モノクロの有彩色


 目を開けると、白黒につつまれた世界にいた。

 ペンキでも撒いたかのようにむらのない闇。どこまでも続きそうで続かない、暗黒色の世界。
 長い時間放置された体に突然自我が芽生えたようだった。コントラストを強調するかのように、影のないのっぺりとした白いソファーと、ブラウン管のテレビだけが存在していた。

 現実味のない世界だ。唐突に創り上げられたそれはひどく歪で、がらんどうとしていた。
 そして彼もまた、創り上げられたものの一つだった。発光するかのような存在感をまとったソファーにフラフラと近づき、杖をつくかのように身を沈める。
 ぎしりと音を立てたソファーには、不思議なことにシワ一つなかった。真っ直ぐ前を見つめるその目には、ブラウン管のみが映った。
            
 ひどく殺風景な世界だ。どうしてこんな牢獄のような場所に閉じ込められているのか。一切記憶にないようだ。額に深く皺を刻み込んでも、顔が晴れることはなかった。
 その代わりに呼び出されたのは、生まれたときの記憶。
 彼はたった一つの記憶しか所持していなかった。


 彼が生まれたのは、死を忘れたような世界だった。

 銃声が鳴り響き、それを覆い隠すようにして木々が鬱蒼と茂っている。ぬかるんだ泥にまみれた地面には、奇妙な虫や爬虫類がうようよとしていた。

 突然に芽生えた自我。ただそれに疑問を持った様子はなかった。
 手袋を付けた手を、強く握る。赤ん坊のように何度か握りしめてやっと、これが自身の体なのだと自覚する。

 こつりと背中に細い、冷たい感触があった。それを生まれる前から知っていたかのような動作で拾い上げて、くるりとペンを回すかのような軽い動作で前に向ける。

 呼吸すらままならない、せまい血にまみれた子宮で生まれた。
 誕生日プレゼントは、大きくて黒いつや消しがしてある、一本の牙だった。

 産声は、獣の咆哮のように殺意に満ちていた。

 むやみやたらと、しかし確かな重さと確信をナイフに乗せて振り回した。
 ヘルメットを抑え、今更死を思い出したかのように震える敵兵を斬る。それを最後に世界は静寂と赤に包まれた。
 この時彼は、自分はこういうことをするために生まれたのだとこの時知った。

 静寂が辺りを満たすと、力を出し尽くしたかのように、体がふらりふらりと横に揺れる。メトロノームのように規則的なリズムを刻むわけでもなく、ふと力尽きたように地面へ体を転がした。
 爛々と殺気を体現したかのような瞳が、瞼に覆われて見えなくなる。
 ――ここで記憶は途切れていた。


 左右の足を組み直して、頬杖をつく。あの時の爽快感を思い出すかのように腰に携えられたナイフを引き抜いた。
 一筋の光すら反射しないナイフは、当然彼の顔も映し出さなかった。自分の顔も知らない彼は、少し落ち着いて全身を見る。

 しかしどうしてだろう、自分の体さえも黒と白に染まっていたのだ。
 暑苦しいジャケットには、羽ばたく鳥にも、噛みつく狼にも、横向きのワニにも見えるような、虎柄の迷彩が描かれている。ズボンにも同じ絵柄が描かれており、それをひとまとめにするようにして作業用の長靴のような厚底の靴が履かされていた。
 最後に胸元にかけられた二枚の薄いプレート。はじめは気にも止めていない様子だったが、じっくり見ると、そこには幾つかの単語が彫られていた。

「フリッピー……」

 一つ、名前のようなものをつぶやいた。それ以外にも血液型や番号の羅列が並んでいるが、理解できたのはそれのみだったようだ。
 二枚きれいにぶら下げられたプレートは、彼が生者である証でもある。しかし、それを軽蔑するかのように手の中で弄りながら、引きつったような喜んだような笑みを浮かべた。

「二枚あるってことは、俺はあのとき死んでいないんだな。ならばなぜこんなところにいる。なぜこんな白黒の世界にいるんだ」

 その独り言は、暗闇に吸い込まれて彼の耳に入っているかどうかも怪しい。
 しかしその問いかけに答えるように、先程までオブジェと化していたテレビが、ひとりでに起動音を立てた。

 体を強張らせてプレートを弄る手を止めると、黒い空間にはただ起動音のみが響いた。が、すぐに起動音も消えてしまった。
 暫くの静寂後、ふっと黒い箱に映像が映し出される。
 白い亀裂と雑音混じりの映像は、趣味の悪いタイトルを映し出していた。

「『Happy Tree Friends』……ねえ。どこがハッピーだっつうんだよ、なあ。こんなちんけな世界に閉じ込めやがってよお」

 陽気な音楽とともにオープニングのように流れていく白黒の映像を、さほど興味がなさそうに眺めている。頬杖をつきながら30秒程経ったあと、本編が流れ出した。
 もっとも、あらすじなどはなく、唐突に道が映し出されただけだったが。

 陽気な音楽が消えると、土を踏みしめるような音に混じって、鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 分厚いブラウン管が映し出したのは、平和な町中だった。
 
 眼球の動きに合わせてそのまま撮ったかのよう映像だ。一瞬と切れる映像と、上下に揺れる映像――、よっぽど腕の悪いカメラマンなのだろうか。そのまま一人称視点で映像は進んでいった。

 キャストはもちろん、ストーリーも風景も、なぜこのような映像が映し出されているのか明記されていない。
 しかし他に暇を潰せるようなものもないのだから、この支離滅裂な映像に付き合うことにしたのだろう。
 深く座り直し、組んだ足を地につける。薄笑いで眺める画面は、相変わらず揺れる地面を映すのみだった。

 時計の針が幾つか動くほど時間が経つと、流石に内容が理解できるほど映像も進んだ。

 この映像の主人公は、どうやらこの町に越してきたらしい。揺れる地面は、役場への道。そして役場へ入ると色々手続きをして建物から出る。そしてそのまま家に帰るという内容だった。
 しかし主人公がどんな人物かはわからなかった。視線の高さから男だということはわかったが、役場の
 人通りの少ない小さな町なのだろう。誰とも出会わず、大きな建物もない。特記すべき箇所もない映像だった。が、彼はある部分に釘付けになっていた。

 それは役場で書類を記入するシーンだった。

 一人称視点で進む映像では、主人公らしき人物が書類に自分の名前を記入していた。
 そこに記入された名前は、「フリッピー」。

「このプレートと同じ名前。考えられるのは四つ。一つはこのプレートはあいつのもんであり、俺が奪った。二つ目、これはあいつからの贈りもん。まあこの可能性はないだろうなあ。三つ目は俺と同姓同名。これが一番あり得るか。四つ目は――」

 俺とあいつが同一人物。音にならない声でそう言った。
 自分はここにいて、映像の中の人物はこの箱の中にいる。きっと録画されたものだろう。しかし覚えがないようだ。

 しかし、映像の中の人物が自分ではない。という確信が彼の中にあった。

「じゃあ、なんだ。同姓同名の奴が演ってる映画を観せられてるってんのか。ははっ、悪趣味な話だなあ」

 闇に包まれた世界で、紛らわすように誰に向けるわけでもない言葉を、ただゴミ箱へ放り投げる。
 ポップコーンがあればもう少し観られる代物だったかもしれないが、生憎お菓子などない。

 仕方なしに、硬いソファーに身を転がした。白と黒の無彩色のみ広がる。
 声も顔もわからない、ただ名前だけの存在。そんな映像を時間を忘れたかのように眺めていた。彼には時間がわからないかもしれないし、そもそもそのような概念がないのかもしれない。

「しっかしつまらないもんだな。楽しいとか悲しいとか、んなもん全く浮かんでこねえよ」

 ずっと観続けていた彼だが、時計の針が何周もするほどの時間経つと、さすがに顔に苛立ちの色が浮かんだ。
 いや、それは時間に対しての苛立ちではないのだろう。現に先程から呪詛のようにあふれる言葉は、退屈やつまらないという言葉ではなく――、

「なんだよ、この主人公。へらへら笑いながら平和な世界で平和に暮らしやがって。周りの奴らも大概だ。何が楽しくて笑ってんだよ」

 映像に出てくるキャストへの罵倒の言葉だった。

 映像が進むと、分からなかった主人公の顔が分かるようになった。
 店のショーウィンドー、車のフロントガラス、手洗い場の鏡……、何度か目にした主人公の顔はどれも、非常に神経を逆撫でするような顔をしていた。

 大きい目は細められ、楽しげに談笑している。幸せに酔っているかのような笑顔を見て、彼は何度も悪態をついた。
 前に確認した自分の服装が瓜二つだったことから、四つ目の可能性が高くなってきたことと、主人公が自分と同一人物かもしれないということが更に彼を苛立たせているようだった。

 地団駄を踏み鳴らしながらギラギラ目を光らせている――が、飢えた熊のような目付きで睨まれている当の本人は、知らん顔で子どもたちに囲まれている。……まあ、映像なのだから仕方はないのだが。

 何時間も、何日も、暗闇に包まれた世界で延々と映像が流れるだけの世界。
 時間の感覚がないかのようにただ座っているだけ。そんな世界が崩れるのは、唐突だった。

 彼の目に突如飛び込んだのは、無彩色の赤だった。色相など失ったはずなのに、痛いほど鮮烈な赤。のっぺりと続いてきた世界に異物が混ざった。

 古いテレビは、相も変わらず稼働音を立ててモノクロの世界を映し出している。少年にも少女にも見える格好をした子どもと、サッカーボールを手に立っている少年、長い髪を一つにまとめた女性に、両腕を無くした男性。
 誰もが皆、呆然と突っ立っている。その中でたった一人、風船を手にした少女だけが地面に転がっていた。

 そんな映像に釘付けになっていたが、彼はふと目頭をぎゅっとつまんだ。
 えずくように何度か咳払いをすると、頭を抱えこむようにしてうずくまった。
 充血した目がふらふらとゆれた。彼の体で、鼓動だけがリズムを崩しながら鳴っていた。


「フリッピー……?」

 か細い女の声がした。彼が声のした方へと視線を向けると、その目には痛いほど鮮烈な有彩色が映った。

 血の通った肌に青い髪。よくよく見れば先程テレビに写っていた景色と同じだ。違うのは、白黒ではなく色があることと、声が聞こえること。
 そこから考えられるのは、自分は今映像を見ているのではなく、中にいるということ。

「ねえ、フリッピー。聞こえてるの。ねえ」

 長い髪を一つにまとめた女性は再び彼の名前を呼んだが、反応はない。

「聞いてるの、フリッピー!」

「……フリッピーっつうのは、俺の名前か?」

 フリッピー。そう呼ばれた彼は、突然に色づいた世界に戸惑っていた。間抜けな声で、険悪な表情の女性に問いかける。しかし答えはかえってこない。

「フリッピーは、俺か」

 もう一度確かめるようにして問いかける。その問いかけは目の前の女性へ向けてなのか、それとも自分自身に向けてなのか。
 しかし、二度目の問いかけを言い切らない内に、確信を持ったかのようにニヤリ、と笑った。

「ああ、そうか。俺はあいつであいつは俺なんだ。ははっ、やっと分かったぞ」

「ちょっと、なに一人でブツブツ言ってるのよ!!」

 一人の時間が長かったせいか、彼は独り言が多い。執拗に睨みつける女性の声など、気に求めていない。

「フリッピー、あなたどうしたの。いきなりギグルスを――」

 その言葉とは裏腹に、責めるような声色はしていたが、恐怖や畏怖といった感情はなかった。
 まるでぽっかり、死に対する恐怖というものが抜け落ちているようだった。

「どうして殺したか……なあ。知らねえよ、んなもん。そいつが勝手に死んだんじゃねえの」

 ――彼の服にはべっとりと血糊が付いているのだが、にやにやしながらそうとぼけた。

 そのことが気に触ったのか、更に持ち上げるようにして女性は力を込めたが、生憎細い手足は重心を崩すことすらできない。
 彼は鬱陶しく吠える犬を牽制するかのように手でしっしっと払うと、ナイフを拾い上げた。

 そのことに動揺した女性は、そのまま後ろにいる少年少女を庇うように立つと、横にいた腕の無い男性の服をぎゅっと掴んだ。
 どうやら恋人同士のようだ。お互いがお互いを庇うようにしているのが、彼の目には酷く滑稽に映った。

「……後ろにいるのはてめえらの子どもか」
「この子たちは無関係よ。ただの通りすがりの子たち。だから手を出さないで」
「ああそうか、そうか。みんなで一緒に死にたいのか。んじゃあ望み通り、殺してやろうか」

 ふざけたような態度に、女性は元々吊り上がっている目を更に吊り上げる。先程までは話についていけていなかった男性も、物騒な言葉に体を強張らせた。
 
 空気が割れるような、甲高い悲鳴だった。

 見て逃げ惑う少年少女も、数分後には原型がわからなくなっていた。まあそれは恐らく彼の私怨であり、よく主人公と一緒によく映っていたからなのだろうが。

 時間にしてみれば、何気ない日の何気ない一時だったのだろう。悲鳴を上げる人も、逃げ去っていく人もいない。
 周りにこれ以上赤色を撒き散らす物体がないことを確認したかのように、彼はまた血溜まりへ向かって体を転がした。


 黒に染まった世界で、映しだされている映像を、陽気な顔で眺めていた。
 そこには先程の場所が映し出されており、手ブレのひどい画面は、眼球の動きに合わせて映したかのようだった。

 映像の所々に黒い画用紙を挟んだかのように、点灯を繰り返す。主人公は答えを求めるかのように周囲を見渡してフラフラと歩き出す。

 小刻みに揺れる映像を、光り輝く目で彼はひたすら見つめ続けた。数秒後、映像の主人公は頭を掻き毟り、感極まったような奇声を上げるだろう。

 彼は、もう一人の「彼」より早くこの状況を理解していた。先程、自分が殺戮を繰り返す映像を、「彼」は同じようにここで見ていたのだろう。

 あの感触を思い出すかのように、手を握りしめている。ソファーの軋む音がやけに響き、思わずといった様子で笑みが溢れた。

 赤子は母親の子宮と同じ環境を無意識に求めるのだろうか。

「俺はあいつであいつは俺――、なるほど滑稽な世界だな、ここは」

 きっと今頃、叫びを上げているであろう声と同じ声で呟く。首に下がった二枚の鉄板のうち、一枚を千切り取り、眼前に掲げる。

「暫くここにいるのもいいかもしれねえが、次は一体いつだろうなあ。……ああ、退屈だな」

 金色にギラギラと光る目を細め、にたりと自分の名を読み上げた。
覚醒の話。
やりたいことをやれたので、満足です。



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スワンプマンの箱庭