善は望み薄だ。仲良く横に馬を並べてメンチを切っている二人の間に割り込んで、ことを収めようとする。どうどう、と動物相手を宥めるつもりで仲裁するも、訓練兵団の人相の悪さでトップの二人組が凄まじい眼力で自分を挟んで牽制している。睨み合うのはいいけど、せめてあたしを避けてほしい。無闇に手を出したあたしが悪いんだけれど。どうしたものかと冷や汗を流しているあたしの背後で、大きく息を吸う音が聞こえた。

「美味しいです!!!」

 何を思ったのか。サシャの大声が荒野に響き渡り、険悪なムードは霧散した。満足げに鼻を鳴らしている発端にその場の全員が目を向ける。ジャンも眉間に寄せていた皺を緩めて、サシャの突拍子もない発言に目を丸くしているのがわかった。怪訝そうな顔でエレンとジャンの二人を眺めている仲間の存在もやっと思い出したようだ。「……行こう」マルコが声を掛けたのち、ジャンは直前の出来事が嘘のように素直に従った。勝手に待たされていい顔をしていない相棒のご機嫌取りをしつつ、馬の背を跨ぐ。覚悟していたよりもずっと早く事態が収束してよかった。よだれを拭おうともせずに何かをぼやいているサシャへ呼びかける。

「サシャ、行かないと」
「へっ!?トカゲ見つけました!?」
「あー……コニーが見つけてくれるよ」

 感謝を伝えたかったのだが、サシャの頭は食べごろサイズだったトカゲへの未練しかないらしい。馬から落ちそうな勢いで迫ってくる。仰け反りながらさりげなくコニーをサシャ側に寄せた。エレンとジャンの仲裁で自分が予想していたよりも体力を使ってしまったから、これは仕方がないことだ。なんの脈略もない理由付けを頭の中でして食欲に浮かされたサシャの対話はコニーに押し付けた。

 休憩中もトカゲ探しに付き合わされていたコニーへ同情しつつ、以降は特に大きな問題もなく馬を進める。景色は荒地から森林に移り変わっていた。立体機動術で慣れているからか、身を焦がすような太陽から木影が守ってくれるからか。木々の間から細く差し込んでいた光も、やがて夕焼けで色づき闇夜に掻き消える。野営に良さげな場所を見つけた頃には、どっぷりと闇があたしたちを覆っていた。
 サシャたちが拾ってきた枝で拵えた焚き火は触れていなくても火傷してしまいそうな火花を散らしている。一筋の煙が夜空に立ち昇っている下で、グツグツと大鍋が煮えていた。中には、あたしが鬼の罰則で取得した皮剥きの技術を駆使したじゃがいもが入っている。普通の大きさを剥くだけなら手早く剥けるので、共に作業したアルミンに褒められ、鼻を高くしていたのは別としても。この味ではありがたみを感じられないだろう。現に温かい食事で多少は回復しているものの、みんなの表情には疲労が滲んでいる。

「兵団の支給品は味気ねぇな……」
「トカゲ捕まえておけばよかったですね」
「俺はもうゴメンだぞ」

 ここまで来てもトカゲを諦めきれていない様子のサシャが明るく提案して、コニーがもう勘弁してくれ、と言いたげな顔で首を振る。最初こそ、二人で躍起になって逃げたトカゲを探していたコニーだけど、休憩中にあっちこっちを彷徨いていては休息が取れない。サシャの食欲に押されて最後まで付き合っていたものの、限界のようだ。

「意外と二班が食べてたりしてね」
「そうだとしても、あのサイズは中々ですよ!」
「出汁は取れるの?」
「ええ!もちろん!」

 遊び半分のジャンでも狩れそうなくらいだから、ミカサがいる一班は豪華な食事に洒落込んでいたりするんじゃないだろうか。憶測を声に出していると、サシャが鼻息を荒くしながら続けた。狩猟民族だったというサシャの知識は新しく触れることも多くて勉強になる。あたしに知識があれば、開拓地にいたあのトカゲもおやつ代わりになってみんなの飢えを凌げたりしたんだろうか。
 
「帰り道でも探してみようよ」
「いいんですか!?」
「もういい、トカゲはたくさんだ」

 元は、あたしが不用意に声を掛けたことが始まりだ。訓練も相まり、暴走気味のサシャに振り回されて疲労困憊なコニーの姿に良心が痛んで、提案してみた言葉はサシャが検討するより先にジャンが却下してしまう。サシャが不服そうにジャンを睨んでいるが、ジャン自身は気がついていないようだ。

「さっきは狩に行ってたじゃねえか」

 エレンの声が割って入ると、パンを食べかけていたジャンの表情が不快感をあらわにするように歪む。焚き火から飛んで出た大きな火花がバチッと音を立てて弾けた。脳内を過ぎる嫌な予感、二人の間で流れる険悪なムードが再び舞い戻ってくる感覚だ。エレンの一言に、ジャンは過剰とも言える反応を見せた。「巨人を狩ろうとするよりは現実的だろ」煽るような口調でジャンが捲し立てる。二人は入団初日にも衝突していたけれど、最初はまだよかった。喧嘩を重ねていくうちに、二人は互いの地雷を把握してしまったのだ。特にジャンは価値観がエレンと真逆な上、エレンが憧れている調査兵団や巨人のことを茶化すからタチが悪い。

「お前それどういうことだ?なんのために訓練兵団に来たんだ!?」
「少なくとも命を粗末にするためじゃねぇな」

 ジャンの思惑通り、エレンが食ってかかり立ち上がって声を荒げる。それをわざとらしく鼻で笑ってから、エレンに対して踏み込みすぎた一言を口にした。「言って良いことと、悪いことがあるだろ!」エレンの言う通りだ。今のジャンは訓練に対する鬱憤をぶちまけているようにしか見えない。内地で暮らしたいジャンが壁外に突き進む調査兵団を理解できないのは知っているが、調査兵団を志望する者としては不服だ。
 食事中にまで喧嘩が勃発するのは、教官の策略だったんだろうか。記録係としての責務を全うせんとして、二人の言葉を書き留めているアルミンをマルコが止める。そうは言っても評価が気になるらしいジャンはマルコの一言で勝利の確信を得たかのように鼻先で笑った。

「ッフ、本物の巨人ってやつを見ると無茶な訓練に精を出すようになんのかぁ?ご苦労なこっ――」
「いい加減にしろよ、お前」

  ぶちり、とエレンの堪忍袋の尾が切れる音が全員に聞こえてきたみたいだ。腹底から唸るような低い声でジャンの言葉を叱咤したエレンがギラギラと翠の瞳を光らせてジャンへ掴みかかった。お互いに怒りを収める様子もなく、本格的に取っ組み合いが始まってしまう。穏やかな休息を得る食事の場が、すっかり様変わりしてしまった。服を引っ張りながら罵声が飛び交う中、鈴を転がすような声が悲痛な叫びをあげる。

「やめなよ!」
「やっぱり、トカゲ捕まえてきましょ!!」

 トカゲのことしか頭になかったサシャでさえ、二人の喧嘩に介入している。「きっと、気持ちもほぐれますよ!」独特の励まし方だが、サシャにとっては精一杯の言葉なんだろう。取り繕ったような明るい声で言ったサシャの瞳は不安げに揺れている。あたしも止めに入ろうと口を開いて、乾いた笑いが入り混じったジャンの言葉にかき消された。

「じゃあ、お前は何ができんだよ」

 二人は周囲の様子が目に入らないくらい喧嘩に熱中してるらしい。うんざりしているのか、捲し立てもせずに白い目で二人を眺めているコニーと顔を合わせて肩をすくめる。いくら、犬猿の仲とは言っても一日目でこうも加熱するとは。今だけは組み分けした教官が恨めしい。
 
「なんだってテメェよりはマシだよ!」
「うるっせえな、破けちゃうだろうが!」
「っおい、二人とも。もうやめろよ!」
 
  マルコが宥めるように声をかけても、二人の反応は乏しかった。「やっぱり、トカゲを捕まえた方が!」サシャがフォローを入れるが、二人の耳には入っていない。空腹で収まるならどんなに良かったか。大勢で説得を試みても二人が腰を下ろさず、「これ以上続けるなら報告する」というマルコの一言で罰が悪くなったジャンが手を離し、ようやく鎮火したのだった。
 ひと騒動あったせいか、夜更かしする体力を温存している人は現れなかった。訓練地から運んできた寝袋を空き地に並べ、エレンとジャンの距離は十分に離した状態で就寝になる。寝袋にくるまって数分、すぐに他の人の寝息が聞こえてきた。寝袋の活躍で寝心地はそう悪くない。昼はうんざりするような気温だったけれど、太陽が身を隠してしまった夜なら生ぬるい風が頬を掠めるくらいで心地よかった。森のざわめきを堪能しつつ、寝返りを繰り返して心地よい姿勢を探していると布が擦れる音が耳に入る。規則正しい呼吸音が響く中で、異質な音だ。眠りに誘われていたはずの意識が引き戻され、閉じていた瞼を上げる。視線の先に映ったのは、小柄な人影がそばにある湖の方へ移動していく姿だった。夜の森に一人でいては危ない。居ても立っても居られなくなり、みんなを起こさないように注意を払いながら体を起こす。月光が眩しく感じる瞳を擦りつつ、木の影に消えた人の背中を追った。

「クリスタ?」
「あ……ノエル」

 湖のある場所は野営している場所からすぐ近くだ。湖のほとりで、流れるような金色はよく目立っていた。愛馬と並んで膝を抱えているクリスタの後ろ姿へ、驚かさないように木陰から声を投げかける。湖に向いていた体が振り返って、驚きで見開かれた丸い瞳が視線と交わった。みんなが熟睡しているのに、一人夜風に会ったっているクリスタの隣で腰をおろす。ズボンに土がついてはいけないので、手で軽くはらった。

「寝付けないの?」
「うん、そんな感じ。ノエルは?」
「クリスタの姿が見えたから」
「ごめんね、起こしちゃった?」

 あたしの気遣いが足りずに、いらぬ罪悪感を感じさせてしまったようだ。笑顔が可愛らしいクリスタはどんな表情でも素敵だけど、もしこの場でユミルがいたらどやされるに違いない。クリスタの顔を曇らせてしまったので、あたしはクリスタのせいじゃないと首を横に振って主張した。

「元々、寝つきが悪いんだ。クリスタのせいじゃないよ」

 優しいクリスタに要らぬ心配をかけたくなくて、あたしはこっそり嘘をついた。半分本当で半分嘘だ。入団してから寝不足に悩んだことはない。「普通に……気になって、着いてきちゃった」そう付け加えて曖昧に笑ったら、クリスタはようやく納得してくれたようだった。納得とはいい、申し訳なさそうなクリスタの表情は変わらずのままだ。

「一人じゃ危ないから、一緒にいてもいい?」 
「うん、あとちょっとだけ夜風にあたりたいんだ」

 一人になりたいんだとしたら邪魔だろうと、恐る恐る聞いてみたらクリスタは柔らかく微笑して、湖に視線を戻した。
 湖の近くで野営をするのは都合がいい。馬の飲み水を補給できるし、いざとなれば飲み水だって確保できる。広い空き地と湖のある場所を地図で目星をつけて、野営場所を確保するには時間がかかった。適当な場所でさっさと休みたいとジャンが文句を垂れていたが、あたしは実践を想定した訓練をするマルコの姿勢が好きだ。あたしに訓練だからと気を抜くような器用さがないだけかもしれないけれど。全力で取り組むからこそ、得られるものもあるはずだ。例えば、目の前に広がっている湖の水面が闇夜でキラキラと煌めく景色はマルコがこの場所を選んだからこそ、堪能できる自然の美だった。
 湖のほとりに二人並んで揺れる水面を無意味に眺めながら夜ふかしを堪能していると、欠伸が喉の奥から自分の意思とは関係なく出てしまう。大きく口を開ける前に噛み殺すも、眠気が全身に纏わりつくようにして動きが怠慢になった。ぐっと背伸びをしていると、クリスタの隣にいる馬が構われたそうに鼻を鳴らす。ずっと何か考え込んでいる表情で周囲に視線をやっていたクリスタが片目を拭って、馬の鼻筋を撫でている。そろそろ帰らないと明日にまで影響が出てしまう。クリスタに提案しようと口を開きかけ、枝を踏んだような音が割り込んできた。動物か、起きてきた仲間か。背筋に冷たいものが過ぎって、無意識に腰を上げる。一歩、二歩。茂みへ足を進めかけ、クリスタのいる方向に音が聞こえた。

「クリスタ――?」
「動くな」

 視界に入ったのは、月明かりに照らされた絹糸のようなブロンドへ突きつけられた鈍い光。不気味な頭陀袋を被った大きな影が地を這うような声で命令する。クリスタを人質に取られ、あたしは動きを止めた。動揺で震えているクリスタの瞳と目があい、攻撃の意思がないのを示そうと下ろしていた手をあげる。丸腰で反撃できるような武器はない。冷や汗が額をつたう。クリスタだけでも救い出せないか。頭の中で模索した。あたしの力ではどうにもならない。それなら、あたしが今ここで大声を上げてみんなが起こ――

「ッ後ろ!!」

 鈍い音と共に、視界がぐわんと揺れる。遠くからクリスタの甲高い叫び声が聞こえた。土の匂いの上で力無く投げ出されたままに痛みで呻く。何かの液体が頬を伝い落ち、嫌な鉄臭さがしてからやっと、背後から殴られたことを理解した。なら、頭から垂れてきたのは血だろうか。確認しようと手を伸ばして、強い力で引っ張られる。せめて、クリスタだけでも。点滅している視界の中で目を向けるけれど、大声をあげていたクリスタの口が塞がれているところだった。全身が麻痺してしまったみたいで、体が思うように動かない。かろうじて意識を保っていることがやっとだ。その場に無理矢理立たせられても抵抗すらできず、千鳥足になって上手く歩けなかった。

「ノエルっ、ノエル!」
「くり……すた」
 
 必死に呼びかけてくれるクリスタに、返事をしてあげたくても上手く言葉が出せない。背中に冷たい鉄の感触を突きつけられたまま、押し出されるようにして歩かされる。数歩進んだところで足の力が霧散して、膝から崩れ落ちた。

「歩け」

 容赦ない蹴りで背を痛めつけられ、少しでも抵抗せんと立ち上がる。そのやり取りを数回繰り返してから、木々が開けた。同時に、踏ん張ることすらままならない体が前へ投げ出され、背を蹴り飛ばされる。膝さえつけず、じんじんとした痛みが全身に広がっていった。

「ノエル!」

 煮えたぎるような熱さで意識を朦朧とさせている遠くで、誰かがあたしの名前を呼んだ。ぼやけた景色が二重になり、左右に揺れている。指先へ力を入れる感覚も掴めず、起きあがろうとして無駄に地面を引っ掻いた。

「――ただし、お前たちが追ってくれば殺す。わかるな?」

 男の声が聞こえると、近くにいた気配が遠ざかっていく。駄目だ。このままじゃ駄目。クリスタを連れて行かれてしまう。せめて、人質はあたしがしないと。クリスタを守れなかったばかりに、みんなを危険に晒している。もっと警戒していれば。いつも、あたしは後悔するのが遅過ぎるんだ。そんなだから、今だって地面を睨みつけることしかできない。馬車が走り出す音がしても、状況は変わらなかった。クリスタが連れ去られていくのに、あたしは無能にも転がったままだ。奥歯を噛み締めながら、仲間と物資を奪われていくのを、ただ眺めていた。馬車の音が遠ざかってすぐ、強い力で肩を揺さぶられる。

「ノエル、意識はあるかい!?起き上がれる?」

 問答に、こくりと小さく首を振った。「血が……誰か!包帯を」マルコの焦ったような声がしてようやく、体に力が入った。おぼつかないながらも、地面に手をついて上半身を持ち上げる。やっと正常になった視界で映ったのは、難しい顔をしたマルコだった。やけに重い頭を抑え、痛みは喉の奥に押し込んだ。
 
「へ、平気。それより、クリスタは……」
「クリスタは連れて行かれた……立体機動装置もだ」

 駆け寄ってきたマルコの手を借りながら体を起こす。一歩、二歩。想像していたよりも大股になって、体の軸がふらついた。それを見たマルコが何か言いたげな表情を浮かべ、曖昧に笑って誤魔化そうとする。マルコが僅かに口を開きかけたところで、喉の奥から絞り出されたようなエレンの声が響き渡った。

「全員で……全員でかかれば何とかなったはずだ!」

 誰かが息を呑んだ。クリスタと立体機動装置を失い、絶望的な静けさの中にいるあたしたちの心を冷やすには十分過ぎる言葉だった。あたしも例外ではない。ただ横たわって成り行きを眺めていることだけが、あたしにできた精一杯の行動だったんだろうか。近くを通っていた足を掴んで、もし転がせられれば銃を取り上げられたかもしれない。自問自答してばかりで、エレンのように最後まで戦う手段を探そうとしていなかったんじゃないだろうか。

「それはお前の意見だろ。オレはそうは思わねぇ」

 下唇を噛み締めて、何も言えずに黙り込んでいるあたしの隣でジャンが声を上げた。「むしろ、お前の無茶で全員が危険な目にあったぜ」ジャンがエレンに向けた言葉としては冷静で、それも事実なのだろう。皮肉めいた言い方ではあるけれど、攻撃的には感じない。ジャンの横顔には一筋の傷があるし、寝込みを襲われたみんながどんな目にあったのかは容易に想像できた。

「無駄に反抗したヘタクソはこの様だぞ?抵抗しなかったから、俺たちは一人も死なずにいれんだろうが」
「――訓練は中止だ」

 ジャンに指摘されても、あたしは反論も共感もせずに口を閉ざしていた。窃盗団の一人から銃を奪っていたとして、一人で何ができただろう。いくら考えても、今を変えることはできない。班長としてこれ以上は訓練を続行できないというマルコの判断にアルミンが力無い声で同意する。

「クリスタを置いてくのか」
「っそうじゃない、僕たちだけじゃどうにもならない。ノエルも怪我をしているんだ。一度戻って、教官の指示を仰ぐ」

 あたしが怪我をしていなくたって、マルコはこう判断したんだろう。だとしても、気にせずにはいられなかった。何もできずに怪我だけ負った自分が嫌で、拳を固く握る。マルコが言ってから、エレンの感情を押し堪えた緑があたしに向けられた。下から上に、拭いきれない血の痕がついている額まで視線をやってから、くしゃっと顔を顰めたエレンは肩を震わせて再びあたしたちに背を向ける。

「間に合わなかったら?」
「ッ……」

 煮えたぎった感情でギラギラと獣のように瞳を輝かせたエレンは、大粒の雫を目尻に溜めていた。あたしたちがその気迫に押し黙ることしかできず、沈黙がその場を支配する。

「オレはこのままなんて嫌だ!絶対にクリスタを助ける」

 誰もが目を伏せる中で、エレンだけは耐えきれないと言った様子で声を荒げたまま続けた。マルコの判断が間違っているんじゃない。エレンもわかっているんだろう。わかった上で、声をあげているんだ。
 
「オレ一人でも行く」
「エレン!」

 エレンはそう言い切ると、アルミンの静止も振り切って駆け出した。あの人数、それも銃を持っている人間を一人で相手するのは無茶だ。エレンを追いかけるために足を動かすも、刺すような痛みで頭を抑える。

「待て!」
 
 代わりに声をあげたのは意外な人物だった。ジャンがエレンを追っていく姿に瞠目する。奥から二人の荒げた声が聞こえて、あたしたちは顔を見合わせた。あたしを含めて、みんな同じ想いのようだ。ジャンに続こうと前に進みかけ、今度はマルコが支えてくれた。マルコの助けも借りながら、ジャンとエレンのいる場所へ移動する。煌めく湖のほとりで何かを言い合っている二人は、喧嘩をしているように見えなかった。

「みんな」

 エレンがあたしたちを目に映してつぶやく。覚悟を決めたあたしたちの表情で悟ったのだろう。もう、一人で向かって行こうとはしなかった。

「それにしても、どうやって探すんだ」
 
 みんなの意思が纏まり、次にすべきことは作戦会議だろう。戦況は変わらず、多勢に無勢であっても戦力差がありすぎている。コニーの問いかけにミーナも「きりがないよね」と同意した。腕を組みながら、打開策を絞り出すために頭を捻ったところでサシャが声を上げる。

「そういう時は!高いところに登るんですよ!」
「そうだね、それがいいよ」

 サシャの提案は今できることで最も現実的に聞こえた。あたしも賛同したのだが、あたしを視界に入れるなりサシャが表情を曇らせてしまう。サシャは立てていた人差し指を曲げて、眉を下げた。

「あっ、でもノエルが……」

 頭に巻かれた包帯を見ながら、サシャが口を窄ませる。鏡で見ていないのでわからないけれど、そんなに大袈裟なんだろうか。こんなの大したことないのにみんなの足を引っ張っては堪らない。両手を左右に振りながら、慌てて否定する。

「あたしは大丈夫。みんなも気にしないで!」

 どれもあたしが弱かったせいだ。自分に嫌気がさしながらも、極力元気に見えるよう笑ってみる。自分が思っていたよりも効果はさほどなく、みんなの曇った顔は晴れないままだった。
 
「なぁに、強がってんだ。ヘタクソ」

 冷や汗を垂らしたあたしの肩を掴んだのはジャンだった。それくらいでへばんな、と辛口で激励してくれるかと思っていたが、あたしの妄想だったらしい。

「いつもボンクラなのに、頭打ちゃ話になんねぇよ」
「僕もそう思うよ。少しでも安静にした方がいい」

 ジャンに加えて、アルミンも真剣な顔で止めてくる。言い切ってからアルミンがハッとしたような顔をして「ノエルはボンクラじゃないと思うよ」と付け加える。アルミンの謝罪を受ける余裕もなく、挙動不審に目を泳がせた。あたしの意図を汲み取って流されてくれるかもしれないと思っていた相手がいなくなった。そこまで心配されるほどの怪我じゃないのに、エレンさえ黙ったままだ。

「頭を殴られたんだ。本当ならすぐ医者に見せるべきだけど……」
「ああ、僕がノエルとここで待とう」
 
 マルコがアルミンに相槌をうち、みんなも納得したような雰囲気だ。あたしの身を案じてくれるのはとても嬉しい。これほど心配されてしまうと、包帯の巻き方に問題があるような気もするが。あたしにはこのまま大人しくみんなの帰りを待つ余裕はなかった。これ以上、足手纏いでいられない。

「ありがとう。でも、ついて行くよ」

 クリスタが連れ去られたのはあたしの責任だ。二人でいたのに抵抗すらまともにできなかった。しょうもない怪我ばかり負って、みんなの不安を誘っただけだ。この落とし前は自分でつける。

「一人だけサボってこれ以上ユミルに嫌われたくないしさ」
「そこまで言うなら……分かった」
 
 ここで待機する意思がないことをマルコへ伝えると、渋々ながらも了承してくれた。ジャンが何か言いたげにしているので、いわれるより先にその場を仕切り直す。サシャが木々の間から山を見つけたので、あたしたちはそこへ目指すことにした。

「無理だけはしちゃダメだからね」
「その辺でぶっ倒れんなよ」

 ミーナとジャンに声をかけられつつ、山に向かって歩を進める。高い所へ続いているだけあって、だんだんと地面が急勾配になってきた。支えがなくても問題なく歩けることに隠れて安堵しながら、大小様々な石が転がった道を進んでいく。整備もされていないので、非常に歩きづらい。運動が苦手なアルミンから洗い呼吸を聞こえはじめたので励ましながらも進み続ける。何枚も岩盤を乗り越え、あたしたちは頂上に辿り着いた。
 日頃から訓練していた甲斐もあってか、肩で大きく息を吸う程度で登ってこれた。みんながあたりを捜索している隙に、大袈裟な包帯を取り払い、腕に巻く。恐る恐る頭へ触れるも、ねっとりとしたあの感触はない。さきほどよりはマシになったようだ。顔についていた血の跡を念入りに拭ってから、膝に手をおき呼吸を整えているアルミンに持ってきた水筒を手渡す。感謝の言葉を告げたアルミンは一気に水を飲み干していた。

「安心してね。ちゃんとアルミンのだから」
「それって……あんまり喜べないな……」

 荷物のある野営地に戻った際、アルミンが持っていかなかったので代わりに運んだのだ。不快な思いをさせてはいけないと思ったのだが、アルミンからしたら不名誉だったらしい。水筒を大きく煽ったアルミンの表情は暗かった。

「おいッ!」

 ジャンの声がして、跳ねるように顔をあげる。視線の先を辿り、目を凝らすまでもなく目標が見えた。夜の空に白く立ち昇る狼煙は窃盗団の居場所を示している。立体機動装置、クリスタもそこにいるのだろう。すぐにでも助け出したい気持ちを堪えて、手に拳をつくった。

「彼らは盗品を売るはずだ。だとすると、この付近ではオーデルの街以外ない」

 偵察から降りてきたアルミンが地図を指でなぞりながら説明する。その姿は作戦参謀さながらだ。訓練兵一の頭脳派がいるからこそ、こんな状況でもあたしたちは足掻けるんだろう。

「先回りして待ち伏せするんだ」
「馬もないのに先回りかよ」 
「オーデルなら可能です。森を突き抜ければ!」

 一見しただけは無理に思える作戦だけど、地図を見る限りでは可能だ。森を抜けた後の道、片方を封鎖して誘い込む。これなら、窃盗団を奇襲することも可能だろう。アルミンの作戦を聞きながら、あたしもゆっくりと口を開く。

「道の封鎖が絶対条件だよね」
「本当に間に合うか不安だけど……やるしかない」

 完璧な作戦のように聞こえるけれど、窃盗団の馬車より早く分かれ道を封鎖する必要がある。木を縄で括るにしたって、時間が足りるか不安だ。森をまっすぐ駆け抜けた体力で準備して、どれだけ時間が余る分からないより馬を使えるならその方がいいだろう。追ってこないよう、窃盗団によって全ての馬は森に放されてしまった。響き渡った聞き慣れない銃声で殆どの馬は逃げるように駆けていたし、それなりの時間が経過している。それでも、あたしは呼び戻せる馬に心当たりがあった。
 
「馬が1匹だけいるよ。道の封鎖をする人が乗るって、どうかな?」
「確かに……ノエルの馬なら!」

 彼女のお陰であたしの馬術の成績はかなり良い。アルミンはあたしが伝えようとしていることが分かったらしく、縦に大きく頷いた。これで、できるだけ不安要素は消せただろう。

「よし、やるぞ!お前ら」

 ジャンの一言で、作戦は開始された。アルミンの指示を受けながら、必要な物資を野営地からかき集めて風呂敷にしまう。からんと軽い音をたてる空き缶を背負って、指笛の形を手でつくる。笛を何度か続け、森の茂みから顔を出したのは月光で立て髪を艶めかせている彼女だった。確信していたとは言え、どうしようもなく愛おしくなる。別れたばかりなのに漆黒の瞳が懐かしく思え、首筋に抱きついて干し草の匂いを堪能した。再開できた喜びも程々にして、封鎖する班へ手綱を渡し、サシャたちをすんなり乗せた彼女は駆け出した。あたしたちもそれに続いて走り出すも馬の走力は森の中でも侮れず、あっという間に見えなくなった。
 奇襲を仕掛ける道には、想定よりずっと早く着くことができたようだ。わずかに薄くなった狼煙が空に浮かんでいる。火がなくなって時間は経っていないようなので、火を消して出発した頃だろう。空き缶で作った簡易的なベルに繋がる紐を枝へ通して、外れないよう固く結んだ。

「こっちはできた!」

 太い枝に体重をかけながら、下にいるマルコへ手を振る。木の葉で隠れるように紐を伸ばすのは案外簡単だった。ある程度の高さがあって、人が乗っても折れなさそうな木を探す方が大変だ。そもそも、立体機動術の訓練で培ったバランス力がなかったら、この作戦は不可能だっただろう。
 
「あとはアイツらを待つだけだな」
「おい、ヘタクソ。さっさと降りろよ、テメェは下だろ」

 窃盗団がやってくるだろう道を睨みつけているエレンの隣で、ジャンがあたしに向かって指を突きつける。指し示した方向にはマルコがいて、あたしが降りてくるのを待っていた。
 
「ごめん。我儘だって分かってるけど、一緒に戦いたい」

 分担の結果、あたしはマルコたちと一緒になっている。窃盗団が来るか確認するアルミン、音を聞く担当はマルコ。正直なところ、二人で事足りているのだ。戦いに向かないアルミンはともかく、立体機動装置の場所を探り当てるアイディアを思いついたマルコ本人が担当すべきだろう。完全に一人余っているのに、あたしが戦闘要員になれないのは怪我をしているからだ。混乱に乗じるなら馬車に乗り込む人数が多いに越したことはないのに。
 
「それは無しだって話しただろ。怪我人のくせして生意気言うな」

 分担分けで主張したものの、敢えなく却下された理由がこれだ。聞くたびに、自分の不甲斐なさへ反吐がでる。クリスタを守り切れたかもしれないただ一人なのに、みんなの足を引っ張っているのだ。
 
「……いいんじゃねぇか。ノエルが戦いたいんなら」

 道を監視していたエレンがちらりと瞳を向けて味方してくれる。今のあたしとエレンは同じような瞳をしているだろう。交わったエレンの瞳からあたしたちを叱咤した時と同じような闘争心が滲んでいるのがわかる。
  
「何を話してるんだ?」

 なかなか降りてこないで話し込んでいるあたしたちへマルコが不思議そうに声を投げかけてきた。分担の時、あたしが言い出して真っ先に反対したのはマルコだ。ジャンが肩をすくめ、流し目であたしを見る。
 
「ノエルが俺たちの方で戦いたいんだと」
「……流石にそれは許可できない」
「お願い!」
「コイツがマゾってのは本当らしいぜ。もう好きにさせてやれよ。マルコ」

 どうしようもない我儘を貫いた甲斐があり、ずっと反対していたジャンがついに折れた。ジャンを味方につけられたことで、マルコも許容するしかなくなったようだ。小さくため息をついたマルコは諦めたように笑っていた。
 
「くれぐれも怪我しないでくれ、頼むよ?」
「ありがとう!」

 あたしは身勝手な行動を許してくれたマルコに頭をさげ、感謝を告げる。マルコが持ち場へ戻って行くのを見送った。準備万端となれば、これからはひたすら耐える時間だ。窃盗団はすぐそばまで来ているはずなのに一秒一秒がいつもの倍の長さに感じられた。耳元で聞こえる心音が大きくなっていくような気さえしてくる。言い出した自分が緊張してどうするんだ。臆病な自分を奮い立てるように汗ばんだ手を握り直したところで、視界に馬車が映り込む。
 心臓がいっとう大きく跳ねる。砂埃をあげながら走っている馬車へ狙いを定め、そばの枝に手をかけた。タイミング良く研ぎ澄まされた耳が合図を拾い、間髪入れずに馬車へ飛び込んだ。

「なんだ!?」

 馬車の天井を突き破って、はじめに飛び込んできたのは驚愕の色を浮かべる男の姿。奇襲は成功したらしい。この機を逃すまいと、不安定な場所の上で一歩踏み込む。手頃な位置にいた男の隙だらけの体、特に顎を目掛けて頭突きをした。注意散漫な男の懐に潜り込むのは簡単だ。ゴツンと頭に衝撃が走り、男の短い叫びが聞こえた。

「がッ!?」

 声にならない呻き声をあげ、顎を抑えて崩れ落ちる男。余程良い場所に入ったのか、痛みを嘆くばかりで抵抗もしない。機会を逃さず、あたしは足を振り上げた。足先にツンとした痛みが広がる。ジャンが窃盗団の一人を外へ投げ出し終えたのに続いて、エレンが力一杯悶える男を押し飛ばした。いっとう大きな苦い声を最後に男の影が見えなくなる。振り返ると、ジャンが手綱を持っていた最後の一人に組みついているところだった。加勢するために近づこうとして前列の馬車から鈍い光が煌めく。

「あの野郎!」

 怒号が響き渡り、嫌な予感がして体を縮こませる。空を劈くような発砲音と共に視界が縦に揺蕩した。衝撃で転げかけ、反射的に姿勢を屈める。視界の先ではジャンが力勝負に勝ち、車外に男の影を投げるのが見えた。

「やめて!」

 クリスタの悲鳴に似た叫び声が耳に入る。不安定な床に手をついて立ち上がると、小さな体が無謀にも男を妨害していた。「クリスタ!」呼び声の返答があるはずもない。代わりに返ってきたのはどん、という破裂音だった。支えがなくなってしまったかのうに馬車が傾く。体を投げ出されそうになり、膝をついたまま壁の突起を掴んだ。地面も視界も回っている。内臓が掻き乱され、視界にチラつく残像が腹の底を掻き回す。耐えるように目を瞑ると体が縦に揺れて土の匂いが巻き上がってきた。

「お前ら、平気か」
「ああ、どうにかな。ノエルは?」
「砂以外は大丈夫」

 ジャンの安否確認に喉を触りつつ返事をする。吸い込んでしまった砂で喉が痛い。咳をしながら、壁伝いに立ち上がって手をついた。
 
「三人とも!」
「無事だ。立体機動装置もな」

 外から声を投げかけてきたのはマルコだった。真っ先に口を開いたジャンが無事に回収した立体機動装置を見やる。外の様子からして大きく道から外れたようだけど、この程度じゃ立体機動装置は壊れない。
 
「だが、クリスタがまだ」
「みんなで立体機動に移れば、絶対に追いつける」
「ああ、追うぞ!」

 エレンと顔を見合わせ、互いにこくりと頷く。あたしたちの反撃はまだまだ。クリスタを助け出すまで終わらない。立体機動装置を手に入れた、今からだ。
 大破した馬車の中から立体機動装置を取り出し、手早くみんなに行き渡らせる。一刻も早く窃盗団に追いつかなければ。焦る気持ちを抑えつつ、立体機動装置の本体をあらかじめつけていたベルトに装着していく。装備してから不具合がないか確認していると、声をかけられた。

「ノエル、また血が……」
「いっ、今はクリスタが優先!」

 眉を下げたミーナに指摘された場所を確認せず服で拭って、真っ先に飛び出した先頭の二人組を追うように地面を蹴る。遠慮なくガスを蒸し、道沿いに移動する。あれだけ平気だと豪語しておいて怪我を悪化させたら心配を掛けてしまう。気付いたのがミーナでよかった。風切り音に紛れ、ホッと息を吐いていたら、強い風が吹いてから前方で砂埃が立ち昇った。

「近寄るな!」
「武器を捨てろ!」

 煙をあげている馬車と複数の人影が見えて、降り立つと最悪の光景が広がっていた。立体機動装置を取り戻したのに、あたしたちは動けない。クリスタの首元に鈍く反射する刃物が添えられ、今にも白い肌に赤い線をつけそうだった。

「大人しく立体機動装置を渡せ!早くしろ!」
 
 男が捲し立てるように怒鳴って沈黙を破る。クリスタの大きな瞳が揺れた。みんなの荒い息遣いが聞こえ、絶望の色を深くする。固く握った拳がピリ、と痛み、あたしは立体機動装置を腰から外しにかかった。あることを思いついた。男の要望に応え、立体機動装置を弄っているあたしにみんなの視線が向けられる。下手すれば、あたしが殺されるかもしれない。呼応するようにしてゆっくりとベルトを触りだしたみんなの一歩前に足を出した。

「動くな!撃つぞ!」

 無害であるとアピールするように手をあげながら歩を進めるも、銃口を向けられてしまい足を止める。服が汗で張り付いて気持ちが悪いのを飲み込むように、笑顔を作った。
 
「立体機動装置はあげる。だから、人質を交換して」
「ノエル、何を……」

 クリスタの瞳が動揺で揺れる。刃物は突きつけられたままで、幸いにも横に引かれる素振りはない。あたしたちも追い詰められたが、それはこの男たちも同じだ。人質を殺してしまったら、彼らに抵抗できる術はなくなる。
 
「知らないの?彼女はトロスト区で有名なご令嬢なんだよ」

 口からするりと出てきたのはなんの捻りもない嘘だった。男たちは何を言おうと人質を手放さないだろう。クリスタを助けるために、こうするしかない。
 
「クリスタを連れて行ったら、憲兵があなたたちを追うことになるだろうね」

 男たちはなんの根拠もないハッタリを深く考える余裕すらないようだ。あたしも笑顔が引き攣って話せなくなりそうになるけれど、クリスタを視界に収めて抑える。男たちが憲兵、の二文字に動揺しているのは明らかだった。クリスタの可愛らしい風貌で令嬢だと言われて仕舞えば、自分でも納得してしまう。

「対してあたしはシガンシナの孤児。手負だし人質にはもってこい」

 これ以上の適任がいるだろうか。無様な自分の姿がわらけてくる。片手を上げたまま、トントンと胸を指せば、鉄砲を構えていた男がクリスタの方を振り返る。上手くいきそうだ。
 背後から聞こえる小さな静止の声や自分の名前には蓋をする。これはあたしがやるべきなんだ。クリスタを連れ去られた責任は、あたしが取らないと。駄目だ。

「ノエル、だめっ!」

 上手くことが進んで心を緩ばせるあたしに対し、甲高い叫び声が上がった。クリスタの透き通った瞳があたしを貫く。クリスタの首から離れかかっていたナイフが、抵抗を抑える男によって再び強く突きつけられた。

「暴れるな!死にたいのか!」
「お願い、早くあたしの友達を返して。絶対に抵抗しない、約束する」

 男が鬼の形相でクリスタを抱え込む。たまらず一歩踏み出すと鈍い色の銃口が向けられた。下げてしまった腕をあげ、捲し立てるように適当な言葉を並べる。

「……お前、こっちに来い」

 男たちが目配せをし、告げられたのは交渉の成立だった。心臓が痛いくらいに鳴っている。「ノエル、行っちゃ駄目だ」後ろから声を潜めたマルコの言葉が耳に入った。立体起動はない、人質も取られている。クリスタを助けるためにはもうこれしかない。無抵抗であることを強く示そうと、腕は真っ直ぐ上にあげ、ぬかるんだ地面へ踏み出す。なんだろう。一歩が、ひどく重い。

「早くしろ!」

 銃を構えた男が急かすように声を荒げた。銃口を縁取る光でさえ鋭さを放っているかのようだ。男の気迫に押され、慌てて足を動かそうとした時だった。
 それとは別の銀色が視界に映る。キラリと月夜に反射する銀を見慣れた人影が振るった。目で追えたのは残像だけだ。瞬きをしたら、真っ赤なマフラーを巻いたミカサとアニが立っていた。別班でいるはずのない二人の姿へ、「ミカサ!」エレンの呼び声が聞こえる。

「殺さないで!」

 迷いなく振るわれたブレードが男の首を刎ね飛ばすより先に、クリスタの静止の声が響き渡った。命拾いしたであろう、男が情けない声をあげて崩れ落ちる。

「苦労したみたいね」
「……っほんとに」

 ミカサと現れたアニが、現状を見渡してから呟く。数時間前は話していたのに、まるで久しく会っていなかったみたいだ。睫毛の下から覗いている三白眼を見たら、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、安堵が押し寄せてくる。よろめきを膝に留め、緊張をため息と一緒に萎ませて蹄の音を迎えた。


 窃盗団を倒したからといって、終わりではない。二人組を縄で縛り上げたあたしたちは、馬車から放り出した残りの窃盗団を手分けして探すことになった。足が速いあたしの愛馬に乗ったマルコがオーデルの街へ憲兵団を呼びに行き、その間にあたしたちが道端で転がっている男たちを回収していく。憲兵が到着し、窃盗団全員の身柄を引き渡した時には、すっかり朝になっていた。不安を煽るような暗闇が掻き消え、朝焼けが滲むように空へ広がっている。
 やっと一幕を終え、小さな焚き火の周りで朝食を囲んでいた。と言っても、この状況でがっついているのはサシャとコニーくらいだ。あたしも乾いたパンを一欠片ずつ口に運び、水筒で流し込んでいた。みんなの物資を持ち寄ってする朝食は、いつもと変わり映えしないのに美味しく感じる。窮地を脱した後の食事だからだろうか。単に、疲労と相まって空腹だったのかもしれない。
 「ハッ!」荷馬車で連行されていく窃盗団の方から敬礼をするマルコの声が聞こえてくる。昨晩の出来事で疲弊しているのは変わらないはずなのに、マルコはあたしたち訓練兵の纏め役として憲兵団との対話を引き受けてくれた。率先して引き受けてくれて助かる反面、心配でもある。昨晩から食べず、寝ずなのマルコも同じはずだ。帰ってきたマルコへ真っ先に寄っていったのはジャンだった。何かを話しているが、ジャンの方はミカサとエレンをしきりに気にしている。あたしは摘んでいたパンの最後の一口を口へ放り込んだ。労いの言葉はあとでよさそうだ。
 
「その傷」

 飛び散る火花を眺めながら塩っぽいパンを咀嚼していると、背後から声がした。声色に肩が跳ね、殴られた傷のある額を隠してしまう。ライナーには隠し通せたが、やはり後ろから見ると分かってしまうのだろう。

「こ、これは……まあ、色々あってね」

 手で後頭部を押さえつつ、声の主を見上げる。透き通った碧い瞳が不穏な色で揺れていた。不審なあたしの返答で眉間に皺が刻まれる。ろくにクリスタを守れず、大袈裟な傷だけを作ったことから逃れるように目を逸らした。
 
「もー!びっくりしましたよ!ノエルがあんなハッタリ言うなんて」

 窃盗団と対峙した時とは別の焦燥感があたしの心臓を鳴らしていた。どう言い訳するか、ゴクリと息を呑んだあたしの横から明るい声をかかる。パンを片手に上機嫌なサシャだ。
 ここでの朝食は休憩も兼ねているだろうが、たぶんサシャが空腹で暴れそうだったからでもある食事をする気分ではない人の食料もあってか、サシャはかなりご機嫌な様子でいる。窃盗団に対処した後で暴走したサシャを宥めるのは一苦労だっただろう。マルコの英断に感謝したいところだけど、そうして気分の良くなったサシャの口からするりと漏れた言葉はアニに睨まれている今、一番聞かれたくなかったことについてだった。

「ハッタリ?」

 馴染みのない言葉が出て、アニが聞き逃してくれるはずもなくサシャにそのまま反復する。ここで止めたら、それこそ怪しまれてしまう。鋭い岩でぶつけたくらいの言い訳を用意すれば、本当にそれくらいのことなのに。サシャ、お願い。言わないで。険しい表情で、パンを口一杯に詰め込んでいるサシャを見る。あたしが送っている視線に気がつくはずもなく、ピンと指を立てたサシャがあたしの代わりに全て言ってくれた。

「ノエルがクリスタの代わって人質になろうとしてたんですよ。今度からあんなこと言わないでくださいね!」

 アニの反応はない。それもそうだろう。窮地に立たされて考えついた案だったが、冷静に考えてみればクリスタをも巻き込んだ愚策だ。衝動的な行動が、今となっては恥ずかしくて仕方がない。頭が飛び抜けてよくもないのに、済ました顔で交渉までして。

「し、心配かけちゃってごめん。気を付ける」
「嘘だ」
 
 きっとアニは凡人なりに足掻くあたしを想像して失望したんだろうと、気まずい沈黙を振り払って笑顔をつくる。軽く謝ったあたしの声に被さるよう、アニの声が聞こえた。

「え、えっ?私は嘘ついてませんよ?」
「サシャ、あんたじゃない」

 慌てるサシャをアニが静かに宥める。パキ、と小枝の折れる音がして、艶のあるブロンドの髪が視界にはいってきた。視界の横から細められた瞳が問いかけてくる。

「本当に、気をつけようと思ってる?」

 瞳の中で、阿保っぽく小さく口を開けたあたしが映っていた。顔を覗かれたあたしは、真っ先に違和感を覚える。アニの反応が、予想していたもののどれでもなかったからだ。これでも付き合いは長いから、なんとなく考えられる。今日の無理がバレたら、どんくさい癖に無理をするなと叱られるくらいで、悪ければ蹴られるかな、なんて想像してたのに。現実は、まるで違った。

「なんでそんなこと」
「あんたは黙って」

 おかしい空気を察したのだろう。困惑の声を上げるサシャに向けて、アニが鋭く言い放った。普段のアニなら、こんな乱暴に言ったりしない。こうなったら、あたしでなくても、アニの感情が理解できるだろう。

「ずっと前から思ってた。あんたは嘘をつくのが上手いんだ」

 ぽつり、アニは唐突に言い出した。責めるような二つの瞳があたしを捉えて離さない。嘘をつくのがうまい。普通なら喜べないはずなのに、嬉しいような、変な心地になり、アニに知られているのが恐ろしくなった。

「人の心配するなら、自分の心配しろって……」

 宿舎の外で見た夜空と危機一髪だった訓練が脳裏で蘇る。あの時はなんだかんだ仲直りできたんだったか。視線を地面に落とし、あたしの靴先から体、顔へ上げながらアニが腹の底から吐き出すように言って続けた。

「あんたさ。よく言えたもんだね」
「クリスタを助けたくて、そう言っただけだよ」
「あんた自身は?」

 アニの言う通りだ。あたしはまるでなってなかった。謝ってしまえばいいのに、頭ではわかっていても、用意した言い訳を口にしてしまう。頭の隅で、あれはわざとらしい自己犠牲だったと、誰かが囁く。自分がよく知っている。だけど、あたしに認めることはできない。

「自分が嘘ついてること、わかってるんだろ」
「嘘をついたら、いけない?」

 確認するようなアニに言葉を返すことはしないまま、問い返した。綺麗事の上から屁理屈を塗り固めていく。

「あんたの、嘘のつき方に問題があるのさ」

 アニが垂れていた前髪を手で掻き上げ、じろりと軽蔑の眼差しを向ける。その小さな口が何を言おうか迷っているかのように閉開してから、決心したような瞳があたしを強く貫いた。

「自分の命すら大切にできない人間に、誰が守れるの」

 直接触られたようにどきりと心臓が跳ねる音が聞こえた。わかっている。あたしは他人を救う権利のないだと。命は平等だとよく言うけれど、軽い命は確かに存在する。例えば、あたしのような。親友を囮にした悪魔なんかがそうだ。
 
「お前ら、何してんだ」

 返す言葉が見当たらず押し黙っていたら、巻き込んでしてまったサシャとは別の声が割って入ってきた。目を合わせるなり、ライナーは片手を上げつつも怪訝そうな顔であたしたちの輪に加わってきた。同じような表情のベルトルトが背後から覗いている。二人で何か話していたはずだけど、不穏な空気を感じ取ったのだろう。

「部外者は口出さないで」

 ライナーがあたしと肩を並べるなり、あたしの返答を待っていたアニは不愉快そうな態度を隠すことなく言い放った。
 
「おいおい、そんな言い方はないだろ」
「……答えてよ」

 真っ向から締め出すような振る舞いのアニへ、ライナーから不満の声があがる。アニはライナーを一瞥もせず、回答を待つようにあたしへ視線を向けた。
 攻めるような瞳を前にしたあたしは、上手い言葉が見つからず狼狽える。口をパクパクさせるだけで何も言わないから痺れを切らしたのか、返答を待ち望んでいた瞳が横にずれた。

「可哀想だと思われたいから、あんなことばっかりするの?」
「可哀想じゃない!あたし、は……」
「……あんた、意外と頑固だよね」

何か、何か答えなきゃ。弁明するために頭をひっくり返し、探しても探してもぐっと喉が詰まるばかりで何も言えやしない。しどろもどろで狼狽するだけの姿はどんな風に見えているんだろう。

「知らなかったよ」

 そんなだから、あたしを眺めていたアニが吐き捨てるように言った。訓練兵のエンブレムが朝日に照らされる。ザリ、一歩踏み出す背中が遠くなる。まだ、あたしは何も答えられていない。去ろうとする背へ力無く手を伸ばし、無意識のうちに名前を呼んでいた。

「……あ、アニ」
「何?」

 あ、と口元に手をやるより早く静かな声がした。弛緩な動作でアニが振り返り、諦めたような目つきであたしを見やる。頭が真っ白になって、慎重に言葉を探っていたのも忘れ、流れるように口が動いていた。

「あたしは気にしなくていいよ!だって、アニには関係のないことだしさ」
「……そう」

 口を突いて出たまま、ヘラヘラと笑みを浮かべてみる。アニの返事は予想以上に冷淡だ。変なことでも言ったのか、と誤魔化すように笑ったまま首を傾げる。アニの表情をよく見てからやっと、自分が何を言ってしまったのかを理解した。

「その通りだ」

 抑揚のない、淡々とした声がして、ヒヤリとしたものが体の芯をなぞる。再び向けられた背に喉の奥から捻り出したような、呼び止めるにしては頼りのない声を出した。

「まっ、て……あ、に……」

 アニの真意を確かめる術もないまま、見慣れた背中が遠くなっていく。呼びかけ、手を引いて、引き留める方法はいくらでも思いつくのに、その一つもしようとはしなかった。景色が湾曲し、最後の一音が喉仏に張り付く。ずっと大人しかったはずの傷がズキズキと痛み出した。

「気にするなよ、ノエル」
「あ、う、うん。でも、えっと……ちょっと頭が」
「頭?」

 痛みを隠すことすら忘れ、目元を抑える。目頭が体の底から熱くなっていく。涙こそ流れないけれど、胸にぽっかりと空いてしまった穴が侵食し、じわじわ這い上がってくる。

「ノエル、その傷……」

 背面とはいっても、見下ろしているベルトルトには確認できたのだろう。ベルトルトの指摘で、ライナーがあたしの背後に回ってから髪を掻きあげた。額の傷を目視するなり、体を回転させられて不満そうな表情のライナーが口を開く。

「なんで早く言わねぇんだ」
「ごめん」

 転んだ、言おうと思っていた、なんともない。いくらでも考えつくし、普段なら適当に笑って誤魔化していただろう。今だけは、何故だか素直に謝る選択肢以外ないように思えた。

「ほら、一旦座れ」

 満足げなライナーにされるがまま、焚き火の前で膝をつく。小枝が焼け焦げる香りと真っ赤な炎が揺らめいている。座ったら、傷の痛みがより強くなったような気がした。

「私、包帯か何か貰ってきます!」
「頼む」

 指を立てて宣言したサシャにライナーが念を押す。「任せてください」あたしと入れ替わりに飛び上がって地面に足をつけたサシャは大きく頷いた。

「ノエル、アニはたぶんお腹が痛かったんですよ」

 礼をしようと口を開きかけて、サシャが去り際に明るく笑う。サシャ特有の励ましを受け、あたしが呆然としてる間に本人はさっさと行ってしまった。

「サシャの言う通りだ。言われたことは気にするな」

 明日の朝食にでもパンを分けてあげないといけないな、と心に留めていたら、肩を小突かれた。優しい弄りだ。アニのと比べ物にならないくらい、加減がされている。

「アニもお前くらいしかまともに話す奴がいねぇで困るはずだ」

 隣に腰を下ろしたライナーがあぐらをかいたまま、とある一点を見つめて言う。その視線の先を辿り、返事を忘れていたからか、ライナーはベルトルトに意見を求めた。

「なあ、ベルトルト?」
「あ、ああ。きっと、すぐ仲直りできるよ」
「あいつも寂しくは――ならないかもしれんが、戻ってくるだろ」

 ライナーの声がやけに遠くで聞こえる。視界の隅で木に寄りかかっているアニの姿を追った。近くにいるのに、立ち上がって話しかけられる距離にいるのに、体が鉛のように重たい。あたしたちを大きな壁が隔てているみたいだ。「それにしたって危なかったぞ」「運が悪ければ殺されてたかもしれん」「お前はもっと危機感を持つべきだ」ライナーの小言へこくり、こくりと頷きながら、休憩が終わるのを待つ。一刻も早く、訓練所に戻りたかった。近づけないのは今だけだ。訓練地へ帰れば、いつもの調子が戻ってくれるはず。そう言い聞かせて、終にアニと一言も喋らないまま、あたしたちは訓練地へ帰還したのだった。