四号室


『――君を、羨ましいと思ったことがある。
 何も考えず、ただひたすらに道を踏み外す。道徳心も建前も、他人に対する配慮もない。罪悪感なんて以ての外だ。それが僕の憧れだった。

 自分が恥じた悪逆を、愛しいと思うようになったのはいつからだろう。
 濃霧に包まれたあの街で、僕らは確かに善と悪を分け合ったはずだった。僕が作戦を考えて、君が実行する。小さな子どもの小さな悪戯のような、美しい悪逆だった。

 ねえ、まるで昨日のように思い出せないかい。君が一本のステッキを手折ったあの日――。あれから全ては変わってしまったんだ。分け合ったはずの善悪は混ざり合い、変質した。
 今回も、同じようなものなのだろう。相違点と言えば、僕達がサーヴァントであることぐらいかな。

 ヘンリー・ジキルと言う名の英雄が消え、エドワード・ハイドと言う名の反英雄が残るのか。
 ヘンリー・ジキルと言う名の英雄が、エドワード・ハイドと言う名の反英雄と混ざるのか。
 できれば後者を望むよ。そうだとしたら、また僕と君であの美しい悪逆を繰り返そう。

 今度はあのときのように突き放したりなんかしないさ。二人でずっと一緒に、それこそ永遠に続くようなこの時間を楽しもうじゃないか。
 ヘンリー・ジキルの人生は、エドワード・ハイドへ託そう。
 僕は、あの不幸なヘンリー・ジキルの生涯を閉じる。』

 マンションの一室で、ハイドは小さな執筆机の上に座っていた。本来座るために作られた椅子は大きく吹き飛び、ただの木の板となっていた。
 几帳面な折り目がついた手紙を、その折り目通りに折る。それを、机の上で乱雑に引き裂かれた白い封封筒に、鍵をかけるように入れた。

 自分にかけられた眼鏡を外し懐に入れると、そのまま鏡へと向かった。
 鏡に映る男は、それはそれは醜かった。端麗な顔立ちではあったが、纏う雰囲気は獣そのもの。見開かれた瞳孔と歪んだ口角が、とても言い表せない不快感を与えていた。

「……体が、軽いな」

 鏡に指を合わせ、そっと呟いた。まるで自分の中のジキルを見透かすようにして、そして諦めたように視線を外した。

「やっと……やっと体を手に入れたのか……。でも、なンでだろうな。全然気が乗らねェ……」

 憂鬱な瞳に乗せられた赤は、存在を主張するかのように爛々と輝いていた。自分の色であるはずなのに、それを一瞬でも目に入れたくないかのように瞬きをした。
 小さな声で片割れの名前を呼ぶ。無理矢理詰め込まれていた魂が消えていた。今までやっと詰まっていた体はがらんどうとしていて広すぎた。
 何度瞬きを繰り返しても、赤が緑に変わることはない。大袈裟な動作で鏡を叩くが、いつもの嵐のような荒々しさはなかった。信号機とは違い、いつまでたっても警告の赤を示すそれを手で覆い、静かにため息を吐いた。

 その日を境に、彼の中から『彼』が消えた。

 何をやっても、以前のような狂暴さをその身に宿すことは無くなった。マンションの薄い壁を考えなしに叩いてみたり、時折迫る異形にナイフを振りかざしたりしてみたが、閉鎖的なこの空間では、善悪を推し量るものはいないのだ。
 やがて彼は閉口した。善であるジキルが消えた今、悪であるハイドの存在意義もまた揺らいでいる。ジキルは自分の悪に反する正義を遂行し、ハイドもまた、その正義に反する悪を犯す。自己完結していた価値観だったからだ。

 革の禿げたソファに座り、寝っ転がってみる。年季が入り、更にナイフによってズタズタにされたソファは、大きく喚くように軋んだ。
 棚は倒れ、カーペットの長い毛はとうの昔に禿げ、ぶら下がったランプははじけ飛んでおり、天井にも大きく抉った跡がある。
 唯一何かに守られるように、しかしそれを中心に嵐が巻き起こったかのようにひっそりと佇む鏡が一枚あった。

「……なあ、うるせえ坊ちゃんよォ。てめえ、あんなにギャーギャー騒いでたじゃねェか。今更だンまり決め込むとか、どういう了見ですかァ?」

 革手袋に付いた、出どころのわからぬ血を鏡になすりつける。歪む液体はどこまでも赤く、不透明だった。
 壁一面真緑に塗られた部屋に居ると、赤が見たくなってしまうという都市伝説がある。ならその逆もまた然り。

「一体どこほっつき歩いてンだよ。今までずっと一緒だっただろうが。今更ハイサヨナラで済むと思ってんのかァ?」

 鏡の向こうへの独白を零す。若干上ずる声を押し隠すようにナイフを鏡の突き立てようとして――よろけた。わざと外したかのような動作で、不安定な軸に任せて転がった。
 地面に膝折ったまま、ふと懐から眼鏡を取り出した。黒縁に薄いレンズがはめ込まれたそれを、丁寧な手つきでかける。まるでジキルのように。

 俯いた視線を再び鏡へ投げかけると、そこには緑の瞳をした穏やかな青年の顔があった。焼けるように荒々しく、凍えるように冷徹なその瞳を細め、顔に似合わぬ声で嘲笑った。
 そして声高々に、彼等は言った。

「オレはエドワード・ハイド。善を信じ、悪を愛する」
みんな大好きオガワハイム。



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スワンプマンの箱庭