悪食的アムール


 ごぼりごぼり、と嫌な感覚とともに、私の脚から血が滴り落ちます。白い床に叩きつけられた水音は、あなたの腕へと繋がる管と、同じ音をしていました。
 脚の鱗の一部が剥がれ落ち、代わりに赤黒い穴がぽっかり空いています。そこに当てはまるパーツは今、私の手の中で生暖かい水を纏っています。

 私の下半身は魚なので、うまく地上を移動することはできません。それでもなんとかあなたのもとへたどり着いて、その白いシーツを赤く染め上げます。

 あなたはとてもきれいな顔をしていました。皺だらけで、髪も肌もまっしろ。けれど優しそうな眼球を、その瞼の底に隠し持っていることでしょう。
 今すぐにでもあなたの瞳を覗きたいと思いましたが、それよりもあなたにこの肉を食べてほしいという願望が勝りました。


 海の友達が話していましたの。ねえ、人魚の肉を食べたのならば、どんなに時がたったとしてもその美しい顔で笑うことができるのでしょう。ずっとずっと一緒にいられるのでしょう。

 ああ、あなたの口に覆いかぶさる箱が邪魔だわ。あなたの唇を奪うのは私なのだから、それまで大切に取っておいて頂戴な。
 私はあなたのこと、なんでも知っているのです。だってあの日あなたに出会ったあの日から、ずっとずっと見てきたから。

 あなたはずっとこの部屋にいましたね。白い髪を潮風がさらうこの部屋に。
 はじめてあったときも、あなたはとても透き通っていました。他の人間は黒い髪をしていたのに、あなただけ白かったの。

 あとから、これは「老化」というのだと知りました。
 しかし月光に照らされたこの部屋で、あなたの髪はまるで月を溶かし込んだかのような不思議で綺麗な色をしていました。

「私、あなたのことをお慕い申しております。しかし、私は聞いてしまったのです。風が運んできた声を。ねえ、お慕い申しております……」

 癌という病気は命を吸い上げると聞きました。そんなものであなたの命を奪われてはたまりません。
 私はあなたのその白い髪と白い肌が好きなのです。きっとその深く閉ざされた瞳も素敵な色をしているのでしょう。
 
 食べて頂戴。人魚の血肉を。

口へ入れてやると、口内に入った異物を除去するかのようにあなたは咳き込みました。それでもまだ入れようとすると、あなたは暴れ、外からはばたばたと雑多な足音が聞こえてきました。
 急がなければ。あなたが肉を吐き出すのを横目に全て詰め込み終え、部屋をそっとあとにしました。


 さざ波が洗う海の奥底に私はいました。深い深い底で、あなたが海を訪れるのを待っていました。
 砂浜から規則的に鳴り響く音が聞こえました。赤い赤い警報が鳴り響いて、赤い赤い血を垂れ流して。
 風の噂で聞きました。人魚の血肉を食べた人間はその変化に耐えられず、命が途絶えてしまう。泡になってしまうのだと。

 それでも私は幸せでした。なぜなら、恋が叶わなかった人魚もまた、泡になってしまうから。
 
人外さんとおじいさんorおばあさん。
続きものではないですが、ちょこちょこ書いていこうと思います。



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スワンプマンの箱庭