◇ sweet 弐
片付けも終わり、自分も仕事に戻ろうと給湯室から出て事務室のドアに手を掛けた、其の時。
足元に白い物が落ちている事に気が付いた敦。
其の白い物には見覚えがあった。
先程、なまえが手を拭っていた白いレースのついたハンカチだ。
敦は其れを拾い上げると自分のポケットに仕舞った。
事務所に入り持ち主の席を見ると、其処に目当ての人は居なかった。
「あれ、なまえさんは外出ですか?」
机で気難しい顔を書類に向けている国木田に問いかける敦。
国木田は書類から視線を外さずに答えた。
「なまえなら先程、乱歩さんのお供で出て行った。其の侭直帰予定だが、なまえに何か用があったのか?」
言い終わり視線だけを敦に向ける国木田。
其の視線に"人の事より自分の仕事をしろ"という意味が込められている様で、敦は苦笑いし乍ら否定した。
仕方ない、帰りになまえさんの家に寄ってから帰ろう。
なまえさんと、太宰さんが一緒に暮らす、あの家に。
◇
夕刻、事務仕事を済ませ定時で退社した僕はポケットの白いレースのついたハンカチを一度強く握り、気合を入れ歩を進めた。
本当はハンカチなんて、同じ職場で毎日顔を合わせているのだから、明日なまえさんに返せば済む話だ。
机に置いておいても良いし、態々家に届ける必要なんて無い。
唯、僕が会いたいのだ。
なまえさんに。
太宰さんの任務が長引いてくれたら良い。
あの人は既に気付いている筈だから。
僕の此のなまえさんへの気持ちに。
だから太宰さんが帰って来る前にお暇しよう。
なまえさんと太宰さんは、只の同居人では無い筈。
勿論、結婚している訳では無い。
然し、探偵社の人も当事者も何も教えてはくれないけれど、屹度、恋仲だろう。
太宰さんはなまえさんを明らかに特別扱いしているし、なまえさんは皆に平等に優しく接してくれるけれど、太宰さんと話をしている時は特に、幸せそうな顔をする。
僕と話している時とは違う笑顔を、太宰さんに向けている。
只管に太宰さんの不在を願い乍ら歩いていたら、遂に目的地に辿り着いた。
玄関の前に立つ。
深呼吸を大きくして、ハンカチを握り締め、よしっと再び気合いを入れ呼鈴を鳴らした。
「はーい」
家の中からパタパタという足音と、聞きたかった声が聞こえた。
いきなり太宰さんが出てきたりしたら、と不安もあったので、其れだけで安堵した。
「あ、あの、僕です…敦です。」
「え、敦くん?どうしたの?」
返事と共にガチャリとドアが開かれた。
前掛姿のなまえさんが、驚いた表情で出迎えてくれた。
如何しよう…可愛い過ぎて辛い。
瞬時に様々な気持ちが交錯する。
手を伸ばして抱き竦めたくなる衝動に駆られるが、理性が其れを阻止する。
ホッとしたような、残念なような、なんとも不思議な感覚だ。
「えと、敦くん…?」
一人脳内で葛藤していると、なまえさんは困惑している様な表情を僕に向けていた。
「あ、すみません…此れ、なまえさんのですよね?」
思い出したかのように、握り締めていた白いレースのついたハンカチを、落ちてましたと手渡す。
「やだ、全然気がつかなかった!ありがとう、敦くん。態々届けてくれたのね。明日でも…」
"良かったのに"
屹度、なまえさんはこう続けたかったんだろう。
他意も、勿論悪意もなく、言葉の侭。
でも彼女は優しいから、其の言葉を飲み込んだ。
僕の気持ちを汲んでくれたんだ。
僕は狡い。
太宰さんだけでなく、なまえさんも僕の気持ちに気付いているんだろう。
なまえさんが僕を突き放せない事を良い事に、彼女の優しさに甘えているだけだ。
「あ!丁度良かった!味見してもらえるかな?」
なまえさんはポンッと手を叩きにっこり笑うと、僕に手招きをした。
僕は咄嗟の事で、目を丸くし乍ら数回瞬きをしてなまえさんを見つめた。
早く早くとドアを目一杯開くなまえさんに促される侭、家に足を踏み入れた。
すると部屋に漂う甘い香りが鼻孔を掠める。
なまえさんに手を引かれ台所へと辿り着く。
甘い香りがより一層強くなった。
なまえさんが何か作っていたらしい。
「一寸待っててね。」
小皿へ料理を移し始めるなまえさんを後ろから眺め乍ら、ずっと眺めていたいなんて考えていた。
此の甘い香りが、幸せの香りなのではないかと、そう思わずにはいられない時間だった。
「はい、お待たせ!」
クルッと体を反転させなまえさんが僕に差し出したのは大学芋だった。
薩摩芋に絡められた水飴がテラテラと光り、作りたてなのか仄かに湯気が立っている。
甘い香りの正体は此れだった様だ。
然し、如何したものか。
なまえさんは菜箸で大学芋を摘み僕に差し出している。
あーん、と言いながら笑顔を向けてくるなまえさんは、最高に可愛くて、此れが俗に言うハニートラップなのだろうか。
僕は赤面して、大学芋と同じ様に頭から湯気が出ているのではないかと思う位、熱を感じていた。
漢・中島敦、甘んじてハニートラップに掛かります!
覚悟を決め、目をギュッと瞑った侭、口を大きく開け恐る恐る大学芋に近づく。
はい、と口の中に放られた大学芋は、それはそれは甘くて。
こんなハニートラップなら幾らでも掛かりたいと思った。
「…美味しい」
自然と溢れた其の言葉は、なまえさんに花が咲いた様な笑顔を齎した。
其れを見て僕も嬉しくなり、もう一度、ちゃんと感想を伝えようと口を開いた。
「本当、凄くおい」
「何がそんなに美味しいんだい?」
背後から降り注いだ声の主は、振り返らずとも容易に推測できた。
聞き慣れた、穏やかな声。
然し、出来る事なら今は聞きたくなかった声。
「どれ、私も一つ頂こうかな。」
声の主は僕の肩越しに顔を出し、なまえさんにあーんと言い乍ら大きな口を開け、大学芋を要求する。
僕は微動だにできず、全ての関節は真っ直ぐ伸び、石にでもなってしまったかの様だった。
そんな僕の心を知ってか知らずか、なまえさんは苦笑いしながら、再び菜箸で小皿の上の大学芋を摘み、僕の肩の上の人の口に放ってやった。
僕にしたのと同じ様に、あーんと言い乍ら。
「ふふ、お帰りなさい、太宰さん。」
困った様に笑い乍ら、なまえさんがもぐもぐと大学芋を頬張っている人に放つ"お帰りなさい"が、いやに胸に突き刺さる。
「うん!うまい!また料理の腕を上げたね、なまえ。」
そう言うと、漸く僕の肩から離れたかと思った矢先、ポンッと肩にその人の両手が降ろされた。
反射的にビクッと身震いをすると、横から顔を覗かれる。
「おやぁ?敦くんじゃあないか。よく来たね、いらっしゃい。」
にやぁと怪しげな笑みを浮かべ乍ら言うものだから、僕は顔だけは其方に向けたものの、視線は空を彷徨っていた。
「お、お邪魔、してます、太宰さん…」
其の言葉を聞くと、太宰さんは満足そうににっこり笑い、僕の肩を離しなまえさんに近づき頭を撫でていた。
線引きが明確になったからだ。
嗚呼、矢張り僕は莫迦だ。
まざまざと見せつけられたのだ。
部外者は僕。
僕が二人の間に入る余地は無いのだと。
先程までの夢幻的時間が続く筈等無いと解っていたのに。
なまえさんの優しさに甘え過ぎた罰だろうか。
それとも此れは…太宰さんの優しさなのだろうか。
そんな僕の心の内全てを見透かされているかの様に、チラリと横目で太宰さんに視線を向けられる。
途端に羞恥心に駆られ、今すぐ此処から消えてしまいたかった。
「ご馳走様、でした。」
そう言うや否や、僕は玄関へ走り出した。
甘い甘い大学芋の味が、塩っぽくなってしまう前に。
◇
「え、敦く…」
「なまえ。」
走り去る敦に手を伸ばしたなまえの手首を太宰が掴み制止する。
なまえが太宰の顔を見上げると、太宰は首を左右に振った。
「なまえ、君は敦くんの気持ちに気付いているね。」
「…なんとなく、ですが。」
叱られた子どもの様な表情で俯くなまえを、太宰は優しく抱き寄せ頭を撫でた。
「敦くんみたいな弟がいたら良いなって、思ってたんです。
でも感情のズレを感じてから、傷付けたく無いと思えば思う程、敦くんの気持ちに応えられなくなってしまって…」
苦しそうな、切なそうな、なまえの息遣い。
敦の前では笑顔でいても、心の中では苦しんで、悩んでいた。
「なまえは、なまえの侭で良いのだよ。」
なまえの輪郭を捉え、顔を上げさせる太宰。
不安そうに瞳を揺らしているなまえ。
「…そんな顔、しないでくれ給え。」
太宰は額に軽く口付けた。
心優しいなまえにご褒美。
「なまえが笑っていれば、きっと…敦くんは幸せだよ。」
続けて少し震えている唇に口付けた。
愛しいなまえに私の刻印。
「私が、そうだから。」
終
2017.02.23*ruka
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*confeito*