とある日の平和な空の下
まだ暑さの残る気温が、店内に一瞬入り込む。
ついさっき店内にいた最後のお客さんがドアベルを鳴らすと、店内は静まり返った。次にそのベルが鳴るまで、ポアロの店員たちは休憩時間となる。
食器を片付けた梓が布巾を手に取ると、料理をしていた安室が声をかけた。
「梓さん。少し遅いですが昼食にしますか。ナポリタン用の細い麺ですか、カルボナーラとかどうでしょう」
「あっ! いいですね、お願いします!」
彼女がそう答えると知っていたのか否か、既にチーズの甘い香りが店内に漂い始めている。今日の賄い担当である安室は、梓の言葉に任せてくださいと返した。
その言葉ににじむ自信の通り、安室の料理の腕はマスターと梓が口を揃えて褒め称えるほどである。ポアロ看板メニューにもいくつか安室の手によって作られたものや改良の加えられたものもある、実績のある腕だ。
余談だが、売上が伸びる反面、梓が作った料理と安室が作った料理では味が微妙に違ってしまうのが、梓の悩みのタネでもあったりもする。そこが個人経営の喫茶店の良さでもあるが、常連客が微笑ましく笑ったその指摘に日々梓は頭を抱えている。閑話休題。
先程の客が座っていた席は念入りに、あとはホコリを払う程度で台拭きを済ませると、店内に甘い香りが漂ってきた。香りに誘われるようにキッチンに近づき、安室の手元を覗き込むと、もう盛り付け待機中といった風で、梓は思わず息を深く吸い込んだ。
「わあ、いい匂いですねえ。これはおいしそう……。これは毎日食べたくなる……。ハッ! 安室さんはもしかして宇宙人か何かですか!」
「う、宇宙人……?!」
人差し指をピントたて、まるで頭上に電球が浮かんでいるような表情をする。電球がポンと灯るように飛び出たポアロの天然看板娘の単語に、ぎょっとした目つきで固まったのち、安室は堪えきれず後ろを向いた。
梓の視点からはかすかに肩が震えているのが見えるだろう。一瞬ぷりぷりと怒る姿勢を取ろうとしたが、安室の楽しそうな様子をみると、柔らかい笑みを浮かべた。
「コーヒー淹れますね! いつものでいいですよね?」
「はい、お願いします」
梓達のカップは、お客様用とは別に個人で持ち寄っていた。安室はお客様用とさほど変わりがないが、心なしか大きめのマグカップ。梓のは猫の足跡がてんてんと入った、いかにも彼女らしいマグカップ。それぞれ戸棚から取り出しコーヒーを入れると、カウンター席にはお皿が二組とフォークとお箸が並んでいた。
「いつものブラックですよね?」
「はい、お願いします。あ、梓さんはフォークですよね?」
「はい!」
お箸の前に座る男は、まだ食事に手を付けて付けていない。待て、と指示された犬のようだ。断じて安室は犬ではないし、梓は待てと言っていないが。
忠犬安室公の隣の椅子を引き、梓は席に座る。ゆったりとした店内の座席は、遠くはないが、肘が当たらない程度の程よい距離が取られていた。
「いただきます!」
「いただきます」
「……えへへ、揃っちゃいましたね」
「ですねえ」
特に合図をしたわけでもないが、自然に揃う声に、二人は目を合わせてくすりと笑った。
さあ、お手並み拝見といきましょうか。と梓は意気揚々と腕まくりでもするかのように食事と向き合う。その様子を、料理中に味見をした安室は、いたずらを仕掛けた子どものようにニヤついた顔で見ていた。
フォークでくるくると麺を絡め取ると、濃厚にソースが絡んでいるのにすんなりとまとまる。上手に味が染み込んでいて、麺は程よい歯ごたえ。口の中に広がる味は、くどいだけでなく丁寧な深みがある。
梓の脳内に、ちらりと彼の手元を見たときに材料と一緒に並べられていた、お味噌がよぎった。きっとそれが隠し味なんだろうと咀嚼しながら味を分析する。ハムサンドといい、彼はどうやら料理に凝るタイプらしい。既成品の味が見当たらない。どこをどう舌に当てても、溢れるのは丁寧に計算され尽くした旨味のみだ。
ぱちり、と一度フォークを置き、芝居がかった動きでペーパーナプキンを手に取る。口の端についたソースを拭い、丁寧に畳み、端の方へ追いやってため息を一つ。
「百点満点花丸です……。今日からアズサンガイドにはこのポアロの賄いが三ツ星で載ることでしょう……」
「――フッ」
隣で表情筋を全稼働させて見守っていた安室も、驚異の天然娘には敵わず、思わず吹き出した。
「アッ! 今笑いましたね!? 天下のアズサンガイドですよ!! ううーくやしい……美味しいです……白旗振ります……」
「ふふふっ――、お気に召したようで光栄です。でも、宇宙人といい、アズサンガイドといい、本当に、ずるい……あはははっ」
先程の宇宙人発言もぶり返したのか、自滅した男はとうとう椅子から崩れ落ちながら身をよじって笑い始めた。芋虫と化した安室に追い打ちをかけるように、呼吸はヒッヒッフーですよ! と言うあたり、梓も確信してやっている。多少天然は入っているかもしれないが。
現にニヤニヤと笑う梓の隣で、ドシリと腹筋に重いものを食らいとうとう尺取虫になった男がのたうち回っていた。
「ハアー……もう、お行儀が悪いですよ!」
「ふふふ、はあい!」
安室が一旦仕切ると、また静寂が訪れた。ふたりとも、口の中に物を入れて喋るのは好まないタイプだ。沈黙を苦と感じない間柄というのもあり、黙々と食事は進む。
梓はふと、ちらりと隣の男の手元を覗き見た。彼は気が付いていないのか、それとも意に介していないだけなのか、器用にくるくると箸に麺を絡ませて食べていた。
お手本のような姿勢と、少し行儀の悪い箸使い。そこまでして箸が使いたいのか安室透。なぜなのだ安室透。と梓が時々突っ込みたくなる程度によく彼は箸を使う。
箸と金髪と東洋人顔というエキゾチックな彼の容姿の組み合わせがミスマッチで、失礼だと思いながら梓は笑うのを堪える。
しかし、態度に出てしまっていたのか。それとも探偵の洞察力というやつか。JKの噂話もどこ吹く風の安室も、流石に横目で梓を見やった。
「もう、なんですか梓さん」
「いえ、すみません。安室さんお箸好きですよねえと思って」
「ああ、なんとなくお箸のほうが使いやすくて……」
「――もしかして意外と日本人脳?」
「日本人脳って、梓さん……」
「だって安室さんって、おしゃれなフレンチとかを食べてるイメージで……」
梓がそう言うと、安室はきょとんとした顔でそちらを見た。
それを意に介していない彼女の脳内が、賄いで出てくる食事を頭の中で再生する。安室お得意の看板メニューはサンドイッチ。これは洋食だ。次に半熟ケーキ。言わずもがな洋。手当たり次第に再生された安室特製料理は……すべて洋食に分類されるものだった。まあ、喫茶店で魚や漬物というのもおかしな話だろうが、しっかりとそのイメージが梓の頭には張り付いてしまっていたのだ。
ワインの香りを優雅に楽しみながらフルコースに舌鼓を打つ……という典型的なセレブ像を口に出すと、梓の隣でブフッと異音がした。じとーっと梓が目をやれば、安室は備え付けの紙ナプキンを数枚手に取りながら、すみませんと心なしか小さくつぶやいた。
「……大丈夫ですか?」
「ええ……。ワ、ワインはあまり飲みませんし、一喫茶店員がフルコースというのも……。というか、僕、家ではほとんど和食ですよ」
「エッ、てっきりおしゃれなイケメンはそういうものだと……。ああ、変な意味じゃないですよ?」
そう言うと、安室さんは今度こそ遠慮なく吹き出して、耐えられない!といった風に笑った。
今度はなにかおかしかっただろうか、と首をかしげる梓が、きょとんもなにも……と言われる番だった。
彼は予想以上にツボにはまってしまったようで、カラカラと笑って肩を震わせている。
「そうですかッ、梓さんの、イケメンは、ワインにフルコ――」
「もう! 笑わないでくださいよ! 安室さんが和食ラヴなのは意外でしたけど!」
「ラヴってほどでは……あるかもしれませんが……。まあ、ポアロではなかなか作る機会はないですよねえ。喫茶店ですし」
「ウ、確かに……。でも、好きですよ。安室さんのご飯」
「――ありがとうございます」
カランと安室の手の中で、溶けた氷が鳴った。かすかに照れの混じった笑みを浮かべる彼には気づかず、梓は腕まくりをして立ち上がった。
「さあて、片付けして、午後からも頑張らないと! そういえば、今日は近くの高校がみんなテストらしいので……これはおやつ時が大変ですね! あ、食器片付けますね」
「お願いします。それじゃあ僕は机拭きでも」
ひょい、と安室の前から食器を取り、流しに入れてもこもこと皿洗いを始める。そんな梓を横目に布巾を持つと、安室は端の方から順に机を拭き始めた。
――よくある平和なポアロの日常だ。
安室は動かすたびに引き攣る肩をそっと抑えた。包帯で巻かれたそこは、かすかに血と消毒液が混じった匂いがすることを、彼女は知らないのだろう。
「今日も平和だな」
「ん? 安室さん、なにか言いました?」
「いいえ? さあ、午後からも頑張りましょう」
「そうですねえ! あ、台拭きが終わったら、在庫の確認をお願いしてもいいですか?」
「――了解です!」
安室が茶化すように右手を太陽に向けるようにして額に添えると、店内に笑い声が響き渡った。
あむあず未満のポアロ組。
平和にお昼ご飯を食べる二人を書きたいなと思っていたら、こんなのができました。
今、晩ごはん版を執筆中なので、次はおやつを書きたいですね……。
平和にお昼ご飯を食べる二人を書きたいなと思っていたら、こんなのができました。
今、晩ごはん版を執筆中なので、次はおやつを書きたいですね……。