誰そ彼
目の前がクラっとする感覚。影を作るように手を添えると、ガラスの向こうで空が赤く燃えているのが見えた。夕暮れ時の店内は痛いほど静かだった。
いつもならこの時間でも話し声が聞こえるはずなのに、ここ最近はめっきり客足が減った。
もともと店員一人とマスターで切り盛りしていた店だから、この静けさには慣れている。それなのにあの感覚――両手両足を一生懸命に動かしてもまだ足りないあの忙しさは、未だ心を締め付けている。
ここ最近は上の階の事務所もやけに静かで……。そういえばあの少年の顔も見なくなった。
忙しいとかコーヒーが飽きたとか色々あるのかもしれないけど――きっと居なくなったのだ。なぜかそう思った。
ちらりと時計を見ると、閉店30分前。もう誰も来ないだろうとテーブルを拭くために布巾を濡らす。もうそろそろ街も白くなる時期だからか、水が冷たい。一人でこの数のテーブルを拭くのは少し面倒だが、一つ一つ丁寧に拭いていく。
単調な作業で頭がぼうっとしていると、ふとつい先日まで一緒に布巾を握っていた彼を思い出した。
「まさか、やめちゃうとはなあ……」
彼に甘えていたのかもしれない、とテーブルを拭きながら思う。店内の掃除も皿洗いも、彼が居なくなってから仕事が倍以上に増えてしまった気がする。
彼はアルバイトだから、こうなることは必然であって……。だんだん減っていく彼のシフトの時間からも予想はできていたはずなのに。たった半年で彼はするりとこのポアロに馴染んでいた。
はじめ彼にあったとき、チャラい人だなあと思ってしまったのを思い出す。こんな人がどうしてかなあ、なんて失礼なことを考えたりもしたが、予想と反して彼の手付きは非常に鮮やかだった。
そういえば、入って一週間ぐらいは、コーヒーを淹れる私の隣で、メモ帳を持って何やら一生懸命手順を聞き、すごいですなんて褒めるものだから微笑ましかったなあ。その時は熱心で愛想の良い新人というイメージだった。少し恥ずかしかったけど。
まあ、初めて彼が淹れたコーヒーはこんな素人の話を聞かせて申し訳ない!ってぐらい美味しかったから、お世辞なのか本心なのかは怪しいけど。
私だって一人暮らしだから自炊はするし、何年もここにいるからコーヒーだって上手に淹れられるはずなのに、彼の料理を再現するのは非常に難しく、勝手にアレンジを加える彼を何度か叱った記憶がある。
失って初めて気づくことってあるのかもしれない。当たり前のように彼の名を呼べば当たり前のように笑顔が返ってきた。欠勤早退が多い以外はやる気のある人だった。それは多分致命傷なんだろうけど、その分招き猫として活躍していた。
楽しかったんだけどなあ、彼との仕事は。
こういうとき人は記憶を辿るのだろうけど、私の頭には、誰かわからないもやもやとした記憶しかなくて、私と彼の時間ってこんなにも短いものなのだと自覚させられた。
特徴的な褐色の肌と色素の薄いクリーム色の髪。そういえば目も青かったような……深い青というよりも理知的で聡明な青で。思い出せるのはそれぐらいだった。
人を忘れる順番、というのを彼に聞いたことがある。まず初めに声。次に顔。最後に思い出。私はもう、顔も思い出せるか怪しかった。
たった数週間で薄情だとは思うけど、写真もなければ動画もない。店員の名簿には名前と電話番号が記されているが、あの日以来一向に繋がらない。
改めて思い出せば、彼は嫌に目立つ顔なのに、霧の中にでも立っているかのようにあやふやな人だった。どう考えても彼の車はスポーツカーだったし、私立探偵って言ってるけど毛利探偵のように依頼を受けているところを見たことがない。あの眠りの小五郎と比べるのが悪いのかもしれないけど。そのわりにはよく探偵の仕事を理由に持ち出して。本当は裏で大変なことをしているんじゃないかと何度も思った。それを確かめるすべはないけれど。
素性の知れぬ人だった。不自然なほど酷い怪我をいくつも作ってくるし、相変わらず無断欠勤するし。でも、不快感はなかったなあ。とても楽しかった。
霧がいつか晴れるように、やがてみんなの記憶からも消えていくのだろう。黄昏の暗闇のように、彼の顔はもう思い出せなかった。
「あなたは一体、誰だったんですか……」
執行されました。
居なくなった安室さんと薄々気がついていた梓さん。
初めて書くあむあずがくっついていない……。
居なくなった安室さんと薄々気がついていた梓さん。
初めて書くあむあずがくっついていない……。