そして、彼は居なくなったのだ
眼前に突き付けられている銃口を、バーボンはただ見ていた。
ちょうど、人差し指がすっぽりと入りそうな大きさのそれは、焦点をあわせることなく、かたかた震えている。その震えは、銃を握る者の手からきていた。
銃口を向けられているバーボンは猫のような目で笑っているのに反して、銃口を向けている――降谷は、玉のような汗を額に貼り付け苦痛に耐えるように目にしわを寄せていた。
「ほら、さっさと撃ってくださいな。これは処刑なんですから。と言っても、絞殺ではなく銃殺になりそうですが」
バーボンはそう言った。処刑、と降谷の口が言葉をなぞる。
これを処刑だと言うなら、降谷が死刑執行人で、バーボンは犯罪者なのだろう。賛美歌もお経もない、執行室でもない、ただただひたすらに黒く塗りつぶされたような世界で、二人だけが薄暗いスポットライトを当てられたようだった。
拘束もされていないのに、バーボンの両手首は腹の付近で交差して、不自然に宙に浮かんでいる。両足も後ろで同じような拘束が施されている。座ってはいるが、見ようによっては火に炙られるのを待つ家畜のようにも見える。
おそらくこの世界による何らかの干渉によって固定されているのだろう。
「ねえ撃って!」
目の奥をギラギラとさせながら、バーボンはまるで子どものように早口にまくし立てた。
「それとも、撃てないんですか?――降谷零ともあろうものが!」
「うるさい! 名前を呼ぶな! 盗聴されていたらどうするつもりだ!」
その名を口にした途端、声を張り上げながら降谷は威嚇射撃を行った。四発分の弾道が、バーボンの体をかする。
正気の人間の言動ではなかった。とてもこの悪夢のような空間で盗聴されているはずもない。さらに威嚇射撃を四発も行うのは降谷の常識を大いに裏切っていた。
肩で息をする降谷を見て、バーボンは熱のこもったため息をついた。
「当てないんですか? 早く当ててくださいよ」
そう言いながら、大きく胸を張るようにして自身の急所を銃口の前に晒す。このまま降谷が引き金を引けば、間違いなく絶命するであろう位置に。
そのことにひどく怯えた様子で降谷は銃を下ろそうとするが、再びバーボンが当ててと繰り返した。
まるで呪詛のような言葉が、降谷の腕に絡みついていく。腕は震えているのに、銃口は今にも胸を撃ち抜かんばかりに照準を定めていた。
降谷は小さく舌打ちをしたあと、目を閉じてゆっくりと深呼吸をする。瞬いた目は、幾分か正気を取り戻していた。
「――さっき、処刑だと言ったな」
「ええ」
「お前、知っているのか? 日本での処刑の仕方を。誰が殺したかわからないようにするんだよ」
「でも自分は銃を握っている。そうおっしゃりたいんですね」
降谷は小さくうなずいた。グレーブルーの瞳はゆらゆらと揺れ、瞳孔が収縮している。顎も唇も震えていて、今にも悲鳴を上げそうだ。
外すまいと念じているような表情で降谷が足を踏み出せば、二人の距離はじりじりと詰まっていく。銃口が額にごりりと当たり、彼は息を詰めた。
降谷の呼吸がひどく荒いのが、バーボンの耳にも届く距離だ。それはまっとうな精神を保っている人間の息遣いではないにも関わらず、バーボンは酷く嬉々とした様子であった。降谷が苦しむ様と反比例して、彼は笑みを深めていく。
それに気がついたのか、降谷は鼻で笑った。
「なにが、そんなに楽しい。僕が震えているから? おもしろいか?」
「おもしろい? いいえ。ねえ。僕、うれいんですよ。あなたが僕をころすために苦心していることが」
降谷が顔を顰めて問いかけると、その問いこそがおもしろいと言うように笑った。
興奮からか、言葉がやや舌足らずだ。こくり、と汗ばんだ喉が上下する。
いままで臭いものに蓋をするように避けられていたが、ただこの一瞬は自分を見て、意識し、慈しんでいるのが嬉しいのだと。バーボンはそう言った。
「ですが。これは処刑です。私情は不要だ」
「……お前は生にしがみつくやつだと思っていたが」
「まあ、そうかもしれませんでした。ですが、もういいんです。僕は死ぬ必要があるんですから」
「……僕は、死んでほしくない。ひとりはいやだ」
これ以上失いたくない、と心の奥底まですべてさらけだしたような声で言った。すべてのかおがはがれおちて出てきたのは、嗚咽を漏らしながら震える小さな子どもだった。
これがあの降谷零の本音かと、バーボンはため息をついた。ずいぶんと崇高な正義を掲げていたのに皮を*いてみればなんだ、ただの人間であった。それが彼の原動力足らしめているのかもしれないが。
「だからこそ、僕は不要なんです。これからきっとあなたの功績は讃えられるでしょう。そうしたら……黒い部分は邪魔だ」
「だから? ……お前も、俺をひとりぼっちにするのか」
先ほどとは違い、低くやわらかい声でバーボンはさとした。その表情はおだやかで、いっそ自愛にさえ満ちていた。
とうとうもどれないと気づいたのだろう。降谷の頬に、一筋の涙が伝った。まるで表面張力でとどまっていたが、耐えきれずに零れたような。さびしい泣き方だ。
「……僕はあなたです。あなたが僕を忘れない限り、僕らはいつまでもあなたの心にいるでしょう」
「なら、ずっと守っていてくれよ。所詮俺は――」
「それでいいのか。降谷零」
バーボンは立ち上がって、降谷の頬にそっと触れた。互いの瞳の奥に、自分そっくりの顔が泣いている。拘束は、いつのまにかほどけていた。
「言いましたよね。零。中身の溜まったゴミ箱は空にするべきだ。僕の役目は終わったんですから」
涙をちろりとなめて、互いの唇をついばみあう。優しく慈しみあう二人は、別れを惜しむ恋人のようでもあった。
バーボンの胸にたしかな冷たさが押し当てられえる。銀に鈍く光る拳銃は、この距離なら確実に命を経つだろう。けれど先ほどとはうってかわり、二人は目元を緩め微笑んでいた。
「今までお世話になりました」
「こちらこそ。バーボン、おつかれ」
いつのまにか震えは止まっていた。
そして零は引き金を引いた。