幸せの断片


 濡れた髪を乱雑に拭きながら、居間で熱心に字を追う彼に声をかけた。しかし、彼の耳には届いていないようだった。

 バーサーカーは、ぎこちない胡座で本――高校の教科書だ――を、まるで娯楽本を読むかのような顔で耽読していた。
 端麗な顔立ちは、まるで少女漫画に出てくる外国からの転校生だとか、異世界の王子様のようだ。正直羨ましい。
 そんな彼が薄い硝子玉のような瞳を熱心に動かしながら教科書を読んでいる様子は、まるで漫才みたいだった。

 本を読むのが好きだと言っていたので、手持ちの書籍を渡そうとしたが、生憎俺は彼が満足できそうな医学だの法学だの堅苦しい本は持っていなかった。
 バーサーカーは彼の、もしくはモデルであろう小説の内容では、確か学者だったはずだ。そんな彼に漫画や雑誌を貸すのは恐れ多い。彼はそんなことはしないだろうが、最悪馬鹿にされかねない。
 なんとかひねりだしたのがこれだったが、意外と気に入ってくれたみたいで良かったと自然とため息が漏れた。

「バーサーカー。風呂空いたんだが、どうする?」

 読書を中断させるのは悪いと思いながらも、肩を揺らして声をかけると、流石に顔が上がった。透き通った双眸をぱちくりさせながら、彼は先程夕食を差し出したときのようなきょとんとしたような顔で笑った。

「サーヴァントである僕は、別にお風呂も食事も取らなくても大丈夫なのだけれど」

「って言われてもなあ……」

 少し前にも同じような会話をした気もするが、そのときはそのまま夕食を受け取ってもらえた。苦い顔でありがとうと笑っていたのは正直迷惑だっただろうかと思ったが、いくらサーヴァントとはいえ、友人をそのまま放置しておくのもなんとなく気が引ける。
 そのような旨を伝えると、また同じような顔で教科書を机においた。

 彼が立ち上がると、目線はちょうど俺と同じくらいになった。顔立ちも美少年といって通じるぐらいで、ますます年齢がわからない。
 亜麻を溶かしこんだような滑らかな髪が、ゆるりと揺れて、綺麗だ。なんて、男の人に対して言う言葉ではなさそうだが、それだけ顔立ちが整っている。
 ふと、彼と目があった。

「……もしかして、顔に先程頂いたおにぎりでも付いてるのかな」

 不躾に見つめすぎたらしい。白い肌がほんのり紅色に染まった。恥ずかしがりながら、口元を確認しているのを見ていると、なんだか笑いがこみ上げてきた。
 申し訳ないと思いつつ面白いので放置していると、俺の意図に気が付いたのか、呆れたような目で見つめ返された。

「聖杯の知識では、日本では浴槽というものに湯を張り、中に入る……であっているかい」

「ああ。そういえばイギリス人はあまり風呂には入らないんだったか」

 書籍の出版とバーサーカーが生きていた時代が一致するなら、今よりも少し前の時代――19世紀頃に生きていたのだろう。小説通りなら彼は召使が雇えるほど裕福だったはずだ。
 贅沢な貴族には風呂やシャワーという文化はあっただろうが、しかし現代技術とはかけ離れたものだっただろう。そう考えると、これからのバーサーカーの反応に少し胸が踊ってしまう。

 俺が風呂場の扉を開けると、バーサーカーは予想通り感嘆の声を漏らした。

「ほら、これが風呂だよ。これがシャワーで、ここをひねるとお湯が出る。温度調節はここな。多分これぐらいで大丈夫だと思うけど、そこらへんはお前の好みでいじってくれて構わない」

 簡単に説明すると、バーサーカーは目を好奇心で染め上げた。学者らしい目を爛々と輝かせながら、一刻も早く現代技術を体験しようという身の翻しようだ。呆れを通り越して尊敬するよ。

「あー……入り方は分かるか。って言っても文化が違うからな」

 シャワーしか浴びない国もあれば、浴槽内でシャワーを浴びる国もある。
 時代が違えばなおさら。バーサーカーも少し不安そうな顔をしているし、俺も戦いが始まる前に窒息死しましたなんてオチは嫌だ。どこの滑稽な三文芝居にだってありはしないだろう。

「一緒に入るか。って言っても浴槽が狭いからなあ。外で見ておくよ。何かあったら言ってくれよな」

「すまないね、巽。聖杯の知識があるとは言え、実際に体験するとなるとズレが生じてしまって……」

 不安そうな顔をさせてしまった。やはり迷惑だっただろうか。まあ確かに俺のエゴではあったが……と考えいると、慌てて「でも楽しいよ。直接文化に触れる機会はあまりないからね」と付け足された。これが英国紳士か。

「服、脱げばいいんだよね。ああ、洗濯もお願いできるのかい。ありがとう」

 と受け取ってみたはいいが、庶民中の庶民である俺から見てもかなりの高級品だった。これは流石に、洗濯機で不躾には洗えないだろう。無茶苦茶高そうだし、万が一を避けてジャケットはブラシでホコリを払うだけにしておこう。
 他にもズボンやらシャツやらスカーフやらを受け取ったが――ちょっと待て。

「バーサーカー、俺まだここにいるんだけど……ちょっ、脱ぐのは待て、脱衣所から出るから待て」

 慌てて静止するが、特に気にしていない様子だった。
 現代日本では、一般的に全裸という格好は好まれないのだと説明すると、とりあえず腰にタオルを巻いてくれた。意外とおっちょこちょいなところあるだろお前。

「すまない、サーヴァントには裸同然の格好をした者も居るから……」

 興奮が冷めきっていない様子で、しかし項垂れて謝罪された。
 召喚されたのが彼で良かったと、本当に良かったと思う。間違いなくニュースで世間の目に晒されることになる。

 他にも獣耳や鎧騎士などなど。まるでハロウィンパレードのようなサーヴァント達らしいが、この東京にそんなものが召喚されたらそれこそ別の意味でニュースになるだろう。……されていないよな。

「えっと、じゃあここに浸かればいいんだね」

「ああ。でもちょっと待て、先に体を流しておかないと」

 浴槽に身をつけるその前に、お湯をかけて汗を流してやる。お湯がシャワーヘッドから出てくるのに驚いたのか一瞬身を引いたが、すぐにリラックスした様子で頬を緩めた。


「ふふ、とても心地が良かった。あまりできない体験をさせていただいたよ」

 十分暖まった様子のバーサーカーが、タオル片手に髪を拭く。ほてっている体には、俺の高校のジャージが着せらている。
 とりあえずかき集めてきた服の中で気に入ったのがこれらしい。なんでも生地が興味深いだの、巽の名前が書いてあるのが面白いだの。
 サイズが心配だったが、少し大きめのジャージを買っておいてよかった。まあぎりぎりだが。つんつるてんな裾には目を向けないことにしよう。身長は変わらないはずなんだがな。
 満足そうな笑みを浮かべる彼は、服装のせいか、同級生にしか見えない。

 やはりジャケットやシャツ等は洗えないので、とりあえず消臭剤を吹きかけておいた。クリーニングに出そうかと思ったけど、あまり汚れていないからと遠慮された。

「……そんなに楽しかったか」

「ああ。それにこれから先はこんな余裕はないだろうから。うん、楽しかったよ」

 そう言って少し寂しそうな顔をした。召喚してから今までの間、彼から教えてもらった「聖杯戦争」について。
 これは誰か一人が残るまでの、正真正銘の殺し合いだ。例外はあれど、結果的に残るのは一組のみ。
 倒される、は死に直結する。確かに命懸けの戦いの中で、こんな日常を味わうことはできないだろう。

 居間に戻って茶をすすめる。ぎこちないが少し型についてきた胡座で座ると、彼はちらりと棚の方に目をやった。その先には、小さな木製の写真立てがあった。

「……妹が、居るのかい」
「別々で暮らしているけどな。ああ、居るよ」

 すると少し目を伏せた。影が落ちるほどの長いまつげに隠された瞳は、濁った池のように何も映していない。

 見せてもらってもいいかと尋ねられ頷くと、薄いワイングラスを持つようにして手に取った。写真には妹と俺がツーショットで写っている。あまりに真剣に見つめているもんだから、自然と静寂が訪れる。数分経った頃、ふと彼は口を開いた。

「ねえ、巽。たしかに君は巻き込まれた一般人に過ぎないよ。でもね、僕は君とともに戦いたいと思ってる。僕の、正義をかけて」

 濡れたタオルを首にかけてそう言った。じっとりと濡れる瞳は、まっすぐ俺を見つめていて少し気恥ずかしくなってしまう。

「もちろんだ。よろしく頼むよ、バーサーカー。聖杯戦争を俺達の手で止めよう」
「ああ、マスター。仰せのままに」

 ふわりと笑う顔は相変わらず王子様のようだった。ふと落ち着いた翠の中にゆらりと、鮮紅色の瞳をギラつかせる飢えた獣が見えたような気がした。

 よく考えれば、軍隊一つ相手にできるような奴らに俺が敵うはずがないだなんて分かるはずだ。しかしこのときだけは、自分の正義を信じていたかった。
 視界の端で微笑む写真立てを、静かに伏せた。
最近お熱な沼です。
蒼銀のフラグメンツから、バーサーカー陣営。
教科書を読んだり風呂に入ったりをやりたかった。



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スワンプマンの箱庭